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文在寅大統領が政権を取り、最初の試練は北朝鮮のミサイルと核であり、トランプ大統領と金正恩の応酬だが、そこに慰安婦像や徴用工問題などが再び持ち上がる。日韓が連繋しなければならない時にそのような問題を持ち出す韓国のメンタリテイに我々日本人は戸惑うばかりである。この本で武貞氏はヒントを与えてくれる。我々はあまりにも韓国の立場や習性、北朝鮮の思惑が分かっていない。彼らの奇妙な社会的反応の数々には長い歴史がある。政治や裁判、報道などそも我々日本人は不思議に思うことが多い。そもそも韓国は事大主義の国。かつては中国の属国、次は明治維新と近代化に成功した日本、ロシアにも色目を使い日露戦争後日本に併合された。戦後はアメリカ、そして今は中国なのである。

中国の対日戦勝パレードにも朴槿恵は参加、日本を相手にするより中国にシフトした韓国にとって、中国経済の景気低迷が響いている格好だ。特に、韓国経済の中心的であるサムスンは、中国製品に押され、スマホの販売が伸び悩みなこともあり先行きに厳しい見方が出ている。それに伴い、ウォンの下落、対中貿易の減少は1兆6千億円にも上る。さらなる通貨安は、株価の一段の下落や景気下振れリスクにつながる可能性が高まっている。輸出の不振には中国経済の成長率低下、世界的な需要低迷が大きく影響している。同時に、韓国経済の競争力低下も無視できない。

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しかしどこでその勝算は狂い、韓国は「日韓合意」へと舵を切ったのか。その背景を丹念に検証しながら、日本、韓国、中国、北朝鮮、そしてアメリカというアクターたちが、今後、極東で演じる勢力争いの構図を本書は描き出していく。朝鮮半島問題は6ケ国協議でなければ進まないと思うが、北朝鮮はこれに乗って来ない以上別の方策が必要だ。今のところ米朝協議しか道はない。

強いものにへつらい、弱い相手には高圧的という人がいたら、嫌な野郎だと思うが、国際政治の上ではこれが宿命である。韓国の戦略はまさにそこにある。日本人は戦略的な策を巡らすことが苦手である。韓国はそうした日本を知らない。一方韓国人は日本を腹黒く、常に大陸進出を狙う国と思っている。この辺りのギャップは大きい。勝ち馬に乗るのは悪いことではない、外交の成功だと韓国民は思っている。

何故、朴槿恵元大統領は慰安婦問題において、日本と協定を結んだのか。それは中国に依存する道をとろうとして失敗したことの影響である。さらに、北朝鮮のミサイルの急速な進化に対するTHAADの配置で中国から対抗措置をとられたことは韓国にとって打撃となった。中国経済の減速は韓国には経済の停滞を招いている。THAAD問題以来中国からの観光客も日本からの観光客も激減を招いた。現代やサムソンといった財閥大企業はあっても、中小企業が育っていない産業構造が慢性的な失業を生んでいる。こうした問題を逸らすためには常に日本の過去の朝鮮支配のことをもちだすのである。
1. 韓国は北朝鮮との統一にこだわる理由は、核大国になり、日本に優位な立場になりたい。
2.北朝鮮は核兵器を保有し、統一に向けて韓国が従属してくることを狙っている。
3。ユーラシア大陸の入り口として、ロシアと繋がり、シベリア開発やヨーロッパへの東の窓口になり、日本にも有利な立場に立てる。

朴政権は経済の好調な時期に以上の幾つかの錯誤によって政策を誤った。北は崩壊しない。

体制の違い、韓国は太平洋、東シナ海に向かう海洋国家である現実を無視。自国の産業構造の脆弱性、日本経済の実力を見誤るなどによって2015年以降に苦境に陥った。これが慰安婦問題で急速に合意に達した原因である。以降に日韓の政治交流は復活しつつある。今後の文在寅政権はこれまでの失政を日本のせいにしてくるだろう。筆者は日本は韓国が擦り寄る大国になる道が改善への方向だと言う。どんな大国か!軍事大国はダメ、経済大国も難しい。答えはスポーツ、芸術、学問です大国になれば良い。文科省はしっかりして欲しい。


