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奇跡物語


 聖書の奇跡物語に多くの人が戸惑うのではないか。新約聖書はそうした奇跡に関する逸話が満ち溢れている。それらを、まるで、ゴミのように取り除き、史実と思われる部分や、道徳的な言葉を取りだしてそこに価値を見出せばいいのだろうか。それは違う。聖書の主張はまさに奇跡物語のなかにあるのだから。たとえば、5匹の魚と五つのパンを5000人に分けたという。これはいったい何だろうか。聖書には象徴やサインとなった表現が多く、その意味はこれらを知っていると知らないとでは大違いだ。聖書では魚は信徒、信仰、パンはこの世の糧やキリストの身体、葡萄酒は収穫、活力、血とかキリストの体などの象徴となる。また、ブドウの木は教会に連なる信徒などの印、結婚式は神との交わりを示している。ディズニーが、一匹の鼠から始まったという言葉がある。これは鼠といってもウォルトディズニーが貧乏生活時代に部屋に現れたネズミをモデルに描いたミッキーマウスであるが、物事の起源を語る表現方法の一つである。原始キリスト教時代、魚というのはキリスト教の象徴でもあった。これが十字架に代わるのは4世紀に入り、皇帝によるキリスト教公認後である。

 5000人の人々にたった5匹の魚と5個のパンで全員が満ち足りたという奇跡物語は3つの福音書に記されている。マルコ8章では4千人に8個のパンと僅かな魚、マタイ伝では5千人に8個のパンと魚となっていてその説明はかなり執拗である。神は常に福音を証明することにに必要なものを備えて下さる。素直に読めばそういうことになる。あるいは、精霊の働きが多くの聴衆におよび、全員が満足したと受け止める事も出来る。
 
 出エジプト記の砂漠で放浪中のユダヤの民の上に降らせたマナの雨然りであり、旧約聖書はそうした神の奇跡の歴史であった。新約聖書ではイエスによって多くの奇跡が行われ、その最重要のことが死人の復活である。新約聖書の記述には奇蹟と例え話、イエスの講話や行動の記録で構成され、そこでの聖書の奇跡物語は一見荒唐無稽のような表現が現代人にはあるが、信仰生活 、教会生活を長い間送っているうちに、成る程と思うことがあり、聖書の読み方にもかかわって来る。とにかく二千年前に書かれた本である。イエスのパンと魚の奇跡にはかなり丁寧で執拗である。まるで手品のように無かった筈のパンや魚が行き渡った。何を伝えよとしているのだろうか。神は常に福音を証明することに必要なものを備えて下さる。
 出エジプト記の砂漠で放浪中のユダヤの民の上に降らせたマナの雨然りであり、旧約聖書はそうした神の奇跡がえがかれた歴史であった。「明日の労苦は明日にて足れり。」神は全てを用意されている。何も恐れる必要は無い。聖書の中で語られる神の言葉は理屈抜きに我々を導く。アブラハムが故郷を離れるとき、また、ノアの箱舟然りである。イエスは漁師のぺ照りに告げる、「私に従ってきなさい。これからは人間を漁る漁師になる」という。いちいち理由は説明しないのである。

 神は我々に必要なものを準備し、与えてくださる。神との関係においてである。求めよ、さらば与えられんである。また旧約聖書の申命記には出エジプト後の砂漠における民にマナを降らせる神に、肉を食べたがる民の姿、そして自らの無力を訴えるモーゼの信仰の危機が語られている。聖書は人間の精神の歴史であり世界そのものである。人間の心の世界は聖書で全て語られている。

福音派では聖書を文字どおり解釈する人が多い。歴史的な出来事と主張するが、中には象徴的な表現としたり旧約聖書には神話に起源を持つ物語もあることは譲れない。それらは神と人間、私たちとのふれあい、霊的体験の不思議や感動を表現している。古代の人々、新聞もテレビも無い人にイエスキリストがその教えを伝えるには、奇跡やシンボルが必要だった。文章を読んだり、本の普及していない時代、どうやってキリストの言葉を伝えることができるだろうか。文字表現として我々に感動を伝えるこうした表現を受け入れなければ聖書を理解し、学ぶことは難しいだろうとも思う。

