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死後の世界

 スピリチュアリストという人がいる。江原裕之とか、癒しの世界、霊感があると称してデタラメを口にして立派な金儲けをしている。大したものだ。彼が見た事も無い死後の世界がどうして分る。お化けだとか、ポルターガイストといった霊魂、死者が、異世界から人間界から交信してくるとでっち上げして金儲けしているわけだ。死後の世界はそんなに偉いのか?全く笑わせる。
 
「全国霊感商法対策弁護士連絡会」は、日本放送協会と民放連に対し、番組内容の見直しを求める要望書を提出した。要望書には、「近年、霊能師が「オーラが見える」と語ったり、芸能人の未来を断定口調で予言したり、その言葉をそのまま出演者が信じたり、といった番組が増加しており、これらの番組が霊感商法による被害の危険性を高めている」美輪明宏も怪しげな格好を売りに、前世がどうのこうのと。もっともらしい語り口で人をケムリに巻く。テレビという虚構の世界が我々現実社会と交信しているだけである。テレビの世界は前世とか、霊的世界に通じるもがある。昔、ホラー映画、リングで山村貞子というお化けがテレビからご登場してお茶の間を恐怖の世界に変えた。来世と現世がそんなに頻繁に行ったり来たりするのははっきり言って迷惑である。
 
 かって、アウシュビッツとビルケナウでは600万人が殺されたという。それなら、その場所からは何かの霊の働きかけがあるのだろうか。とにかく600万の霊が、あの狭い場所に密集しているとすれば、未だに、そのようなところに漂っている霊は気の毒千万だ。死せる魂が我々に何かを働きかけるなんてあり得ない話である。そんな作り話は人の弱みにつけ込んでいるとしか思えない。ではキリスト教とか世界の宗教はどうなんだと言いたいだろう。そこで亡くなった人々に取って、神は何だったのか。東日本大震災の津波で多くの犠牲者が出た。4000人が行方不明である。そんなに霊と交信出来るなら、江原も美輪も彼等の居所を教えてくれ。それが社会的責任だろう。金にならないことはやらない連中だった。死せる魂は我々に何かを要求するんだろうか。そんな事はない。沈黙である。それこそ神の義なのだ。神は生けるもののために存在するというのが一つの答である。
 
 創世記には「世界の始めに、神は天と地を創造された。地は混沌としており、暗闇が深淵を覆い、神の霊が水の上を漂っていた」という。神はここからこの世を7日かけて作られ、人間も生まれた。人間が死ねば、その人はまた、元の世界に戻り、神と共に過ごすのだろうか。混沌の世界が待っているとすれば何ともつまらない。そんな世界に行きたい人がいるのか。イスラム教の天国は花が咲き乱れ、美女が踊り、美酒を飲める。だから、この世は堅苦しく、自爆テロをしたくなる訳だ。
 仏教は蓮の花が咲き乱れ、お釈迦様の周りで蓮の花の上に死者が瞑想しているというようなものだとすると、これも大して面白くない、地獄に行かなかっただけマシか。

イエスキリストは死後の世界と生きている世界を明解に語る。マルコ伝におけるサドカイ派との論争である。マルコ伝12章では復活を認めないサドカイ派がイエスに質問をする。
 
「先生、モーセは、わたしたちのためにこう書いています、『もし、ある人の兄が死んで、その残された妻に、子がない場合には、弟はこの女をめとって、兄のために子をもうけねばならない』。

 ここに、七人の兄弟がいました。長男は妻をめとりましたが、子がなくて死に、次男がその女をめとって、また子をもうけずに死に、三男も同様でした。こうして、七人ともみな子孫を残しませんでした。最後にその女も死にました。復活のとき、彼らが皆よみがえった場合、この女はだれの妻なのでしょうか。七人とも彼女を妻にしたのですが」。

 イエスは言われた、「あなたがたがそんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではないか。彼らが死人の中からよみがえるときには、めとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである。

 死から人がよみがえることについては、モーセの書の柴の篇で、神がモーセに仰せられた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。あなたがたは非常な思い違いをしている」。』


 イエスが言いたかったのは、死後の世界の事ではない。生けるものの神という明解な解釈である。何も無い死後の世界から我々は縛り付けられることの不合理を考えて頂きたい。キリストの蘇りの世界は死後の世界である。しかし、その形は漠然としている。それが当然である。分らないのである。
 何故、来世から、我々が影響されねばならないのか。素晴しい人間も、ろくでもない馬鹿野郎も一度は死ぬ。その何だか分らない死が我々をとらえ、拘束する。あの世から霊が出て来ては我々に預言したり、驚かせたりする。そんな事は変ではないか。生けるものの神こそ我々は支配されるべきもの。騙されてはならない。2000年前の人々も死の世界に怯えて来た。イエスはそれに対して勝利の宣言をする。我々は死にうち勝った。これこそ重要な事である。

 リーインカーネーション、輪廻転生、ギリシャ神話にもある黄泉の世界すべて人間の創作、空想である。誰もあの世に行って帰って来たものはいない。イエスにとって、死後の世界の空想には興味が無い。神は、今生きているものに時代を超えた力で働きかけ、死んだものは姿形はどうでも良いのだ。我々には分らない。実に現実的であり、正直な答である。天にいる「御使い」とは正しい表現である。象徴的、隠喩的な表現でしか語れないものである。このイエスの死に対するクールさこそキリスト教の本質である。我々は今を懸命に生きることが求められている。時間は限られている。死は永遠の安息と考えればいいのである。


 
by katoujun2549 | 2011-09-29 15:03 | キリスト教 | Comments(0)