二人の政治家 橋下、石原の危さ

 国家の危機はまさに今迫っている。東日本大震災とそれに続く直下型地震の危険性が忍び寄り、無能な政権のお陰で北はロシア、東は中国と北朝鮮が力づくで日本の領土を脅かそうとする。長いデフレから脱却出来ない経済。企業も新しい展望が見えず、防戦状態が続いている。こうした国家の危機は誰かが訴えなければならず、それが橋下であろうと、石原であろうと、我々は今の日本が置かれている状況を何とか変化させようとあがいている。このことは経済会のリーダーや国会議員も同じだろう。何とも閉塞感漂う時代だ。そこに登場した橋下は世間の注目を集める事に成功した。

 二人の言動で共通しているのは、必ず敵を作ることである。この手はヒトラーがユダヤ人を敵とした事にも似ている。彼等の敵は、意思決定の遅い民主主義、権限を越えて動きの取れない役人、さらにはアメリカに押し付けられたと決めつけた日本国憲法、特に憲法第九条だろう。しかし、今も、そして行政がこれまで果たして来た役割を無能無策と決めつける。それなら彼等は一体何をしたのだろうか。

 石原慎太郎は、元山下汽船の役員の家に生まれ、当時の家庭における戦争による犠牲から逃れていた。石原慎太郎の思想の古くささは当時の教育にあるようだが、我が国が何故戦争に負けたか、その責任は誰にあったか、勝算のない戦いを進めた帝国軍人の責任を忘れて、戦争を語ろうとする。
 彼は本来、国を動かすほどの人材でないことを自分では良くわかっている。かつて、作家としては三島由紀夫の文章能力の後塵を拝し、演劇では浅利慶太には敵わない。さらに俳優としては石原慎太郎の足下にも及ばない自分に見切りをつけ、これまでの名声を利用して参議院議員で登場した。その志はあっても、運輸大臣として、また、東京都知事として大した業績は無い。小心な心は、一時そのチック症状に現れていた。小心者の特徴だが、敵を作って民衆の気持を逸らすが、その目的は自分の優柔不断をな心を見破られないようにである。

 橋下氏は、もう少しましな感じがある。しかし、彼も、自分の力の無さを隠す為に、敵を作る事に余念がない。彼が狙うのは、石頭の小役人とか、日の丸や君が代に敬意を表さない変わり者の教師である。彼等は何も今日の日本の停滞を招く程の権力も、影響力も持ち合わせていない。生贄にして周囲を震え上がらせれば良いのだから。彼の歯に衣着せぬ言動は、これまでの行政に不満だった人々、というより、不景気に喘ぐ人々の共感を得ることに成功した。維新の会の政治塾300人定員に4000人も応募して来たのだから。彼はこれを民意だと思うかもしれない。実際は、いろいろな思惑をもって入って来た人々だろうと思うが、そんな事は気にもしないであろう。そうした楽天的なとことが彼の良さかもしれない。
 
 二人のそうした考えが実際は政治的には結構意味を持って来て、これを利用する人々が生まれる。民主主義の意思決定プロセスは実際面倒であり、決定に時間がかかる。これを補うような仕組みがなかなか生まれない。アメリカの大統領制度はその中で解決策ではある。橋下氏にしても石原氏にしても、組織を引っ張って行くにはもっと別の力が必要だ。第二次世界大戦の時にチャーチルが果したように結束を呼びかけ、皆の能力が発揮出来るよな取り組みがそれであり、これは協調、共同、絆、愛情といった概念である。彼等はこれが決定的にかけている。ビジネスでも、何も競争ばかりではない。橋下氏は司法試験に勝利し、選挙にも勝ち、競争の覇者だから、競争が大切dと思うかもしれないが、世の中を動かすきっかけはそればかりでは無い。外交政策にしても、経済でも競争ばかりでは無く、互恵的な関係こそが、社会を向上させるのではないだろうか。今日の平和は、そうした互恵的な関係に入れば、戦争など起きる余地が無くなる。中国でもそうではないか。北朝鮮やロシアと敵対するばかりでは衝突のリスクは増す一方ではないか。互いの面子などは小さな問題になるように経済関係を築いていくことこそ
安全保障の道である。しかし、敵対的な北朝鮮のような国には制裁が必要なことは論をまたない。彼等そうした中にある拉致被害者のことに対しては何故か無頓着に見える。多面的な視点の無い、橋下、石原両氏の強引な政策が、それに慣れない国民を再び破滅の道へと導家内とも限らないのです。


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by katoujun2549 | 2012-03-17 17:51 | 国際政治 | Comments(0)