バルカン ユーゴ悲劇の深層 加藤雅彦著 日本経済新聞

gooblogから抜粋記事で紛争の経緯をおさらいする。
ユーゴにおいても共産党による一党独裁を廃止して自由選挙を行うことを決定し、ユーゴを構成する各国ではチトー時代の体制からの脱却を開始する。また、各国ではミロシェビッチ(セルビア)やツジマン(クロアチア)に代表されるような民族主義者が政権を握り始めていた。チトーはセルビア勢力を抑制し、民族や地域の公正な権利に目を配ってきた。ところが、第二次オイルショックの経済不況を克服できず、死去してしまった。大セルビア主義を掲げたスロボダン・ミロシェビッチが大統領となったユーゴの中心・セルビア共和国では、アルバニア系住民の多いコソボ自治州の併合を強行しようとすると、コソボは反発して90年7月に独立を宣言し、これをきっかけにユーゴスラビア国内は内戦状態となる。都市の人口構成が複雑なほど悲惨な結果であった。クロアチアのモスタルでは比較的少数であったセルビア人がクロアチア人に連合したボスニア人らの勢力によって抹殺された。連合して勢力が増すと少数派が叩かれるのであった。

91年6月に文化的・宗教的に西側に近いスロベニアが10日間の地上戦で独立を達成し(十日戦争)、次いでマケドニアが独立、さらに、歴史を通じてセルビアと最も対立していたクロアチアが激しい戦争を経て独立した。ボスニア・ヘルツェゴビナは92年に独立したが、国内のセルビア人がボスニアからの独立を目指して戦争を繰り返した。セルビア国内でもコソボ自治州が独立を目指したが、セルビアの軍事侵攻によって戦争となった(コソボ紛争)。
以上抜粋記事

モスタルの世界遺産スターリ・モストは破壊され、
スレブニツアでは8000人もの市民が射殺された。
この橋は近年再建された。平和の象徴となったが、
民族間のわだかまりは消えていない。

ボスニア紛争終結の数年後、ふたたび、セルビア系治安部隊とアルバニア系ゲリラの衝突が始まった。この紛争は、それぞれの民族に属する住民の間に深い憎悪と不信の溝を作った。紛争終結後、民族対立はいったん沈静化したように見えたが、2003年の春にコソボ全土でアルバニア系住民とセルビア系住民の間に大規模な衝突が起こり、民族融和の道が依然険しいことを国際社会に印象づけた。コソボ西部では、依然としてセルビア系住民は隔離された居住区に住んでおり、国際治安部隊に守られている。一連の紛争では20万人が犠牲となった。ユーゴ解体によって、大セルビア主義の民族主義に立ったミロセビッチ大統領のセルビア軍と各国の独立派が行ったのは戦闘だけではない。それぞれの国にはセルビア人や多くの民族、宗教が混在し、戦争の中で民族を建前に地域の他民族の追い出し、脅迫、女性への性的暴行、虐殺が横行した。他民族に恐怖を与えることにより地域を単純化しようとする民族浄化の行為が繰返され、戦争状態が容易に終わらない事態となった。各地域においては多数派の独立、少数派の抵抗、さらには主としてNATOは指示に従わないということでセルビア軍事勢力に対する爆撃を行った。

