映画「永遠の0」を見た。「ゼログラビティ」も。風立ちぬは?
この作品では、三浦春馬と井上真央といった若手も精一杯の演技だ。そこを風吹ジュン、吹石一恵などの渋いベテラン俳優がしっかり脇を固めている。父親役、夏八木勲は惜しい事に昨年亡くなった。劇中、三浦のインタヴューする相手は平幹二朗、山本学など皆ベテラン俳優であった。宮部を演じる岡田は今年の大河ドラマ、黒田勘兵衛の主役である。演技の良い作品は見ていて気持ちがよい。5年ほど前に小説を読んだが、かなり忘れていた。映画を見ながら、ああ、そうだったかと思い出した。自分は、門田隆将さんと、特攻の研究の経験がある。そして、「蒼海に消ゆ」というノンフィクション作品を世に出す貴重な経験をすることができた。興味を持ってこの作品を読んだし、映画も見た。特に、空戦のところや空母からの出撃シーンは見事である。時代考証もきちんとしている。あの宮部久蔵のようなパイロットはいたのではないか。自分が本を読んだ限りでは、過去の特攻に関する資料には、実にウソが多い。それは死んだ仲間、そして上官などに配慮するからである。特攻で戦死した将兵は皆苦悩し、疑問を持ち、そして堂々と任務を遂行した。しかし、彼らが死に直面し、どんなに恐れ、その行動の意味を求めていたかは、聞けわだつみの声といった遺書では伝わって来ない。この作品でもそこが弱い。最後は三浦の慟哭で終わるが、自分の祖父の事で、そんなに興奮するのだろうか。もっと、余韻のある演技が出来なかったのだろうか。小説ではやはり、最後に宮部が空母に突入する所で終わる。
封切りして時間が経っている割には、館内70%くらいの混み具合であった。
その後、サンドラブロック、ジョージクルーニーのゼログラビティを見た。宇宙空間でハップル望遠鏡の修理の為に宇宙空間で作業中、宇宙のゴミ(ロシアの衛星の破片)に襲われ、スペースシャトルや宇宙ステーションが破壊される話。そこで、残された二人が生還に向けて必至になる。ジョージクルーニーが、そんな時でも平静さを保って堂々と死んで行き、女性宇宙飛行士のサンドラブロックがドジばかりで、いらつく。ところがある時点から人が変わったように、スーパウーマンに転じてしまう所が不自然である。何と、中国の宇宙ステーションも操縦してしまう。あの女優はやはり大根役者なのだろう。そのレベルの映画にぴったりで、時々宇宙服を脱いでお色気を発揮する。しかし、おっぱいは絶対に見せないのがケチ。ギャラが問題なのか。無重力空間のトラブルがテーマ。ネタバレだが、サンドラブロックだけが無事地上に生還する。無重力の感覚、どうにもならない力学的な作用が実に巧みに特殊撮影で表現されていて、ゼログラビティの怖さが伝わってくる。宇宙空間は真空だし、無音のはずだが、音楽だとか、破壊音がガンガン鳴ってくる。これは変。本題は単なるグラビティなのだが。自分が本当に宇宙遊泳している気分になる。ドラマ性はあまり感じない。主人公が死んでは話にならないドラマであることが途中で分かってしまう。永遠のゼロがまさにドラマそのものに対して全くの映像トリック映画であった。むしろ見事な特撮映像に満ちているこの映画のメイキングを見たいものだ。
ゼロ戦ものでは宮崎駿の「風立ちぬ」を見たが、これは戦争体験として、また、零戦製造秘話ものだ。宮崎駿の飛行機への情熱は伝わったが、作品のドラマ性は通俗的だった。結核療養中の女性とエリート技術者の悲恋ものではないか。良かったのは絵が奇麗で凝っていたことくらいだ。主人公の恋愛物語も、まるで明治の尾崎紅葉、ホトトギス、新派の芝居みたいだった。この3作品を比べると、今回の永遠のゼロの出来は非常に良い。宮崎駿がこの永遠の0にいちゃもんをつけている。何を言ってんだろう、風立ちぬの話はドラマとしては漫画ではないか。宮崎が奴隷のように使ったアーチスト達の絵から生まれた宮崎ワールド。そこでしか成り立たない荒唐無稽なドラマこそ、彼の真骨頂である。
三作の主役は、永遠の0が天才パイロット宮部久蔵、ゼログラビティは何と重力(gravity)、そして風立ちぬは画面には出てこないが、これを最後の作品にすると目立って不思議がられた飛行機オタクの宮崎駿である。