死海のほとり

  書評 遠藤周作 「死海のほとり」 

 遠藤周作著作集の三巻に支倉常長のことを書いた「侍」を読もうと図書館から借りた。ところが、この間の半分は「死海のほとり」だった。もう、20年くらい前に読んだ本だが、憶えているかどうか、気になったので、読み始めたら一気に読んでしまった。やはり殆ど記憶になかったが、コバルスキー、「ねずみ」というあだ名の修道士のことはかすかに残っていた。遠藤のキリスト観の集大成のような作品である。この作品は主人公のイスラエル旅行と、戦中でのカトリックミッションスクール (多分上智大学) の思い出、そして聖書のイエスのガリラヤ伝道と最後の十字架の受難の物語が三層になって組み立てられている。
 主人公は大学時代、熱心なカトリック信者となった友人とイスラエルで再会する。友人は聖書学を現地で学び、国連職員として駐在している。主人公の旅の目的は、イエスの旅を辿り、イスラエルにいる強制収容所の生き残りから「ねずみ」というあだ名であったコバルスキーという修道士の消息を知る事でもあった。戸田と違い、常に迷いの中にある作者は、イエスにこだわり続け、小説家として、13番目の使徒という作品の取材に行くのである。友人の戸田はイエスを歴史的存在として調べるほど、信仰は薄れ、かつての情熱はすっかり無くなっていた。そこで、この小説では、戸田の描くイエス像に従って、主人公がイエスの受難の道を辿る物語が並行して語られる。この受難物語のイエスは、無力で、奇跡など起こす事が出来なかった、最後は周りから見捨てられたイエスである。しかし、愛の人という点では、古代の常識を超えた行動を示した姿が描かれる。この小さき者にしたのは、すなわち私にしたのである。この物語に織り込まれたイエスの受難物語は、友人の戸田から作者が受け止めた歴史的イエス像である。

 何故、主人公は「ねずみ」という修道士の最後を知りたかったのだろうか。ねずみは、修道士としては情けない、自己保身欲の強い、計算高い人物であったが、これは主人公の負の自分自身とも重ねている。そして、その対局に、強制収容所で、餓死刑を宣告された囚人の身代わりになって亡くなった「マディ」という神父の事が詳しく書かれている。この部分は実話として知られる、ポーランドのコルベ神父の話をモチーフにしている。遠藤周作は、自分自身を「戸田」と「ねずみ」を自分の分身、そして、学生時代に戸田に影響を与えたノサック神父と「マディ」神父をコルベ神父に重複させてモチーフにしている。自分のような自己中心的な人物に救いはあるのか、俗世間にいる人々にイエスの救いはどう関わるのかというテーマである。
 ネズミがドイツのゲルゼンという架空の収容所に収容され、そこでの彼の振る舞いを見せつける。コルベ神父をモチーフにしたマディ神父の逸話を対比させて我々の信仰を対比させている。
 ここでは、マディ神父や、学生時代の寮監だったノサック神父、さらには巡礼団のリーダー的存在だった大森牧師という正当派の信仰に見られる「勝利」するイエスと信仰が語られると同時に、戸田や作者、さらには「ねずみ」に代表される、敗北した信仰心、挫折と後悔に満ちた人生、無力な人間の姿である。遠藤はここで、ネズミの最後を通して、イエスは両方を支え、働きかける復活のイエスを語りたかったのである。

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by katoujun2549 | 2013-06-26 14:00 | 書評 | Comments(0)