この本は1992年に書かれたので、まだコソボ紛争がおわっていない。しかし、火薬庫といわれた理由が歴史的背景から理解できる。実際民族浄化など、この後にもひどい事件が起きたのである。弱肉強食、強いものが弱いものを強いたげる、醜い争いとなった。
 20世紀末1992年から起きたユーゴスラビアの紛争は日本から遠い国の出来事であった。日本から出来ることは少ない。しかし、何が起きたかは知っておくべきだ。遠いユーゴだが、我々にもなじみの深いヨーロッパには至近なのである。民族浄化とか、イスラム教徒の集団虐殺など衝撃的な報道に驚かされた。当時の大統領ミロシェビッチやカラジッチは人道に対する犯罪行為のかどで戦犯として逮捕された。ボスニアヘルツェゴビナやクロアチアで何故悲劇が起きたか、憎悪と復讐の連鎖が止まらないのか分からなかった。パレスチナ紛争もあり、イスラム教とキリスト教、ユダヤ教などの一神教が原因であり、諸悪の根元という人もいた。バルカン半島の歴史について馴染みが薄く、分かっていることだけで評価するとその様な乱暴な理由付けになってしまう。歴史認識というのは重要である。500年にわたるオスマントルコの支配から解きはなたれた地域は過去の最大領土を自己主張しはじめる。大セルビア主義、大ルーマニア、汎スラブ主義である。民族主義を政治家が煽るとどこかで紛争になる。

ユーゴ紛争が歴史の必然のような出来事であることがこの本から理解できる。ユーゴ紛争はスロバニアとクロアチアのユーゴスラビアからの独立からはじまったが、その前に、ソビエト共産党の支配が無くなり、東欧に民主化の波が押し寄せた。ソ連の雛型のようなチトー体制で冷凍されていたバルカンに民主化と独立の波となって紛争が起きたのである。1989年12月のルーマニアのチャウシェスク政権の崩壊があった。民主化と民族自決の波が生まれた。バルカン諸国は一気に独立を目指すようになった。セルビアは従来のユーゴの中心であり、大セルビア主義の伝統から、これらに反発したのであった。というより、歴史は遡る。第一次世界大戦のきっかけとなったことだが、セルビアの青年が何故オーストリアハンガリー帝国の皇太子を暗殺したのかである。時事問題は新たな出来事に気を取られるが、歴史的背景を見て理解すべきである。その前のバルカン戦争でのロシアのセルビア支援も第一次世界大戦へと向かっていた。さらにはオスマントルコ支配やロシアとビザンチン帝国の関係で起きたことなのだ。ルーマニアのことも参考になった。古い話だがローマ帝国の支配もルーマニアには大きな影響があった。今もルーマニアはラテンなのである。
6つの共和国ースロバニア、クロアチア、ボスニアヘルツェゴビナ、マケドニア、セルビア、モンテネグロからなるユーゴスラビアの歴史的考察から見なければならない。バルカン半島は半島に沿っていく筋かの山脈が通り、民族が地理的に分断される。ところが大陸や海からは外敵が容易に侵入し、それぞれの民族が分断され、連携しにくい。バルカン半島の先住民構成から確認したい。

 バルカン半島はそもそも、ギリシャではない。マケドニアはギリシャからはスラブ人といわれ、マケドニアという名前を承認しない。スパルタはドーリス人である。トラキア人ーブルガリア、イリュリア人ーアルバニア、ダキア人ールーマニアの原住民であった。ブルガリアは4000年前から黄金文明が栄え、イリアスにも記録されていた。黒海沿岸の遊牧民ブルガル人が移動し、その後南スラブ人が定住、多数派となった。二毛作の穀物やワインの産地で豊かな地域であった。1014年サムエル帝の時にビザンチン帝国のパシレイオス2世と戦いビザンチンに敗北し、1018年に滅亡した。オスマン帝国に支配されるまでビザンチン帝国の属国であった。

 セルビアはステファン・ネマーニャ、聖サヴァが国内統一を図った。1330年ステファン・ドゥシャンがビザンチン、ブルガリア連合軍を打ち破りセルビア帝国最盛期を迎える。ところが、1389年6月28日オスマントルコにコソヴォの戦いで敗北。オスマン帝国ムラト1世対するセルビアラザル王ブルガリア、ハンガリー、アルバニア、セルビア連合は敗北、建国して60年後、セルビアはオスマントルコに支配される。バルカン諸国はかつて一度は周辺諸国を従え、帝国を築いたことがあり、それぞれの国のノスタルジーであり、大セルビア主義、大ユーゴといったナショナリズムの種となる。