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by katoujun2549 | 2017-08-20 20:36 | Comments(0)
中野区中央の古民家改造の喫茶店、モモガルテンで古楽器を使ったコンサートの夕べが8月13日の日曜日に行われた。バージナルというイギリスで使われた16世紀のチェンバロの小型版のような楽器とフルートの前身、フラウトトラベルソという古楽器の演奏であった。ももガルテンでは毎月講演会や演奏会、来月は落語など地域の小さなイベントホールにもなっている。この夕べはまさにホームコンサートであった。モモガルテンは最近はNHKEチャンネルでも取り上げられ、中野の名物。家から1分の所にある。
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フェルメールも描いたバージナル
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バージナルのレッスンを描いた絵
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6時半から9時近くまで古楽器の響きを堪能した。演奏者は桐朋音楽大学で古楽器を専攻されバッハコレギウムジャパンでも活躍されている朝倉未来良氏がフルートで、バージナルの演奏は木村夫美氏。終戦記念日も近く、また、東日本大震災の被災への鎮魂のトークもあり、2000円の料金と500円のワインでこれだけの内容は大満足であった。バージナルは音が小さいので、大きなホールでの演奏は向いていない。50人ほどの観客で、ももガルテンのような木造家屋にはピッタリの響きであった。

曲目は次の通り

ヘンデル のラルゴ

ウィリアムバード 作 私は川のほとりから来た少女 16世紀

ヘンデル メヌエット

バロック時代居酒屋 で演奏された民謡グリーンスリーブス

バッハ ベッツォール メヌエット

ヤンピータースメリ 緑の菩提樹の下で

バッハ ソナタ アダージョ

ルイエ 作 ソナタ

バッハ パルティータ

コレェーリ 作ジミニャーニ2長調ソナタ

バイオリンの曲マリアテレジア コンパラ

パラディス作 シチリアーノ

と豊富な内容であった。


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by katoujun2549 | 2017-08-14 13:10 | Comments(0)
この3人の女優の出演する映画を見た。ひとつは、実写版「美女と野獣」でエマ・ワトソンは主役として野獣のお相手を見事に演じた。その中でミセスポット役がエマ・トンプソンで魔法が解けたラストに登場した。日本でも今の朝ドラひよっこの有村架純や、トト姉ちゃんの高畑充希もそうだが、意思のはっきりした頭の良さそうな女性に人気が出る時代。

1.エマ・ワトソン

は10年にわたる「ハリー・ポッター」シリーズでハリーの親友ハーマウォーニ役を演じ、その後も幾つかの映画に出演、「ノア約束の舟」でも重要な役を見事に演じた。美女と野獣では野獣に拉致された文学少女の「美女」の役で、知性的な女性をこなした。さほど美形とは言えないが役柄が本を読むことが生き甲斐の少女だからこれで良い。何と彼女はアメリカ東部の名門校ブラウン大学を俳優業もこなして卒業している才媛なのである。芦田愛菜チャンもそんな女優を目指したらいかがだろうか。
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2.エマ・トンプソン

「日の名残」でアンソニー・ホプキンスと渋い演技でアカデミー主演女優賞にノミネートされたが、彼女は2回も取っている。ケンブリッジ大学で文学を学んだ才女である。元々はケネスプラナーの劇団で演技も磨き、また、ケネスプラナと結婚もしたが、離婚、2度目の結婚生活。今作品で美女と野獣のMisesPott役で見ることができた。最後のシーンでポットの姿から元の貴婦人の姿になった彼女の笑顔と存在感は流石であった。ハワーズエンド92年でアカデミー主演女優賞、脚本・主演を兼ねた「いつか晴れた日95年ではアカデミー脚色賞、主演女優賞にノミネートを果たした。
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演女優賞を受賞。脚本・主演を兼ねた「いつか晴れた日」(95)ではアカデミー脚色賞を受賞、主演女優賞にノミネート

