本能寺の変431年目の真実 明智憲三郎著 文芸社文庫

本能寺の変431年目の真実 明智憲三郎著 文芸社文庫


 この本の著者 明智氏は明智光秀の子孫にあたるそうである。明智光秀は主君に背いた逆賊と思いきや、その子孫は結構残っており、明智家の系譜であることを隠し、全国に散った土岐一族に側室の子などが匿われたという。処刑された斎藤利三の娘、後の春日の局はおそらく、長宗我部に匿われたと思われる。この本で本能寺の変のみならず、後の秀吉の秀次や利休の切腹命令といった歴史の謎が解かれてきたように思えた。歴史の謎は決定的な証拠がなければ推測の域を出ない。その時代において常識的な思考によって解釈されることは否めない。この書は歴史の解釈に新しい知見を与えてくれた。信長も光秀も世を去り、2人の間にどんな謀議や関係があったのかは闇の中である。しかし、光秀の部下や関係者の手紙などから何が起きていたかを推測できる。この著者、明智氏は過去の太田公一の信長公記、秀吉の惟任(これとう)退治記などの矛盾した記述を解き明かし、又、文書などを検証、比較し、従来の通説や戦記物にとらわれない見解をベースにしている。これまでの戦記物ではない文献を基にしていることが説得力を与えている。通説をもたらした文献の意図が、変の前、5月24日に行われた連歌の会に発句として光秀が詠った「時は今雨が下しる五月かな」という句についてである。句会は直前の28日ではなく、反乱の決意表明ではなかったことを明らかにしている。光秀が信長に対する野望と怨恨によって個人的事情から謀反を起こしたことにしたかった。秀吉はこの句を「土岐氏である自分が天下を治める5月になった」と反乱の決意を述べたものにしたかった。この日付は28日で6月2日の変の直前とした。しかし、真実は24日で自分の属する「土岐氏は今この降り注ぐ五月雨に叩かれているような苦境にいる五月である」と詠んだのであった。このために連歌会の当日は雨の日であり24日だったことを文献から3人の日記、多聞院日記、言経卿記、家忠日記を調べている。石谷文書が裏付けた長宗我部元親の記録にあるように信長の長宗我部攻撃を前に、土岐一族の苦脳を伝えたものだった。光秀は土岐一族である石谷氏、家老の斎藤利三、長宗我部と同盟を結んで団結していたのである。それが信長によって崩壊し滅亡することを恐れていた。文献による緻密な検証は本能寺の変が信長の四国攻撃に対する長宗我部の謀略の一環であったことが明らかになった。しかし、これだけでは説明しきれない部分は状況証拠しかない。著者の見解では、秀吉は光秀を腹心として信頼していた。光秀は謀略の相談相手であり全てを知っていた。その中で、信長は天下を統一した後は「唐入りー中国侵略」を計画し、外様の大名を海外侵略に使い日本から追い出そうとしていたこと、また、邪魔者になった家康を招き、本能寺で暗殺することとそれに光秀の軍団をを使おうとしていたこと、それが成功すれば次は自分が責任を取らされ滅亡につながるという苦境にあったことである。これらはあくまでも推測だが、その後の光秀の一族が徳川から重用されたことや、家康や秀吉の行動に不思議がなかったことは、十分納得できる見解である。さらに興味深いのはフロイスやオルガンチーノが信長の情報をかなり掴み、また、記録も日本に無いものが残っていることが驚きであった。信長のボディガードとして送られた彌助という黒人が生き残り、詳細な報告をイエズス会に送っていたのであった。明智氏の従来説が、時の権力者によって改竄された結果であり、国策として残されたのであろう。信長と光秀が対立した原因となった幾つかの出来事は、その後、秀吉の朝鮮出兵や、千利休切腹、秀次の抹殺などに原因を与えたことも興味深い。家康の改易、春日局の重用などの謎に解釈を与えてくれた。

明智氏の本能寺のへんに関する解釈や、信長と光秀の関係につていは今後ドラマなどで新しい作品のインスピレーションを与えてくれるものであろう。著者は「織田信長432年目の真実」という本も幻冬舎から出している。この本の内容は、当時の武将が孫子の兵法、論語、韓非子を熟読し、そうした思想を元に政治、軍事を展開していることを実例をもって示している。文献と当時の思想に立ち返って歴史を見直すと、また違った風景が見えてくる。しかし、この信長編にかかれているものは、殆どこの本能寺の変バージョンに書かれている。


[PR]
by katoujun2549 | 2016-04-12 01:26 | 書評 | Comments(0)