1453年オスマン帝国メフメットⅡ世によってコンスタンチノーブル攻略 は完遂された。ウルバンの巨砲、軍船の陸越えによってなされた。ビザンチン帝国の支配は終わり、その後モスクワ公国が第3のローマとしてバルカンに介入してくる。オスマントルコは1529年、1683年の2度のウィーン包囲に失敗した後衰退が始まった。ルーマニアは常にオスマントルコとの抗争と妥協を繰り返した。トランシルバニア(ルーマニア西北部ーハンガリー)、モルダヴィア(東北部ートルコ支配)、ワラキア(南部ートルコ支配)である。15世紀から16世紀ミハイ王によるルーマニア統一がなされたが、ルーマニアはロシア帝国の支配下に置かれる。
 
 ボスニア紛争ではキリスト教徒とムスリムの戦いがあった。ボスニアのムスリムはトルコ系ではない。何故ボスニアにイスラム教徒が多いかーボスニアに多かった異端宗教ボゴミル(マニ教の一派、善悪元論)をカトリック、セルビア正教は布教の中で邪教として迫害したことから、反発した民衆は新しい支配者トルコのイスラム教に改宗したのであった。トルコの支配は宗教的には寛容で西欧のような宗教紛争や迫害はなかった。しかし、搾取や支配は過酷であった。例えば、デウシルメという支配の方法、トルコ支配のため、4年に1回行われるキリスト教徒少年狩りが行われた。彼らはイスラムに改宗されイスラム教育の後、トルコの精鋭部隊イェニチェリに組みまれた。オスマントルコ帝国の支配下では宗教改革も大航海時代もなく、ルネッサンス、自然科学の発達の恩恵、国民国家、産業革命などの西欧社会の発展要素が失なわれた。レハールのオペレッタ、メリーウィドウはモンテネグロがイメージされている。エキゾチックな国のドタバタ恋愛劇で多少軽蔑もある。だが、これを描いたオーストリアハンガリー帝国は崩壊する。だから、オーストリアでも、皇妃エリザベートやマリアテレジアの時代は国民の誇りで、バルカンの小国の貴族や金持ちが、ウィーンでラブゲームを繰り広げる様を上から目線で楽しんだのだ。

 オーストリアハンガリー帝国によるボスニアヘルツェゴビナ併合はその地域に多く住むセルビア人の反発を受け、オーストリア皇太子の暗殺、さらには第一次世界大戦への導火線となった。バルカン戦争によるセルビアの拡大ーマケドニアを領土化によってオーストリアハンガリー帝国との対立がピークになっていた。余談だが、トルコの改革者ケマルアタチュルクはアルバニア系トルコ人であった。
 
 オスマントルコの崩壊とトルコの近代化のため、ケマルアタチュルクは国父となっている。しかし、トルコもアルメニアの独立においては多くの犠牲があり、100万人以上が殺されたという。また、クルド民族問題は今も解決していない。このような複雑な民族と歴史においてよき指導者や、大きな権力がなければ混乱と争いは絶えない。ユーゴ紛争が国連の介入とアメリカの空爆によって収まったことは望ましいとは言えないが現実でもある。しかし、NATOの空爆によって多くの一般市民が殺戮されたこともあり、シリアの内戦などでその教訓が生かされていない。NATOの介入がセルビアの軍事的圧迫を抑制したかどうかも定かではないが、アメリカの積極介入がセルビアの軍事的優位性が崩したことが内戦の終結に向かったのではないかとも思う。しかし、、東西冷戦の体制であったNATOはバルカン紛争では機能しない。残された道は国連の地域紛争における介入ルールが実態に合ったものとなり、人道支援も出来ることと限界をはっきりさせることである。







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by katoujun2549 | 2017-05-26 22:14 | 書評 | Comments(0)