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バレンタインチョコレートの起源 ドロドロの話

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モロゾフ夫人の逮捕(モスクワのトレチヤコフ美術館の名画「モロゾワ夫人」)


 チョコレートの季節がやってきた。2月14日のバレンタインデーにチョコレートを贈るという習慣はどう日本に定着したのか。チョコレート業界の販売促進策にに消費者が乗ってしまったのだろうか。土用丑の日の鰻も日本古来の習慣ではないが、現代社会にも定着している。義理チョコなる言葉もあるが、多分日本社会においては、愛とか女性が男性にプロポーズするなどという男女の関係性はなじまず、むしろ義理とか人情の方が好まれるのだろう。チョコレートをギフトにするというのはイギリスのキャドバリーという会社が最初で、きれいな箱に上品に収まったチョコレートで板チョコだったと思うがバレンタインのギフトを始めた。しかし、欧米ではバレンタインデーはカードを贈る日であってプレゼントをするのは日本独自の習慣になっている。バレンタインチョコレートの元祖はモロゾフといわれている。今のモロゾフは一部上場企業で商標名、企業名はモロゾフだが創業者のモロゾフがオーナーではない。
モロゾフ氏は気の毒なことに創業時の共同出資者と裁判になり、和解の結果企業名と商標名モロゾフを剥奪された。しかし、彼の長男がコスモポリタン製菓という会社を再度立ち上げ、2006年まで経営していたが、今は廃業した。ロシア革命から家族で難民になった壮絶な歴史を持つが、モロゾフチョコレートの起源である事には変わりはない。共同事業者葛野友槌は京大を出て材木商になった人物で学生時代共産党シンパであった。共産党の野坂参三は弟で妻竜は葛野家から来た。今のモロゾフに発展した葛野友太郎はモロゾフを葛野に紹介した福田の娘と結婚した。モロゾフは難民であり、日本語も不自由だった弱みを衝かれていたのである。モロゾフの名前とチョコレート事業は最初から葛野に狙われ、難民であることを利用された。和解の条件も彼をソビエト政府に通告し、承諾しないと本国に送り返すぞということで恫喝したものだった。共産党の重鎮だった野坂参三は共同事業者の親戚であり、どこまでかかわったかはわからないが、ソ連のスパイであり、ソ連との関係にモロゾフは驚愕したに違いない。モロゾフは気の毒であり、葛野も野坂もひどい男である。ただ、当時の国情から、満州事変など、日本に来た亡命外国人には社会の目は厳しかった。
モロゾフのチョコレート
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新潟市マツヤのロシアチョコレート
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 バレンタインデーにチョコレートという組み合わせは神戸のモロゾフ洋菓子店が1936年に始めたのである。さらに、モロゾフにいた職人の原さんが1949年にメリーチョコレートを始めた。1958年に新宿伊勢丹で原さんの次男がバレンタインデーフェアを行った。これを機に伊勢丹や不二家が1970年代にバレンタインチョコというキャンペーンを始め全国的に盛り上がり、日本ではこの日1日で1年間の10~13%を売り上げてしまうほどになっている。メリーチョコレートも会社はリーマンショックで破たんし、今はロッテ傘下。

最初のバレンタインチョコレートの広告
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 このモロゾフという名前は帝政ロシア時代の大富豪モロゾフ家に由来する。多くの皇帝派のロシア人が革命を逃れて日本にきた。彼もシアトルに渡ったあと神戸でロシア菓子を売って生計を立てたのが始まりである。ロシア人というのはチョコレートが大好な国民である。新潟に、いまもロシアチョコレートの店マツヤというのがある。モロゾフ家はロシア正教の一派、古儀式派の信者であった。この古儀式派はロシア正教のニーコン改革という国家権力と結合した改革に反発し、キリスト教の原点に戻ろうとする運動であったが、ロシア革命の直前まで弾圧され、ニコライ二世が承認するまで苦難の歴史が続いた。ところが、ソビエト政権になってからの宗教弾圧で悲惨な銃殺処刑や流刑の対象になり、シベリアや満州、中国黒竜江省周辺まで逃げ、さらには日本に白系ロシア人と言われ逃亡を続けてきたのであった。モロゾフ氏は古儀式派と思われる。