3,エマストーン

2012年1月辺りから頭角をあらわしてきた彼女はアメリカンドリームの体現者である。今最も輝いている女優である。意思の強さと強烈な花のある女優である。ミランダカーのようなベビーフェイスでもある。LALALANDではエマ・ワトソンも主演候補だったが見事に主演女優を勝ち取った。
『アメイジング・スパイダーマン』から引き続いてグウェン・ステイシー役を務める『アメイジング・スパイダーマン2』は2014年4月に公開された。
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2013年5月、ウディ・アレン監督、コリン・ファース出演の新作コメディ映画のキャストに加わったことが発表された。2014年公開の『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』で第72回ゴールデングローブ賞や第87回アカデミー賞助演女優賞などにノミネートされる。
2016年公開のデミアン・チャゼル監督作『ラ・ラ・ランド』では、第73回ヴェネツィア国際映画祭女優賞での受賞を皮切りに、ゴールデングローブ賞主演女優賞(ミュージカル・コメディ部門)や英国アカデミー賞主演女優賞などを獲得し、賞レースを席巻。 そして、第89回アカデミー賞では、自身2度目のノミネートにして初の主演女優賞に輝いた。先に書いた2人と違い、彼女は学歴が無い。若いころから、映画のタレントだったため、在宅学習で高校まで過ごした強者だ。見事に職業で花開いたのだから、これで良いのだ。


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by katoujun2549 | 2017-07-28 15:04 | Comments(0)
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中東の石油王が道楽でやっている豪華なワイナリー
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ホームステイ先のH・STEVE君ご夫妻の案内でナパのワイン街道沿いにあるワイナリー巡りをした。
アメリカ人はビール好きで、最近小さな醸造所がブルーワリーパブを開いて、エールを中心に計り売りもする。彼の住むFairfieldのHERITICというブルーワリに行ったが、50種類ものエールがさまざまな香りのエールを楽しむことができ、大にぎわいであった。しかし、近年、ワインの伸びは大きく、カリフォルニアワインは本場フランスからも高い評価を得るようになり、フランスワインを凌ぐ品質のものができる。特にロバート・モンダヴィがフランスのシャトー・ムートンを買収しさんかに納め、オーパスワンといった高価格ワインを出すようになったこと、また、点数評価で等級付けを行い、数多くのワイナリーの情報をワインファンに提供し、品質の向上にも寄与した。


ワインツアーはデートコース
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世界全体のブドウ栽培面積は、カベルネ・ソーヴィニヨンが1位だが、シャルドネの人気が勝っているのは、カリフォルニアの特徴と言える。白赤比率では、赤ワイン品種が6割を超えるものの、個々の品種別で見ると、赤はカベルネ・ソーヴィニヨン、ジンファンデル、メルロ、ピノ・ノワールの4品種で赤ワイン品種の7割程度なのに対して、シャルドネは単独で白ワイン品種の5割強を占めている。
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ナパで一番古いBeringerベリンジャーというワイナリーで試飲した。ここのワインは97点という高得点を得たワインを出した。元々はビールを作っていたドイツ移民だったがワインに転換し、山に洞窟を掘ってワインの貯蔵を行い、ワインツアーを行っている。
カリフォルニアワインにもっとも大きな影響を与えるワイン評論家は『ワイン・スペクテーター』誌のジェームズ・ローブ英語版ロバート・パーカーであり、2人の点数がヴィンテージの評価を上下動させているとされる。



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by katoujun2549 | 2017-07-15 07:50 | Comments(0)
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巨大な大陸横断鉄道の機関車

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開通時の蒸気機関車
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シェラネバダ山脈を
切り開くため、多くの
中国人労働者が働き、犠牲も多かった。

