「革命をプロデュースした日本人 評伝 梅谷庄吉」小坂文乃著 講談社

 日活を創設し、実業家として手腕を振るった梅谷庄吉の伝記である。日比谷公園にある松本楼の常務である著者はそのひ孫にあたる。梅谷庄吉の養女の千世子は著者の祖母である。その祖母が残した文献には梅谷庄吉と、昨年百周年を迎えた辛亥革命の父、孫文との交流記録が詳細にわたり残されていた。それをまとめたものがこの本である。孫文が辛亥革命の父であり、中国という国の創始者であったことは現代共産党支配中国も否定できない歴史である。梅谷庄吉の当時の活動は日本の映画史でもある。日活という会社が「日本活動写真株式会社」であり、梅谷庄吉は必ずしもこの経営に成功していない。しかし、日本の映画が近代的企業となるきっかけを作ったのである。彼の制作した記録映画、白瀬南極探検隊は日本の映画史に残るもので、自分もこれを見たことがある。彼は、孫文の革命支援に多額の資金を、この日活の資金も使ったに違いない。そうした不透明なところを批判されて日活を辞した。

 その孫文は、当時の日本の知識人や政治家とも親しくなり、また、多くの援助を得ながら辛亥革命を成功させた。孫文が革命中に日本に亡命していたことは有名な話で、鎮西学院卒のクリスチャン宮崎 滔天や頭山 満などが親交があり支援した。しかし、この梅谷氏が財政的支援を始め、もっとも強力な支援者であったことは歴史の中に埋もれていた。何と、あの宋慶齢と孫文の結婚式は、梅谷庄吉の自宅で行われたのであった。梅谷の妻が仲を取り持ったのである。第二革命が失敗した後多くの革命の志士が日本に亡命してきた。中国革命の中心には多くのクリスチャンがいた。孫文も、その妻となった宗慶齢もキリスト教徒であった。孫文は革命の中で、最初からリーダーだったわけでない。多くの志士たちがいたが、その人格と指導力によって次第に頭角を現した。彼あってこそ革命が進むところまでこぎつけるには、宋慶齢や梅谷庄吉などの支援があったからであり、この本においてそうした秘話が語られている。

 孫文は「革命今だならず」という名言を残してこの世を去った。孫文の妻の宋慶齢の妹が宋美齢で蒋介石の妻であった。孫文が作った士官学校の政治部副主任が周恩来であったから、周恩来が日本との国交回復に熱心に取り組んだ理由が理解できる。辛亥革命の最終段階は、軍閥との戦いであり、その中心の袁世凱との対決であったが、孫文はこれに勝利する。しかし、孫文の死後、ロシア革命の影響から力を得た共産党と国民党の対立は、孫文の心を痛めた。孫文は58歳で肝臓がんでこの世を去る。日本の中国進出と、毛沢東の共産革命の前夜はこのようにして日本と中国の緊密な関係があったことをこれまでの歴史は語らなかった。2008年胡錦濤は松本楼を会場とする福田康夫首相の私的夕食会で孫文が残した記念の資料を見て、中日友好世世代々と記帳された。実はこのことを最も知っているのは中国なのである。

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by katoujun2549 | 2012-07-13 16:07 | 書評 | Comments(0)