イランとアメリカ:石油利権の攻防

 イランの不倶戴天の敵はアメリカである。イギリスも連座しているため、昨年イギリスも大使館を攻撃され、大使を引き上げた。これは戦争一歩手前ということである。アメリカはこの理由を自国民には頬被りしている。アメリカはホメイニ革命の時に大使館を占拠され、大使館員が拘束され、散々な目にあった。これ自体は国際的なルールを逸脱した行為で認められない。しかし。それまでに行なった米英のイランに対する干渉は、イランに同情すべきものである。

 イランのアフマディネジャッド大統領の特異な行動は国際世論の顰蹙を度々招いている。しかし、イランの近代以降の歴史を見ると、やむを得ない事情もある。イランは地主階級を中心に、一部の階層が国を支配して来た。例えば、宗教指導者などは地主階級で、大金持ちが多い。ラフサンジャニとか多くの宗教指導者は地主階級でホメイニ革命以降も国を支配している。そこで、一般国民の上昇意欲を満足させるのが革命防衛隊である。そのリーダーが今の大統領である。かつて、階級社会でユンカーや貴族が支配していたドイツでナチスが台頭したことと同じ歴史を辿っている。

 1950年代はじめ首相モサデグは国民の圧倒的支持を集めて、石油の国有化を断行する(石油国有化運動)が、モサデグは1953年米英の情報部による周到な計画(アイアス作戦)によって失脚させられ、国有化は失敗に終わった。この事件はCIAによって計画され、モサデクは拉致監禁された。一国の首相をそのような強盗のような行為で失脚させることは異常な行為である。

 これには当然ながら、米英の石油利権の問題がある。イランは世界で最初に油田が開発されたところで、米英の多額の資本が投下されていた。これを国有化することは当然反発を招くことだが、これを内政干渉によって確保しようと英米が国家的陰謀を仕掛けたのである。英米の資金でパフラヴィーは権力を集め、特に1970年代後期に、シャーの支配は独裁の色合いを強めた。シャーは米英の強い支持を受けてイラン産業の近代化を推し進める(白色革命)一方で、市民の自由を抑圧した。シャーの独裁的統治は1979年のイラン・イスラーム革命につながり、新たにアーヤトッラー・ホメイニーのもとイスラーム共和国が樹立された。その後、アメリカはイラクのフセインを使って、1980年イランイラク戦争を仕掛けて、8年間の戦争で100万人のイラン人が戦死した。米国は、反イランの論調を受けてイラクに対する武器の輸出や経済援助などを行ったが、裏では革命の際のテヘランのアメリカ大使館占拠事件において、人質の解放をめぐる取引の一環として、また、ニカラグア内戦を戦う傭兵軍コントラへの資金援助のために、ある時期にイランに対しても武器輸出を行った(イラン・コントラ事件)。こうしたアメリカの二枚舌的、ダブルスタンダードな外交行動に対するイランの反発は当然である。

 イランの20世紀後半から今日に至るまではイランの豊かな石油資源を巡っての米英と周辺国の抗争の歴史であった。米英はホメイニ革命以降失ったイラン国内の資産を取り戻したいだろうし、イランは自国の財産としての石油とエネルギーへの自由を確保したい。互いに譲り合えない線が交わることはない。結局のところ戦争は避けられない。強力な英米に対抗するには核兵器しか無い。この核兵器は何のためかというと、米英の黒幕イスラエルを攻撃することと、万一、米英が侵攻して来た場合の自爆用である。だから、イランは核開発をすることは国民にとっても、また、国家の体面を守る為には絶対に必要なのである。あの極貧の北朝鮮も、何の取り柄も無いパキスタンも核を持っているから英米が外交的な配慮を怠らない。その威力を目の当たりにすれば持ちたくもなるのである。その結果が自滅行為になるという読みは彼等にあるのだろうか。

 不思議なことは、アフマディネジャッドは国連に行ったときにCNNなどのインタビューに応じてPRに余念がないし、ラフサンジャニの子弟などはアメリカの名門校に留学していることである。イランもなかなかしたたかな外交上手なのである。イランも米英との戦争はこれまでの努力を無に帰すから絶対に避けたいのである。





田中宇 2008年 レポートより http://tanakanews.com/080731iran.htm
 英とイランの石油紛争は国連に持ち込まれ、モサデクはニューヨークの国連本部で演説したが、この際、米政府代表はモサデクを大歓迎した。国連参加の発展途上国の多くが、旧態依然の英の支配と果敢に戦うモサデクを賞賛した。日本も対米従属だったがゆえに、英の制止を無視し、出光興産がイランから石油を買い付けた(日章丸事件)。(関連記事)

▼共和党政権になって米の態度が一変

 米の親モサデクの態度は、1953年に米大統領が民主党のトルーマンから、共和党のアイゼンハワーに交代するとともに一転した。53年2月、就任2週間後のアイゼンハワーは、英側との会議を開き、秘密裏にモサデク政権の転覆作戦を決定した。米のCIAなどは冷戦開始後の1948年から、イランのマスコミが反共産主義のプロパガンダを報じるよう隠然と仕組むBEDAMNと呼ばれる秘密作戦を続けていたが、その標的は共産党からモサデクに替わった。(関連記事)

 モサデク政権転覆は、米ではなく英にとって非常に都合の良いことだったが、作戦は主にCIAによって展開された。イランは油田を国有化したものの、英による制裁によって産油量は激減し、石油輸出に頼っていたイラン経済は1952-53年、急速に悪化した。議会ではモサデクに経済悪化の責任を問う勢力が拡大した。米側は、議員の一人である元軍人のザヘディ(Fazlollah Zahedi)を、モサデク追放後の首相として据えることに決め、ザヘディを取り込んだ。