フロンテアスピリットと西部開拓

アメリカの発展は東部から西部へと19世紀中頃から急速に進んだ。東部からカリフォルニアやオレゴンに開拓は進んだ。そのきっかけが、横断鉄道の開通と、ゴールドラッシュであった。また、連発銃の普及はインデアンの脅威に対抗できるようになった。森林地帯ではインデアンの弓矢の方が遥かに有利で先込め銃は敵わなかった。アメリカのフロンテアはアイオワ州辺りで長い間止まっていた。鉄道もシェラネバダ山脈が行く手を阻んでいた。
1862年にリンカーン大統領が太平洋鉄道法(the Pacific Railroad Act)に署名、セントラルパシフィック鉄道(the Central Pacific Railroad:CP鉄道)が西部側のサクラメントから、また、ユニオンパシフィック鉄道(the Union Pacific Railroad:UP鉄道)が東部側のネブラスカ州オマハから着工した。1863年1月8日に着工が始まった。南北戦争の復員軍人や中国人移民が鉄道建設に動員され、工事の効率が飛躍的に上がった。とりわけ、中国人労働者はロッキー山脈越えやネバダ砂漠横断の難工事にあたるなど大陸横断鉄道の完成に決定的役割を果たした。今日、この中国人の努力と功績、犠牲は顕彰されており、サクラメントの鉄道博物館で展示されている。
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サクラメントは湿地であり、度々洪水に見舞われ、嵩上げ工事に中国人労働者が貢献した。

ゴールドラッシュ時代の採掘者の住居
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西部開拓の第2の波はゴールドラッシュだった。金鉱脈の発見で、サンフランシスコの人口の半分が砂金取りに出てしまったという。その後も中国人や海外からの移民が続く。最初に発見されたのが、Colomaという小さな町の製材所、AmericanRiverの水を使った、動力源の水車を回す小川から砂金が発見された。1848年1月、その話を聞き付けたSutter砦の雑貨商Brannanが製材所に行って確認し、サンフランシスコで騒いだことから大騒ぎになった。最初の発見者は製材所の技士James M Marshalだったが、最初は製材所が機能しなくなるのを恐れて黙っていたが、秘密は破られた。COLOMAの町は4000人もの人口で溢れかえった。発見者のMarshalはその後土地を買い、金の採掘を始めたが彼は上手くいかず、ワインの栽培で成功した。しかし、水晶採掘のビジネスに失敗し、金発見の功績で受けていた年金も半分に削られ、アル中となって1885年に75歳で死んだ。
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この製材所は再現されており、小川は流れが変わって今は跡が残っているにすぎない。
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町に作られた、小さな小学校と教室
西部劇に出てくる。

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by katoujun2549 | 2017-07-12 17:16 | Comments(0)
サクラメントはカリフォルニア州の州都である。サンフランシスコやロサンジェルスが州の中心であるようにも見えるが、むしろサクラメントは大陸横断鉄道の全盛時代まではウエストコーストの中心で、州議会議事堂があり、行政機関も集まっている。アメリカは商業や産業の拠点と行政は切り離されていることが多い。大陸横断鉄道を記念した博物館が多くの人を集め、開拓時代の街並みも保存されている。サンフランシスコやロサンジェルス、サンディエゴなどでは味わえない西部開拓時代の雰囲気はサクラメントでこそ満喫できるのである。
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西部開拓は幌馬車隊の時代、駅馬車、大陸横断鉄道
 ゴールドラッシュなどによって節目があり、今日は
ハイテクのシリコンバレーやハリウッドに代表される
情報産業がカリフォールニアに集約され、
人口は一番多く、33871千人、GDP全米第1
1,812,968百万ドル(200兆円)の生産力を誇っている。
人口一人当たりは7~8位である。
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幌馬車隊は命がけの4か月~5か月の旅
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駅馬車
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大陸横断鉄道はシェラネバダ山脈の難所を中国人労働者のパワーと犠牲によって成し遂げられた。
1956年まで走っていた巨大な機関車に圧倒される。
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幌馬車隊ーWAGON TRAIN
牛にひかせていた時代が長く、後半は馬になった。
シェラネバダ山脈越えは冬に入る前に行わねばならず、
これに失敗したドナー隊は冬の間閉じ込められ、人肉まで食べたという。
インデアンの襲撃や砂漠越えも大変なリスクであった。
チャップリンの映画黄金狂はこの時の逸話をモデルにしている。