この古儀式派は今もロシアとその周辺ラトビア、ポーランドなどに200万人いるといわれている。モロゾフ家は分離派(ラスコリ二キ:ドストエフスキーの罪と罰の主人公の名前はこれから取った)ともいわれる古儀式派の貴族がルーツである。ピョートル大帝の父の時代に最も権力のあった貴族だが、分離派として弾圧された。ニーコン改革でロシア正教は分裂し、教会を皇帝の上に位置付ける体制は逆転し、ロシア絶対王政のきっかけとなった。1671年フェオドシアモロゾワ夫人は逮捕され、ピョートル大帝の迫害の象徴となった。分離派の人々はキリスト教徒としての厳しい生活様式をかたくなに守り、禁酒、銀行から借金をせず、蓄財と勤勉を守る人々で、そうした生活を続けたことから、大富豪や富農になるものが多かった。ロシア革命のときにはまさに攻撃の対象になった。実は今の大統領プーチンもこの古儀式派の家系であり、祖父はモロゾフ家の屋敷に住んでいたレーニンのコックをしていた。レーニンは革命によってこのモロゾフ家のモスクワの屋敷を摂取し晩年はテロを恐れ、そこで暮らしたのであった。ロシア革命の弾圧の対象となった古儀式派の人々は離散し、ソビエト崩壊まで政府の圧迫を受けてきたが、実はロシア革命の支援者であり、中心的な人々を多く生んできた。スターリン時代の外相モロトフなどが代表的だ。ソビエトというのも古儀式派の共同体をコピーした仕組みであり、ヨーロッパ民主主義がプロテスタント教会をプロトタイプにしたのと似ている。古儀式派の人々は多くの優秀な人材を生み、ソビエトのコルホーズなどでも、好成績を収めていたという。モロゾフチョコレートの元祖がモロゾフ家の末裔だとすれば数奇な運命を経て、その一族が日本で生き延びていたのであった。もちろん、日本のバレンタインデーにおいてそんな歴史をかみしめてチョコレートを味わう御仁は自分ぐらいだと思うのだが。

大貴族モロゾフ家は、古儀式派の牙城であったばかりか、当主のボリス・モロゾフ(1590~1661)は、アレクセイ帝の義兄で、かつてはその教育係を務め、実権を握っていた。5万5千人の農奴を所有する大地主でもあった。61年にそのボリスが死に、67年にニコンが罷免されると、アレクセイ帝は、古儀式派の精神的支柱であったモロゾワ夫人(ボリスの弟グレープの夫人)の逮捕に踏み切る。

モスクワのトレチヤコフ美術館でひときわ目立つ名画「モロゾワ夫人」はまさに彼女が逮捕され、信者に見送られながら橇で連行されていくさまを描いたものだ(ワシーリー・スーリコフ作)。彼女はその妹とともに改宗を迫られたが拒否し、土牢で餓死させられた。絵の中で右手を挙げているが、これはニーコン改革で十字を3本の指できるよう強制されることに対する反対の意味で旧来の2本の指を掲げているのである。

近代にはモロゾフ家の家系は、1820年にサッバ・ モロゾフと4人の息子たちが、農奴の身分を1万7000ルーブルで買い戻して自由人になったことから始まる。 彼らが創設した綿紡績工場は、19世紀後半には大工場に成長した。
 モロゾフ家は、20世紀初頭には5万4000人もの労働者を抱え、 その生産額は当時の1億ルーブルをはるかに超す資産家となった。初代のサッバ・モロゾフ、息子のアブラハム、エリセイ、ザハール、 チモフェイ、そのまた息子たちは、ともに事業家でありながら芸術家のパトロンとなり、経済援助を惜しまなかった。
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モスクワのモロゾフ邸
by katoujun2549 | 2017-01-30 10:52 | 国際政治 | Comments(0)