戦争の愚かさー戦争体験

 集団的自衛権の議論がマスコミを賑わせている。自民党の高村氏はしきりに、昔と戦争の状況は変わった。ミサイルが飛び交う戦争をイメージしている。しかし今日も戦争の悲惨は弱者に襲いかかる。彼らの戦争のイメージは戦闘とか、政治家が扱う部分だけを前提にしているように見える。艦対艦ミサイルが発された時が交戦と見なすと言った規定は結構だが、戦争は様々な形態で始まる。よく使われる口実が自国民の保護、領海領土侵犯、近年はサイバー攻撃もあり得る。事前に反撃に至る方法を準備し難い。その前にスべき事があると言いたい。軍事攻撃の一撃は防御出来ないと見ても良い。それより戦争をどうとらえるかである。戦争とは殺し合いであり、破壊行為である。国家の承認のもとに行なわれる暴力である。これを何も起きていない時に法制化し準備することには抵抗が大きい。安倍首相は何故大戦での日本軍の行為を謝罪しないのか。賠償金を要求されている訳ではないのに。謝罪すると金を取られるのだろうか。日本は戦後賠償は行なって来たが、勿論充分ではない。そこを突かれないようにしているのだろうか。よくわからない。

 団塊の世代である昭和22年生まれは第二次大戦が終結して二年後に生まれた。戦中派が自分の親や叔父叔母の時代で、子供の頃、親類の集まりや、戦中派の教師などの大人達の会話から戦時中の体験を漏れ聞いたりした。自分の両親も戦中派だったが、子供に戦争中のことを敢えて語ろうとしない場合も多い。つらかった時代を忘れようと懸命に働き、高度成長を実現した世代は、辛かった時代を思い出したくない。戦争は不条理な体験を強いる。体験者も整理がつかないこともあるのではないだろうか。

1.父の場合
 自分の父親は戦時中、三井鉱山の社員で、召集も受け、検査の後九段の近衛師団に入営したが結核痕があったので即日帰郷となった。1945年に朝鮮で半年の兵役があっただけで戦地には行かなかった。父の会社には社宅があり、友人宅に遊びにいくと、戦地帰りの方もいて、将校だった人が多かった。短剣や将校用の装具、刀なども持っていて、子供ながらに、何で自分の父親は持っていなかったのか、気になってよく聞いたものだ。その父も朝鮮から引き上げる時には引き揚げ船が沈没しそうな海域を通ったり、友人が帰国直前に病死し、遺体を荼毘に付した時の辛い気持を語ったのは2004年に82歳で亡くなる1年前であった
軍人の勇ましい行進や戦闘シーンの陰に多くの不条理な悲劇が起きていた。ドイツのホロコーストの犯罪も全貌は不明なことが多い。強制収用所のことは歴史的に証拠の多い犯罪であるといわれている。しかし、膨大な事実を前に、ソビブル、ヘウムノ、トレブリンカのことはあまり分っていない。ニュースや映像には載らないむごたらしい話も含めてである。特に、第二次大戦以後も戦火は続き、朝鮮戦争、ベトナム、イランイラク戦争、バルカンの紛争、アフリカの内戦や中東戦争で軍事行動の周辺に何十万人もの市民の犠牲が生まれるようになった。多くの人々の死、離散、生活苦、自由の束縛など悲惨と苦難の時代を戦争は生み出してきた。戦後生まれだが、団塊の世代である自分の記憶にある戦争を描き出してみよう。

2,西南戦争の現実
 日本が明治に入り、10年目に起きたのが西南戦争であった。戊辰戦争の恨みを晴らそうと多くの会津の若者が政府軍に従軍した。気の毒なことに、その戦死者も4割が戦病死だった。当時流行ったコレラに感染したものが多かった。戦場では不衛生、感染症などの病気、寒気、雨や雪も敵である。太平洋戦争でも、実際に戦場で戦死した軍人より、餓死、病死、輸送船の沈没による水死が多かった。亡くなった方々は無念であったろう。戦争では思いがけない死が迎えに来る。
 