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by katoujun2549 | 2017-07-10 12:10 | Comments(0)
H.Steve君の案内でナパからソノマに行った。以前、5年前ナパにはワイントレインとワイナリー1件行ったことがあったが、ナパの中心道路沿いに100件以上のワイナリーがある。日本のT君が役員をやっていたカプコンの社長が趣味でやっているケンゾーエステートは既に日本人観光客のワインツアーの中に組み込まれ、予約制となっている。ナパのワイン街道から離れた山の中にあり、予約していなかったので前を通るだけでパスした。オーパスワンは高価で超有名、以前、クリスマスの抽選で当たったのを1本飲んだが、正直なところ、自分の趣味には合わなかった。地元で聞いてみると、結構同意見で、値段の割には大したことがない。最高級で1本100ドル以上ならおいしいのがいくらでもあるし、カリフォルニアではワインの品質は点数制で、95点以上のものは皆美味しいのだそうで、当然、90点以上のポイントを取っているワイナリーに行ってみた。
最初は、中東の石油王が道楽でやっていると思われる、イランのペリセポリスをモチーフにしたワイナリ―に行ってみた。中も豪華で、花なども咲き誇る美しいワイナリー。だが、ワインの味はもっとうまいところがあるというので、試飲はパス。Jsut Lookinngとなった。古典的なカントリータイプのものから、近代的な雰囲気など様々なワイナリーが並んでいる。ベリンジャー(Beringer)
というナパで最も古いワイナリーに行って試飲とワインセラーのツアーに参加した。ここの最高級は昨年95ポイントを取ったものが140ドルで売っていた。試飲もしたがタンニンが結構きつかった。ところがチーズと一緒に飲むとこれが消えて実に美味であった。ワインはまさに食材とのハーモニーを味わうのが最高であることがわかる。ワイントレインも結局、ソムリエが料理によく合うワインを選定しているので、コース料理も最適な味わいになるのだと思う。だいたいアメリカでハンバーガ以外で美味しいと思う料理は中華以外にはあまり経験がないのだ。
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              豪華なペルシャ風ワイナリー
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          古典的なワイナリー
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ここでは無料で試飲させてくれた
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ベリンジャーのワインツアー英語が早口で聞き取れないが
最初はドイツ人のビール製造者だったがワインに転換し、岩穴を掘りぬいたワインセラーをここに築いたのだそうで、歴代のワイン生産主任のプロフィールを延々と説明していた。個々のワインは95ポイントを取った最高のもので、ピノノアールとデザートワイン、最高点のワインをいただいた。
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by katoujun2549 | 2017-07-10 11:56 | Comments(0)
フェアフィールド、ナパ、サクラメント

1週間サンフランシスコ郊外の住宅地フェアフィールド市をベースにパイオニア、タホ湖、ヨセミテまで足を伸ばす機会を得た。大学時代の友人H.Steve君の家にホームステイさせていただいた。彼のご長男ご夫妻の案内で日帰りツアーとなった。

1.ヨセミテ
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       この風景はトレッキングしないとみることができない

