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本能寺の変 日本史最大の謎に新解釈


 1.明智光秀は信長謀殺の機会を覗っていた
 本能寺の変 431年目の真実 (文芸社文庫) 文庫 – 2013/12/3明智 憲三郎 (著)が話題になっている。何故春日局が徳川家で重用されたのかが自分は分からなかった。彼女の父親は明智光秀の重臣、斎藤利三であったからだ。それが、少し分かってきた。日本史最大の謎は明智光秀の本能寺の変であろう。昨年大原美術館で石谷家文書という戦国武将との手紙が発見され、その中で長宗我部元親とのやり取りを示すものがあり、明智光秀が苦境に立たされた原因が明らかになった。この手紙は信長に恭順の意を伝えるものだが、無意味となったため、石谷家に保管されることになった。明智光秀の部下で本能寺の変を画策したと言われる齋藤利三の親族が石谷家であった。信長は長宗我部元親に四国を平定させ、恭順させる交渉を光秀に任せた。おそらく、知者光秀の策だったのだろう。信長はこれが気に入らなかった。光秀は、元親から信長に恭順する約束を取り付けたにもかかわらず、信長は気が変わり、羽柴秀吉に四国攻撃を命じて、丹羽長秀を総大将にする方針に転じた。明智光秀は石谷家を通じて交渉を進めていたが、信長の突然の方針変更に面子が潰れた形になり、信長への不信感は頂点に達した。
 「長宗我部元親が斎藤利三に宛てた天正十年五月二十一日付書状には元親が信長の命令に譲歩する意思が書かれていますが、信長は既に二月時点で長宗我部征伐の発動を行い、五月七日には三男信孝に四国国分けの朱印状を与えていますので「時、既に遅し」です。そのためこの書状は斎藤利三には渡されなかったか、あるいは受け取りを拒否されて『石谷家文書』に所蔵されることになったものと思われる。」
 石谷家文書には長宗我部家との文書があり、これが長宗我部元親を記念した元親記の内容を裏付けるもので、この中に斎藤利三が信長謀反を急ぐ記述もあった。このことから、天正10年に入って、信長が行った様々な行動に対して光秀は既に謀反を企てていたことが伺える。

2,信長のリストラ
 天正8(1580)年8月10日、佐久間父子の追放処分を下した信長は、さらに老臣の粛清を断行。組織の若返りを図ったと思われるが、既に50代になっていた光秀はいつか切り捨てられるという不安を抱いたはず。石山本願寺の視察を終えた信長は京に到着。そしてこの時筆頭家老とも言うべき存在の林秀貞(通勝)と美濃三人衆の一人である安藤守就とその子・尚就さらに丹羽氏勝(長秀とは別家)の追放を決断します。その矛先は徳川家康にも向けられていた。信長は富士山を見に駿河に行って、富士山を絶賛したが、何も山見物に行ったわけではない。これは徳川偵察であった。
 明智光秀は秀吉支援に向かう途中、本能寺に向かったのである。従来は秀吉の応援は不名誉だと光秀が苦しむ場面がドラマではあるが、実際はそのような応援はよくあることで、参謀として行く訳で当たり前のことであった。信長と光秀の間に何があったのかは両人があの世に行ってしまい、証言できないので、ここは謎として常に残る。しかし、信長が朝鮮と明に侵攻する計画を実際に立てて、外様の武将をそこに送り込もうとしたことは光秀のみが知っており、このことへの危機感は相当なものだったと思われる。直接的な動機は別にあり、光志での読みは、四国の長宗我部と家康が味方になれば信長の家臣、特に、羽柴秀吉と柴田勝家に対抗できると考えたことだろう。家康とどのような約束があったかはわからないが、なんらかの恩義を家康は光秀に感じていた。海外派兵と家康攻撃は明智光秀にとって耐え難いことであり、これを抑えることは正義でもあった。


3,独裁者のナンバー2は粛清されやすい
 金正恩がナンバー2張成択を粛清したのは記憶に新しい。ヒトラーのナンバー2ヘスもイギリスに亡命した。スターリンはジェルジンスキー、エジョフ等を次から次へと粛清。独裁者にとってナンバー2は知りすぎた邪魔者なのである。
 信長は光秀を自分の言いなりになる忠実な部下と思い込んでいた。しかし、当時武田を滅ぼした後の徳川家康の対策について信長との意見の相違があり、これが信長の癇癪を招き、信長饗応役であった光秀の解任と彼を足蹴にした暴力行為につながった。光秀は家康攻撃に反対していた。光秀は信長の家臣として知りすぎた男であった。四国攻撃の方針の違いと、光秀の面子が潰され、危機感を抱いたことだけが動機ではない。
信長に対する謀反の原因は、単なる恨みから突発的に本能寺の変を起こしたのではなかった。光秀謀反の危機感は秀吉も予測しており、彼の迅速な大返しの準備を怠らなかった理由にもなる。