 そして1953年8月、モサデクとシャーの対立が決定的となって、シャーはモサデク解任を発表して亡命し、モサデク派とシャー派がイラン各地で激突する中で、CIA主導のクーデターが決行され、モサデクはイラン国軍によって逮捕され、シャーは亡命から帰還し、モサデクの代わりにザヘディを首相に任命した。

 ザヘディは英と石油の協約を再締結したが、契約相手は以前の英BP単独ではなく、米石油会社が石油利権の4割を取り、米英の合計8社が参画するコンソーシアム型の新契約となった。英は、米がモサデク転覆に協力した見返りとして、米にイランの石油利権の4割を、報酬として支払ったことになる。

 米はクーデターの最中、ザヘディが不利になるとテヘラン市内のCIAの隠れ家に匿ったり、騒乱をイラン共産党のせいにするため、共産党支持者のふりをしたニセのデモ隊を結成して行進させるなど、露骨な内政干渉を行い、民主的に選出されたモサデク政権を転覆した。この事件を機に、イランにおける米のイメージは、正義の味方から悪の化身に急落し、イラン人に反米感情を植え付けた。この反米感情は、1979年のイスラム革命につながった。

▼石油利権が目的ではなかった米

 米はなぜ、それまでのナショナリズム擁護の方針を一挙に捨て、人々に嫌われて当然の政権転覆作戦を露骨に展開したのだろうか。ここが、理解困難な点である。

 一つの考え方として、米がモサデク転覆の見返りに石油利権を得た点を重視し、アイゼンハワー政権は米の石油業界からの要求に応じて、それまでの米の親モサデクの態度を大転換して英の政権転覆作戦に協力したのだという見方がある。しかし当時の米石油産業は、イランの石油利権を特に必要としていなかった。米企業に石油利権が分配されたのは、米業界の要求の結果ではない。むしろ英から米に対する政治的配慮の結果である。(関連記事)

 モサデクはイラン共産党に接近していたので、転覆が必要だったという説明、もしくは英が米に対してイラン共産党の脅威を誇張して伝えて騙したという説明も存在するが、これらも事実と違う。当時の米CIAの主流は、モサデクは親共産党ではないし、イラン共産党には政権を狙うほどの力はないと分析していた。

 米は、1953年にモサデクを転覆したのを皮切りに、54年にはグアテマラの左翼政権を転覆し、73年にはチリの左翼政権を転覆した。米が、いわゆる「反共の汚い作戦」をやり出したのは、53年のイランが最初だった。米はこの手の作戦を、89年に冷戦が終わるまであちこちで展開し、冷戦後は911事件を機に、こんどは「テロ戦争」という名目で、似たような政権転覆戦略を再開している。

▼軍産英複合体に世界戦略を牛耳られた米

 当時の米は、世界に対する覇権(世界運営権)を、第二次大戦を機に英から引き継いだ後、間もなかった。米は第一次大戦時、英がドイツに負けそうになるまで参戦せず、英が独に負けるかもしれないとなった時点で、英がそれまで持っていた覇権を自由化する(事実上、英の覇権を米が引き継ぐ)ことを条件に、参戦を決めた。参戦前に米が発表した「ウィルソン大統領の14カ条」(植民地の独立、外交の公開化、国際連盟の設立など)が、覇権を引き継いだ後の米の方針を表していた。(関連記事)

(覇権とは、18世紀の産業革命後、交通の発達によって世界が一体的な政治システムになった後、最強だった英が、外交・諜報・軍事の技能を駆使して、他国を騙したりそそのかしたり共倒れさせたりしつつ、英にとって好都合な政治システムを維持した能力のこと。19世紀後半、工業化の進展によって、英は衰退し、米独が台頭したが、依然として世界の政治システムは英が動かし続け、世界経済の発展より英の国力維持が重視されて、英覇権のマイナス面が拡大していた。米は、国際連盟などの新組織を作り、英が隠然と独占していた覇権の自由化・機関化を実現しようとした)

 しかし、米の参戦で独は休戦に応じ、ベルサイユ講和会議が開かれて国際連盟の設立も決まったが、そこでのルール作りは、外交経験が長く狡猾な英に牛耳られ、米の思うようにならず、米は国際連盟に参加しなかった。英の裏切りに立腹した米側は第一次大戦後、欧州の政治に関与しない不干渉主義(孤立主義)をとった。1930年代からナチス政権になった独が再び領土拡張主義によって欧州大陸諸国を次々に占領していっても、米は超然と看過し続けた。

 そして、独が欧州大陸をすべて征服し、次は英に侵攻するという時になって、米は英からの参戦要請をようやく受けされた。その際の条件は、第一次大戦後に米を騙して英が保有し続けた世界覇権を、今度は間違いなく米に譲渡することだった。この合意の中の建前部分は、1941年の米参戦前に、米英首脳会談後の大西洋憲章として表明された。

 第二次大戦後、英の覇権は米に委譲され、イランなど、英に支配されていた地域には、米が入ってきた。米は1856年からイランと国交があったが、初めて大使級の代表をテヘランに常駐させたのは1944年で、その後1948年にかけてテヘランの米大使館の要員が急増した。英の支配は、イランで石油を掘って英に持ち帰ることが主眼だったが、米(ニューヨークの投資家)は、イランに国民経済を作り、そこに投資して儲けることを考えていた(投資の利回りが最も高いのは、国民経済ができて工業化が進み、国民消費が拡大し続ける高度成長期である)。そのため、米はイランの政治体制を民主的に強化し、モサデクを支援して、イランが国力をつける方向に誘導しようとした。
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by katoujun2549 | 2012-01-30 09:38 | 国際政治 | Comments(0)