ヨセミテまでは片道、車で3時間半で行ける。朝の6時45分に出て、大草原から森林地帯にはいると急に高度が上がる。山火事の後が生々しい山道を通り、11時頃ヨセミテ国立公園に到着した。大岩壁、エルキャピタンが迫り、落差739mのヨセミテ滝が目に飛び込んでくる。巨大なハーフドームも見える。これら3名所を一度に見るにはトレッキングをして見晴らしの良い山に上らなければならず、これは諦めた。先ずはヴィジターセンターに行き博物館で世界遺産ヨセミテの観光地としての歴史を学ぶ。ここはインデアンが先住していた。採集生活が中心で、川で魚を取り、狩りで動物を食糧に暮らしていた。彼らの住居は檜肌葺で三角形のテント状のもの。平原のインデアンの革の移動式ではない。高地で冬は雪に閉ざされる。西欧人も毛皮取りの山男しか入ってこない世界であった。ヨセミテ滝を見てお昼になったので、昼食となった。カフェテリアでバッファローのステーキを頂いた。さっぱりとした柔らかい肉であった。結構ヘルシーで美味しいと思った。敢えて言えばもの足りない。ビーフの油っこさが旨味だから、結局健康に悪いほうが美味しいことを改めて思った。
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滝というのはあまり近くに行っても迫力はあるが、美しさはない。遠目が良い。930mの大瀑布であるが3段になっている。この距離からも音は聞こえる。
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エルキャピタンの大岩壁は麓までいった。見上げると大迫力で、岩壁を登坂している人がけし粒のように遠望できた。ここはロッククライミングの聖地なのである。最近、フリークライミングでロープを使わず5時間で登坂した強者がいたそうである。
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                エルキャピタンの雄姿

「ヨセミテ」はミウォーク(Miwok)族により、ヨセミテ渓谷に住むインディアンを指して使われていた言葉とのこと。意味は”those who kill”(「殺し屋たち」という意味)。ヨセミテ渓谷を取り囲むインデアンの部族は、彼らを恐れていた。ヨセミテ族はシエラの東側のモノ・パイユート族を含むいくつかの部族から成り立っていました。パイユートは伝統的に平和的なミウォーク族の敵でした。 さて、ヨセミテ族はヨセミテ渓谷を”Awooni”(アワ二ー)と呼んでおり、それは gaping mouth (註:gapping は「裂ける」、「ぎざぎざになる」)を意味している。景観を守ろうと20世紀までに多くの人々が懸命の努力をした。観光地としての発展と産業開発、自然保護との戦いもあった。しかし、アメリカはここを国立公園として保護することとなった。
スコットランド生まれの博物学者ジョン・ミューアが書いたこの土地についての論文は、社会の科学的関心を引いた。彼は、当時の通説に反対して、ヨセミテ渓谷の地形が氷河によって形成されたことを理論化した最初の人物の1人である。

ヨセミテでは、草地への過度の放牧(特に羊)や、ジャイアントセコイアの伐採が見られるようになり、ミューアは保護を更に推し進める必要があると考えた。彼は、センチュリー・マガジン誌の編集者ロバート・U・ジョンソンなど、ヨセミテを訪れた有力者に、この地を連邦政府の保護下に置くべきだと説いた。ミューアとジョンソンは連邦議会へのロビー活動を行い、それが実おって1890年10月1日にヨセミテ国立公園が設立された。ただし、ヨセミテ渓谷とマリポサ・グローブについてはカリフォルニア州の管理下に残った。また、ミューアは、ヨセミテの高地での放牧を事実上禁止するよう、地方政府の説得にも尽力した。

ヨセミテ国立公園は、1891年5月19日、アメリカ陸軍第4騎兵連隊の管轄下に入り、同連隊がワウォナにキャンプを設けた[27]。しかし、軍には、カリフォルニア州が管轄するヨセミテ渓谷とマリポサ・グローブの環境悪化について介入する権限がなかった。

ミューアと、彼が創設したシエラクラブは、州が管理しているヨセミテ渓谷を連邦政府のヨセミテ国立公園に統合するよう、政府や有力者へのロビー活動を続けた。1903年5月、セオドア・ルーズベルト大統領がグレイシャー・ポイント近くでミューアとともに3日間のキャンプを行った。この時、ミューアは大統領にヨセミテ渓谷とマリポサ・グローブをカリフォルニア州から連邦政府へ移管させるよう説いた。そして、1906年、両地域を連邦政府に移管・統合する法律が成立し、大統領はこれに署名した。

