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大量虐殺のソビエトー共産主義はナチスより酷い

1.ロシア革命は失敗した

ロシア革命はソビエト連邦という巨大な官僚制国家を生んだ。共産主義という目標のもと、多くの人々が犠牲になった。この事は中国の内戦、文化大革命で、又、カンボジアのポル・ポトの支配でも起きた。共通していることは、市場経済を導入することに失敗し、農業政策を誤り、官僚制の貫徹のために粛清が行われたことで、これは今の北朝鮮でもおきていることである。特徴的なのは、その規模が大きく、犠牲者の数が戦争より多いことである。ロシア革命は今年で100周年となる。ツアー体制の転覆には成功したが、革命のめざした階級のない社会、貨幣の不要な平等な社会の実験は恐ろしい結果とともに失敗した。

2.スターリンの敵は農民

ロシア革命は国内生産力の極端な低下を招いた。NEPという市場経済を一部導入した経済政策である。レーニンは共産制に移行するのが無理と見て、市場経済を導入した。ゴスプランという科学的な統計手法を使い生産と分配、供給の理論を使い、計画経済を進めた。これは間違った理論であったが戦後も続けられ、ブレジネフの時代まで続いた。ネップは10年続き、農村は疲弊し穀物の国家保有量は1913年を100とすると2年間で94%も減少し、10年経っても75%にしかならなかった。このため、餓死者は300万人~500万人にのぼり、クリミヤタタール50万人の死体が放置された。人々は人肉まで食べ始めた。レーニンは対策と称して教会財産の没収を始めた。賛成した聖職者も含め、聖職者達の8000人が処刑された。5ヶ年計画による生産力の増強を行ったが食料の農民からの収奪は続き、備蓄は回復したが農業政策は見事に失敗し、食料不足は続いた。これを富農、中農ークラークのせいにして農村人口の5%40万人を絶滅させるべく追放した。

3.コルホーズ

これはコルホーズという集団化の過程で300万人がクラークのレッテルをはられ追放された。彼らは貧農と違い、実際は生産性の高い農業の担い手であった。1932年に5ヶ年計画は終了したが、500万人~700万人の餓死者が出た。農民の反乱は1930年には300万件、900件以上の武力闘争をOGPUや赤軍が鎮圧した。スターリンの敵は農民であり、その責任をクラークにして貧農の憎悪の対象とし、コルホーズの推進に利用した。農業生産が回復しても、穀物は輸出に振り向けられ、軍備に使われたので都市の労働者の配給は依然少なかった。革命が労働者を中心に行われたかというと、そうでもない。確かにロシアの課題は工業化の遅れであった。工場労働者は1%にも満たなかった。ロシアは農業国だった。工業化の推進はコミュニストの悲願だった。しかし、工業化は進み、その成果は軍備増強に向けられた。その結果、独ソ戦には大いに兵器を供給することが出来た。民生品は依然乏しく、これらが供給されるのは戦後、1960年後半まで待たなければならなかった。軍備は収容所列島の強制労働によって進められた。核兵器や宇宙開発の基盤は彼らによってなされたといって良い。民生品の供給不足は女性用の下着や靴下にもおよび、1960年代にソ連のバレー団が日本に来ると団員が下着や靴下を買いあさり、日本の招待者はびっくりしたという。

4.責任者はスターリンだけではない

こうした弾圧を実行したのがモロトフやカガノビッチである。失敗に対して反スターリングループが生まれたが、これに対する大粛清が始まった。1933年春の17回党大会の参加者は4年後1966人中1108人が逮捕され848人が銃殺された。1934年のスターリンの盟友キーロフ暗殺後粛清はピークを迎えた。1936年カーメネフ、ジノビエフなどの旧左派の幹部13人がスターリン暗殺を企てたとして処刑された。OGPU長官ヤゴダもブハーリンとともに銃殺された。次のエジョフは治安担当の党書記となり、中央、地方を問わず辣腕を振るった。
チェリヤビンスク州では4000名の指示に対して14000人を銃殺した。しかし、スターリン、モロトフが1938年に銃殺指令を出したのは3167人、最高裁で最高刑を宣告されたのは1937年から38年で38679人。党幹部、経済官僚、軍人など72,590人が銃殺されたが、地方では5倍の30万人は殺された。エジョフは137万2393人を逮捕、68万1692人を銃殺した。これは正式に裁判を経たものだけで、ゴルバチョフが明らかにした数字である。エジョフが銃殺しようとしたべリアが長官になると彼も銃殺されてしまった。その後のベリアはスターリンの忠実な部下としてその死後も活躍したが、フルシチョフとの権力闘争に敗れ銃殺された。まるで国家がテロリストに乗っ取られてしまった様相なのであった。スターリンが幹部を処刑している情報に一番喜んだのはヒトラーだったという。ソビエト連邦が軍事的経済的に弱体化することはナチスドイツの利益だった。共産党右派が粛清されたことは若手の台頭を後に促進することになる。ブレジネフやアンドロポフなどの成長によって戦後のソ連の発展が用意されたのである。ブレジネフはマルクスレーニンの著作に関心がなかったという。

5.収容所列島

銃殺されなかった者は収容所に送られ、白海バルト運河、モスクワボルガ運河などの強制労働に従事し、多くが死んだ。1938年には225万9000人が収容所に送られた。独ソ戦開始時1941年230万人が収容され彼らは軍隊と経済生産要員に振り分けられた。第二次世界大戦での犠牲も凄惨である。ドイツ軍の捕虜になった者は開戦直後の1941年だけで380万人、全体では620万人であり、そのうち戦後解放されたのは4割、60%のほとんどが餓死した。解放された兵士も捕虜になったことを批判されシベリア送りとなった。レニングラード900日の攻防戦では市民230万人が餓死やドイツ軍の攻撃で死んだ。収容所列島は戦後も存在し、核開発のためのウラン鉱山、輸出のための木材切り出しなどの過酷な労働に従事した。

6.第二次世界大戦

第二次世界大戦で866万8400人が軍人として亡くなり、ペレストロイカ後の調査では国民の2760万人が犠牲となった。確かにスターリングラードなどの激戦で亡くなった兵士もいるが、無謀な突撃や人命軽視の作戦での犠牲も多かった。これだけの犠牲に対して全く反省のないのが、ソ連を支えたモロトフなどのスターリン官僚である。このような国と日本は国防や北方領土交渉でお付き合いしなければならないのである。我々が高校生当時、歴史の教員は共産主義に共鳴したものが多かった。彼らはこのような実態を知っていたが知らん顔をしていたか、本当に知らず、この実験国家をアメリカ資本主義の批判することでソ連を擁護していた。共産主義は歴史の必然とまで説いた。





我々は結果的には歴史の教員に騙されていたのである。彼らは唯物論的な歴史観を持っていた。自分が大学に入り初めてマックスウェーバーや近代経済学を学び衝撃を受けた。東大や京大、早稲田大学や法政大学ではマルキストとその歴史観を持った学者が主流だった時代である。彼らは今どうしているのか。モロトフ同様あの時は仕方がなかったと言っているに違いない。反省のない輩である。共産党は今や赤旗で食っている年金コミュニスト集団なのである。
戦後、ソ連の恐怖政治に気付いた知識人は、万一共産主義政権になった時の恐怖も想定し、容共に走ったものも多いと聞く。怪しからん知識人たちである。

by katoujun2549 | 2017-04-16 20:55 | 国際政治 | Comments(0)