3、会社の上司
 自分が会社に入ったとき、人事部長のWさんは中国で終戦を迎えた。彼は杭州付近で駐屯し、中国人の民家で暮らしていた。その家の娘と恋愛関係になり、家族からも信頼されていたが、突然転戦命令が来て、移動となった。中国人の家族は自分の後を追い、1日かけて見送ってくれた。凄惨な話の多い中国だがそんな戦地もあった。ところが、ある日山地を行軍していると、銃声がして皆もの陰に隠れた。突然、斜面にいた自分に向かって石ころのようなものが投げ込まれ、コロコロころがって爆発、手榴弾だった。気がつくと腹から血が出ている。やられた、と思ったが身動きできず担架で病院に運ばれた。何日か治療で寝ていると、部隊が中国から離れ、船で出発して取り残された事が分かった。ついていないと嘆いたが、後にその船はフィリピンに向かい、途中で撃沈され、部隊は全滅した。運が良かったのである。戦場は理不尽がつきものなのである。戦争体験者は運が良かった人々である。

4.剣道部の先輩
 剣道部のS先輩は学徒出陣で出征、情報将校としてミャンマーに赴任することになった。船団を組んで南下、ベトナム沖でアメリカの潜水艦攻撃を受けた。暑い夜だったのでデッキに出ていると僚船が爆発し、沈没。呆然と海を見ると魚雷が自分の船に白い線を引いて向かってくるのが見えた。船長の操船が巧みで次々と回避。魚雷は避けることが出来るとは知らなかったが、夜が明けると残ったのは自分の船だけだった。ベトナムからマレーのポートディクソンで暗号作成の業務に携わった。終戦でフランス軍の捕虜になった。そこで知ったのは、自分たちが苦労して作った暗号は全て解読されていたことだった。愕然としたそうである。
門田隆将氏の「太平洋戦争最後の証言」は既に90歳を超えつつある戦中派の最後の証言を綴ったドキュメンタリー三部作(特攻編、玉砕編、大和沈没篇)である。 九死に一生を得て今日まで生き、戦後活躍された人々の証言集である。しかし、加害者の側に立った兵士の証言や多くの市民の受けた苦しみも語られなければならない。戦場になった土地では弱者に戦争の牙は荒れ狂ったのだ。

5.婦人会のHさん
 教会の婦人会にいたHさんは終戦の時の思い出を語っていた。JR市ヶ谷の駅を出て橋を渡り、外堀を越えて左側に自衛隊の本部がある。ここはかつて大本営のあった所で、三島由紀夫が自殺したり、東京裁判が行われた場所。終戦の数日後、大本営の入り口の前の道に疲れきったご婦人が何やら叫んでいた。自分の子供三人の名前を呼んでいた。戦死したようだったが、建物に向かって三人の子供を返せ!と大声で狂ったように何度もさけんでいたそうである。その声が耳について離れなかった。彼女は大本営の教育部に勤務していた方だったのである。

6.中学時代に見た戦争の名残
 自分は、中学にはいると千葉県の市川市八幡から都心の中学校に通っていた。総武線が新小岩の駅を出て荒川の鉄橋を渡る手前に大きな鐵工所があり、スクラップの鋼材が積んであった。何百という鉄兜が真っ赤に錆びて山のように積まれた光景を毎日見ながら電車から見ていた。そのスクラップは流石に東京オリンピックの頃にはなくなっていたように思う。自分が中学生の頃はまだ戦争が終わって14年しか立っていなかったわけだから、当時の生き残りも多かった訳である。インパールで敗残兵となった生き残りの兵士、中国兵の捕虜の首を刀で切った剣道の達人、満州からの引き上げで、ソ連兵が街に入ってきて機関銃で通行人を蜂の巣のようにして撃ち殺した目撃談、病気の友人を背負って空襲から逃げる中友人に弾が当たって自分は助かった人の話など自分もよく聞いたものだ。団塊の世代にとり、戦争はそう過去ののことではなかった。だからこそ70年安保闘争やベトナム反戦もあれだけ盛り上がったのであろう。戦争の記憶は40年で風化する。戦後70年、歴史に学ばない政治家の傲慢さが怖い。

  

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by katoujun2549 | 2015-07-11 01:48 | 国際政治 | Comments(0)