アメリカ合衆国国立公園局は1916年に設立され、ヨセミテも同局に移管された。

1903年、公園北部のヘッチ・ヘッチー渓谷に、サンフランシスコ市内へ水と電力を供給するためのダム建設計画が持ち上がった。ミューアら保護論者(プリザベーショニスト)はこれに反対し、保護論者の主張を受けて、連邦議会は公園の89%に当たる27万4200ヘクタールを「ヨセミテ自然保護区域」に指定した。夏期の交通混雑も大きな問題となった。現在、自動車で公園を通り抜けることは可能であるが、園内では無料のシャトルバスが数路線走っており、これを利用することが推奨されている。
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by katoujun2549 | 2017-07-09 16:49
6時からの昔勤務していた会社の同期会まで1時間あったので、マロニエゲート銀座2の二階にあるサロン・ド・テ アンジェリーナに行ってみた。中は白のインテリアで優雅な感じ。客はご婦人ばかりでその時男性は自分1人だった。違和感はあったが、モンブランを食べたい一心で2人用の窓際の席に座り、早速コーヒーと正規サイズのモンブランを注文した。周りの客はスモールサイズのモンブランであったが自分は食べごたえのあるフルサイズとした。フォークを入れると、中のクリームがしっとり、しっかり詰まっている。マロンクリームも中のホワイトクリームも結構甘い。ここのモンブランは表面が茶色で土台がメレンゲである。これがパリのアンジェリーナの特徴だそうである。日本のモンブランは栗の黄色い色になったものが多い。
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上品な甘味を堪能。
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口にいれるとしゃリっとした底にあるメレンゲの舌触りが心地よい。
コーヒーと合わせて
1520円。やや高めだが、大いに満足した。アンジェリーナのものは自分が東の横綱といっている本八幡のドルチェとは違い、きわめてオーソドックスなモンブランの原型といえるだろう。今度は吉祥寺のアテスウエイのモンブランにチャレンジしたい。

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by katoujun2549 | 2017-06-12 14:50 | Comments(0)
子供のころ、市川市に住んだが、梅松園という6件の戸建ての長屋のような住宅街があり、近所に住んでいた自分はよくそこの子供たちと遊んだ。その最奥の一軒に和田さんという家があり、未亡人と2人の息子がひっそりと暮らしていた。昭和26年ころ、奥様が亡くなられ、母親がお通夜に行った時のことを今でも覚えている。近隣で太平洋戦争時の高級将校であった和田さんは尊敬されていたが、終戦直後のころ、敗戦の責任者の職業軍人であり、業績を語る人は世間ではいなかった。実際は多くの軍功のある立派な軍人であったと母は言っていた。2人のご子息とご長男のお嫁さんが暮しておられた。沖縄戦で戦死された和田中将のお宅だと子供でも知っており、今も記憶に残っている。沖縄戦では、牛島司令官、長勇参謀長、八原上級参謀が有名であるが、和田中将のことは語られていない。しかし、調べてみると、沖縄の砲兵の責任者であり、この洞窟陣地からの砲撃がアメリカ軍に大損害を与えていたことを知った。米軍司令官バックナー中将も砲撃が命中し戦死した。沖縄の日本軍の大砲の命中精度はアメリカ軍も認めており、驚異的な水準であった。千葉県市川市は国府台に首都防衛の高射砲部隊がアメリカの空襲に対する防衛拠点であったため、和田中将が沖縄に派遣される前に住んでおられたのだろうと推察される。沖縄は今もなおアメリカ軍の重要拠点であるが、アメリカ軍がどれだけ多くの犠牲を払ったかは、数値でも知られている。単なる統計であり、彼らの苦労は一般には意外と知られていないような気がする。映画、パシフィックやハックソーリッジで表現されて初めて知る。記録映画では安全なところからしか撮影されず、凄惨な場面は推定するしかない。もちろん日本は住民の損失も含め、米軍の10倍の損失を出したが、その内容が問題である。沖縄戦ではアメリカ軍の圧倒的な物量と砲爆撃、ひめゆり部隊や集団自決の悲劇が語られることが多い。日本軍の60日にわたる激しい戦いについては語られず、単なる負け戦で括られることが多いのではないか。

