城下町 新発田市

 
 新発田市は新潟から白新線で約30分ほどの位置にあり、豊臣秀吉の時代から続く城下町である。明治維新後は、師範学校や勇猛で知られた陸軍16連隊の駐屯する軍都であった。自分が6月から勤務する敬和学園はその新発田市の西のはずれ、聖籠町と接した位置に建てられた大学である。付属高校は新潟市で隣の北区にある。

 新発田城は市の観光遺跡の中心である。そもそも新発田は、溝口家を城主とする町であった。新発田藩10万石が豊臣秀吉の時代以来280年間も治めてきた。初代藩主は溝口秀勝。秀勝は上杉家が会津に移封された後に、越後の藩主となった堀氏の与力として加賀の大聖寺4万4千石から移ってきた。関ヶ原では徳川方につき外様ではあったが6万石、後に新田開発などで9万石を増やし、一部幕府に召し上げられたが最後幕末では10万石の大名であった。当初は上杉の領地だったところに、家臣50人ほどで乗り込み、治水や新田開墾の努力を続け、10万石にまで育て上げた手腕はなかなかのものである。土地が米作栽培に向いた風土があったことも幸いしただろう。忠臣蔵で有名な堀部安兵衛は新発田藩家臣、中山家の長男であった。また、解体新書で有名な杉田玄白の父親も新発田出身である。

戊辰戦争の時は奥州列藩同盟に一時は加わり、長岡藩の政府軍との戦いを支援したが、政府軍主力が新潟に上陸すると態度を一転、同盟軍に加わらず、政府軍を迎えた。機を見て新政府軍に合流、庄内、米沢、会津藩と戦った。一時は旗色を鮮明にしないことに怒った同盟軍に新発田城が包囲された。藩境では会津軍と戦ったが、このあたりの変化の読みといい、すぐれた経営手腕であった。しかし、奥州列藩同盟側からは新発田は裏切りとみなされ、その後も、新発田の負い目のようになった。この戦いで大もうけをしたのが大倉財閥のもととなった大倉喜八郎である。

 隣接の村上藩は同盟側だし、長岡も政府軍と戦ったから、新発田は周辺からは裏切り者とみられた。しかし、当時の判断としては、結果的には賢明であったが廃藩置県後は何も得るものはなかった。。明治に入っては軍都として、16連隊が駐留し、また、もともと学問の盛んなところで、師範学校もあった。今は新潟大学に吸収されている。新発田は地方都市として、戦火を免れ、美田の多い、経済的にも豊かで学問の盛んな地域であった。そんな土地柄であったから、閉鎖的で外の人間はなかなか馴染みにくいとも言われている。連隊長の子弟であったのが大杉栄である。江戸時代の武士のモラルである「義」を失ったかもしれないが、政治的には農民や町民を大切にした藩政は間違いではなかったと思う。武士の時代は終わったのだから。

 6月から新発田に来て2か月になろうとしている。最初困ったのだが、道路が覚えられない。
城下町というのは道が入り組んでいる。実際、よく似た街並みがあり、道を間違えると何度も同じ道を回ってしまう。旧市街はわざと道が入り組んでいるといわれているが、旧市街はそれほど苦労なく覚えた。ところが、新しい西新発田町がけっこう難しい。道路が区画整理で立派だが特徴がない。また、微妙に方位がずれている。いつもは車や自転車で通る道が、方向を失うと大変である。夜、西新発田のイオンから家に帰ろうとしたら、結果的に1時間も徘徊してしまった。夜になるといつも見えていた目印が見えない。さらに、道が暗く、似たような道路、コンビニ、住宅の外見が続く。まったくもってこの年になって初めての経験であった。
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by katoujun2549 | 2012-07-10 12:02 | 国際政治 | Comments(0)