橋下発言、覆水盆に戻らず。敗戦を忘れた政治家

 橋下大阪市長の従軍慰安婦問題発言でマスコミは格好の記事ネタを見つけて大騒ぎ。案の定というか、石原慎太郎のインタビューにも成功し、一蓮托生の証言も得た。これでマスコミも攻撃態勢は出来上がってリング対決なのだ。橋下もうかつな事を言っているようだが、敢て虎の尾を踏んで騒ぎを起こそうという魂胆で危ない話だ。「暴走する地方自治」の著者、新潟大学教授、田村秀氏が語っているが、暴走首長の共通点はマスコミを利用し、これまでの正論を批判、官僚を小馬鹿にして国民の喝采を浴びるという姑息な手口。ポピュリズムが蔓延している。何か批判が出たり存在感が薄れると、彼等は、さらに大きな問題を提起したり、刺激的な発言で本質をそらしてしまう。そこにマスコミは悪のりするのである。これに成功すると、権力者と化すようで暴言がはびこるのである。名古屋の河村たかし氏がリコール問題をクリアし、市長の座を確保したとたんに南京事件問題で中国の批判を浴びたことと軌を一にしている。

 当たり前の話だが、政治家は第二次大戦中の話はきちんと論理的に、誤解を受けないよう、関係者からの批判にどう答えるかを想定しないで発言してはいけない。なぜ、こんな当たり前のことが今の政治家にはできないのだろうか。権力者が奢ってくると必ず本音を言う権利がいつでもあるという錯覚に陥るのだろうか。彼らは何らかの計算をしている。この事が分からないほどの馬鹿ではないはずなのだ。国民の30%は自分の暴言を支持するはずで、曖昧にしている人よりは、共感を得た人達のパワーを吸収した方が得だと思っている。今の時代はマスコミに露出した方が得なのである。みんながやった事で良いこともあれば悪いこともある。悪いことは止めようというのが政治家の役割。風俗店を取り締まる人が使うことを奨励する筋合いではない。

 1945年昭和20年に日本は無条件降伏したが、辛うじて天皇制と、国土の分割は免れた。何故このような結果になったのか、日本は何を目指すべきかについて吉田茂などの政治家は懸命に道を探り、田中角栄に至るまで、経済の復興を優先してきた。今日の日本を考えると当時の日本の敗戦という道の勇気ある選択こそ賞賛されるべきであった。これを本土決戦まで持っていけば、いまは北海道はロシア、九州は中国と韓国に分割され、日本は本州と四国ぐらいだったろう。

 戦後の民主主義と弱腰外交の流れは時として、国民には苦痛を伴った。大くの戦死者や犠牲を鎮魂する方法や作業が後回しになったからである。又、戦後の東西対立と共産主義への批判もあり、軍事体制の復活を進める必要もあった。そんな中で、戦後10年ほどで戦後民主主義や戦前の政治批判を論じた政治家や学者への反発する政治家、国民感覚に迎合するマスコミ、小説家も登場した。石原慎太郎などのグループは丸山真男などへの批判で世に迎合したのである。大衆はストイックな考えを好まない。大阪市長の橋下もその追随者である。彼らに共通しているのは、戦争という現実に起きたことを肯定し、戦争で起きた悲惨さ、悲劇を後回しにしてこれを全面に出す事を嫌悪、反省しないことである。自分の知らない時代は無かったことにしたい。慰安婦問題を語るほどの歴史認識は本来無いはず。彼が靖国神社に参拝したとか、遺骨収集に行った話は聞いたことがない。そこに首をつっこんだ彼らのベクトルは常に上から目線、この懲りない面々、いびつな感性こそ問題なのである。マスコミは早く彼の意図を暴き、無視で黙殺すべきである。語るに落ちた一件として。
 
 今回の橋下発言の読み違いは、アメリカから出た不快感を表す発言である。この橋下も石原慎太郎もアメリカという国の真面目さ、キリスト教を建前とする国家の基本をなす「感性」を全く分かっていない。建前と本音のつかいわなどという曖昧な言動を使い分けるlことに嫌悪感を持つ人々の存在である。言っていいことと悪いことがはっきりしているし、何でも自由を尊重する国民性だが、タブーはやはりある。アメリカ人のタブーは日本のように単純ではない。地域、州、階層、さらに人種によって違う。なかでも、セックスと人種差別、キリストを侮辱する事は共通しているが、内容は実に複雑。ところが、石原慎太郎も橋下もこの点を全く分かっていない性凝りの無い輩である。寅さんのよくいうセリフ、これを言っちゃあお終いよ。覆水盆に返らずである。日本の政治家でアメリカ政府に嫌われて成功した人はいない。



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by katoujun2549 | 2013-05-16 07:16 | 国際政治 | Comments(0)