(注)アメリカ海兵隊の公式活動報告書でも「(日本兵は)よく訓練され、統制もとれた陸軍兵士で、特に士気の高さと、身体能力の高さは特筆すべきである」とか「日本軍の兵士は常に頑強で機知にとんだ戦法で戦い、絶対に降伏しなかった」等、その能力を高く評価している。

第5砲兵司令部司令官:和田孝助中将は ‐ 野砲兵第42連隊、独混44旅団砲兵隊、各歩兵連隊・歩兵大隊連隊砲大隊砲、師団および独混の速射砲を除く全砲兵部隊を指揮された。和田中将指揮下の部隊は対空砲部隊を除くと以下の通りであった。アメリカ側の軍備はあまりにも大きく比較にならない程で割愛するが、ドイツとの戦いのハイライトであったノルマンジー上陸作戦を上回るものであった。アメリカ軍はオマハ海岸やバルジ戦、イタリア戦線では優秀なドイツ軍に悩まされたが、沖縄ほど厳しい戦いはなかった。特に、特攻機による損失は甚大であった。沖縄は「捨て石」という言葉が誤ったイメージを与えている。まさに本土決戦の雛型であり、日本軍も精兵を送っていた。特攻も含め最後の力を絞って戦った。アメリカも弾薬がつきそうになったほどである。砲兵部隊の内容は物量面では鉄の暴風というほどで、米軍と比較にならないほどであるにもかかわらず、彼らを苦しめた。日本軍かく戦えりであった。

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沖縄の軍司令部地下壕の遺跡

自分は当時の軍司令部の将官を評価する知識は無いが、結果論からは、牛島司令官の下にいた長勇参謀総長の責任が大きく、沖縄日本軍の消耗を加速したように見える。彼は軍人であると同時に、政治力のある人物で、帝国陸軍エリート軍人の典型であった。彼の功績で、沖縄の総動員体制が実行され、陣地構築の動員力は
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素晴らしいものであった。ところが、戦術的には自信過剰で、米軍の物量と合理的な戦闘を理解できなかった。頭脳明晰な八原参謀は後に持久戦を指揮し、米軍に大損害を与えたが、この作戦が、結果的には多くの住民の犠牲を生んだことは否めないだろう。沖縄戦までは天皇陛下も何とか戦況を挽回しようと、沖縄の日本軍に総攻撃を期待していた。長参謀の無謀な突撃戦術はそこからきていた。沖縄の戦いで、米軍もバックナー中将や司令官が戦死しており、彼らにとっても過酷な戦場であった。フィリピンと違い、今日もアメリカが沖縄を手放すことはありえないという印象を持つほどである。日本側の悲劇は伝えようとするマスコミだが、あまりアメリカの損失を報道しない。
沖縄戦の敗北から日本の本土を戦場にすることなく平和を得た我が国の判断は正しかったと思う。一方では、アメリカが九州上陸や本土決戦をあきらめ、原爆投下によって一気に終戦まで漕ぎつけようとしたことは、この沖縄戦が彼らに与えた恐怖からきている。これは歴史の常識である。日本人としては原爆投下のような無差別殺人は許されることではない。アメリカも、実際は日本に原爆投下をしたことは、日本の報復を恐れ、日本が核武装をすることを絶対に認めない原因にもなっている。沖縄の犠牲といってよいのかどうかわからないが、結果的には戦争の終結をもたらし、今日の平和の礎となった戦いであるという評価をきちんとすべきだと思う。沖縄、広島、長崎の悲劇のおかげで今日の日本の姿がある。しかし、ロシアのスターリングラードや、ベルリンなどが軍事基地になっていない。むしろ平和の象徴になっている。沖縄は、残念なことに、今なお軍事拠点である。悲劇の島であったことから早く脱却し、世界平和に貢献する日本の重要な拠点となるように努力すべきだと思う。

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by katoujun2549 | 2017-05-15 12:16 | Comments(0)