4,春日局を家康が厚遇した理由
 また、家康は光秀にはむしろ感謝し、恩義を感じ、光秀の家臣,利三の娘を春日局として重用した理由がそこにある。信長は本能寺に少数の手勢しか持っていなかった家康を招き入れようとしていた。家康も危険を察知すれば上手くいくかは分からないが、術策にはまれば実行するつもりだったろう。本能寺への家康招待を利用して光秀に殺させる手立てが、逆に自分に向けられた。光秀は信長の謀略の相談相手だったから全てを知っていた。天下布武のため毛利、長宗我部、上杉、伊達と強力な大名との戦いが残っていた信長にとって、徳川家康の暗殺は絶好の機会だった。信長と家康は昵懇の間に見えるが、現代の我々には計り知れない冷徹な関係である。信長は家康を幼少の頃から知っているが、家康の嫡子信康を切腹に追い込み、正室も殺害させている。感情の問題ではなく、戦国の力学にもとずく厳しい政治的関係で動くのである。信長も弟を暗殺している。
 信長は家康を高く評価したが、武田滅亡後はむしろ脅威であり、機会あれば攻撃をもくろんでいたに違いない。秀吉も後に徳川家康を警戒し、小牧長久手で一度戦っている。鋭い信長が手を打たないはずはない。天正10年信長は家康を招待した。これは彼を光秀に討たせようという謀略であり、このことは当時の噂にもなっていたほどであった。
 
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5信長の謀略
 信長は、徳川家康を本能寺に呼び寄せ、光秀に討ち取らせるつもりだった。ところが、この計画を聞いた光秀は、ゆくゆくは明智一族も滅ぼされると思い、家康と織田家打倒を決意。家康との談合の末に、信長と息子の信忠の間隙を縫って決起したのが本能寺の変だったという説が有力になってきた。信長が指示した家康暗殺を光秀が行ったとすると、信長は大義名分を自分のせいにはせず、光秀が証拠隠滅のために狙われることは明らかだからだ。この計画が上手くいっても、結局は光秀と秀吉は戦うことになっただろう。秀吉は信長から家康暗殺が成功したら光秀を打つように指示されていたかもしれない。推測だが、秀吉が大返しの準備をしていた理由も納得できる。とはいえ、光秀と信長の関係は両者しか分からぬ謀議が背景にあり、本能寺の変の謎は今もなお深い。従来の信長公記など限られた資料のみをベースにした戦国物語はドラマ設定は今後大きく変わるであろう。
以下、
http://blog.goo.ne.jp/akechikenzaburotekisekai/e/746430c823d3cd630ff0816b9f3e596aからの引用。
< 岡山の林原美術館所蔵の『石谷家文書』から本能寺の変にかかわる長宗我部元親の書状などが発見されて話題になりました。これについては林原美術館プレスリリースに解説されているのでご覧ください。
 今後、研究者が次々と見解を表明することになると思いますが、このことの意義を正しく把握できている研究者が果たしているのか疑問です。方向違いの意見が出てくることが懸念されますので、その意義を解説しておきます。
 >>> 新発見!「四国説」を裏付ける?長宗我部元親の書状

 『元親記』という書物があります。長宗我部元親の側近だった高島孫右衛門という人物が元親三十三回忌に当たる寛永八年(1631)五月に元親を偲しのんで書いたものです。
 その中に次のような記述があります。(泉淳現代語訳『元親記』による)
「重ねて明智家からも、斎藤内蔵介の兄の石谷兵部少輔(いしがいひょうぶしょう)を使者として、信長の意向を伝えてきたが、これをも突っぱねてしまった。そこで信長は、火急に四国征伐の手配をした。御子息三七信孝殿に総支配を仰せつけ、先手として三好正厳(康長)が、天正十年五月に阿波勝瑞城に下着、先ず一ノ宮、夷山へ攻撃をかけ、長宗我部の手から、この両城を奪い返した。信孝殿は、すでに岸和田まで出陣していたという。斎藤内蔵介は四国のことを気づかってか、明智謀反の戦いを差し急いだ」/font>

by katoujun2549 | 2016-04-06 09:58 | Comments(0)