 しかし、聖書を自分で読み、解釈することは間違いや誤解が伴う危険がある。そこで教会は様々なメッセージで我々にイエスキリストの恵みとして神の心を知ることができるよう「礼拝」を組み立ててきた。さらに音楽や演劇、祈りの場など、そして教会建築が神のメッセージを伝える手段となった。 ヨーロッパの教会で行われた受難劇は今日の演劇の起源だし教会音楽、聖歌や讃美歌は現代音楽、黒人霊歌はゴスペルやジャズに発展した。何も聖書を正面から理解せずとも信仰に至る道がある。日本では黒人霊歌だと思われがちだが、実際はそうではない有名な曲もある。賛美歌第二編第164番の)「勝利をのぞみ」("Weshallovercome,')と第167番)「われをもすくいし」("Amazing Grace,,)である。「勝利をのぞみ」は公民権運動歌として1963年8月のワシ ントン大行進でも歌われた。白人フォークシンガー、ジョーン・バエズ (IoanBaez)の十八番であった。ケネディ大統領亡き後引き継いだジョン ソン大統領が連邦議会での公民権法をめぐる演説を“WeShallOvercome ll で締めくくった場面は、公民権運動を伝えるドキュメンタ'ノー・フイルム には誇らしげに使われている。「われをもすくいし」がかつて奴隷船の船長 であった牧師ジョン・ニュートン(JohnNewton)によって1779年に書かれたものであることはあまり知られていない

 キリスト教の根本は、神が愛という新たな律法を人間をすくうために、イエスキリストによってもたらされたということである。そして、キリストは十字架の苦難を経て復活した。神はそのひとり子をこの世にもたらされたという最高の愛を示された。この復活の信仰は古代のどの宗教にもなかった。もちろんユダヤ教も同様である。サドカイ派などは否定派の急先鋒であった。イエスは彼らと論争した。「もし死んだ兄弟の妻と弟が結婚したら、皆の死後、あの世でその嫁と兄弟はいったいどうなるのか?」とイエスに問いかける。イエスは、神は活けるものの神であるとその反論を一蹴した。「アウシュビッツで600万人のユダヤ人が虐殺された。この魂の復活はどうなているか?」と質問されたらどうするか。全く同じことが言えるではないか。こうした質問は単なる抽象論、あるいはひっかけ質問にすぎない。まともに答える必要はないのである。アウシュビッツで九死に一生を得た精神分析学者、フランクルは言う。「私の過去は今の私の財産である。私はそれでも人生にイエスと言う。Trotzdem Ja zum Leben sagen!」悲惨な過去に対する現在の自分への答えである。過去も未来も問題ではない。今の私こそ意味がある。未来の架空の話に対するイエスの答えと相通じるではないか。

 パウロは十二使途ではないが、その後殉教した。命がけでイエスの復活を伝えたのである。もし、復活がないとすれば、全く無駄なことを伝えようとしたことになる。もし、復活がなければ毎日楽しくお酒を飲んだりしていた方がましだとも言っている。イエスの復活が歴史的な出来事であったことが確かだとおもうことがキリスト教の信仰の柱である。復活のイエスを伝えることこそ教会の使命である。終末とは何か、そしてイエスキリストは永遠なのである。私たちの過去の負債はイエスの十字架によって帳消しになっている。そして、未来には復活の希望がある。だから勇気が生まれるのではないか。
 イエスは金持ちの商人にどうすれば天国に行けるかと聞かれたが、「あなたの全ての財産を貧しい人にささげなさい」それを聞いて商人は悲しい顔をして去って行った。その商人は明日が怖かった。
ペテロはイエスに従って網を打ったら網は魚でいっぱいになった。そんなによく取れるならばそのまま漁師になろうと思う人もいる。しかし、彼は目の前のイエスが神だと思ったから従った。目の前の神である主イエスを信じなかった金持ちの商人との差である。明日を恐れることはない。また、過去の自分の行為を悔いることも無い。未来も過去も神によって肯定されているかろこそ、私はそれでも人生にイエスと言う。Trotzdem Ja zum Leben sagen!」なのである。
by katoujun2549 | 2012-08-28 11:52 | キリスト教 | Comments(1)
Commented by 流浪牙@キリスト教の奇跡物語に at 2012-11-24 01:23 x
ついては、かつて名禅僧の鈴木正三師が否定していたのですがkatoujun2549さんはその辺りはいかがでしょうか?