「裁判官が日本を滅ぼす」 門田隆将著(新潮文庫)

「裁判官が日本を滅ぼす」(新潮文庫)を読んでいたら、第九章、法庭で不正を奨励するエリート裁判官という下り、彼が下した1999年の千代田生命の内部告発に対する東京地裁民事42部の高柳輝雄裁判長の非常識仰天判決について書かれていた。高柳という懐しい名前と、彼らしい思考経路が興味深い。彼とは大学時代同期で、剣道部で3年間一緒に過ごした。千代田生命の元常務が、不正融資を内部告発したことに、当時の会長が損害賠償の裁判を起こし、その時の裁判官、高柳輝雄裁判長があの高柳君だったとは。門田氏は、正義感の無い、機械的判決を行なう裁判官を糾弾している。判決は不正融資の主の原告勝訴。会社を守る為に退職後告発した役員に賠償責任を負わせたのだ。「不正は知っていても墓場まで持って行け、会社役員の守秘義務は永遠に続いている」という判決を出し、正義を実現するはずの法廷で、不正を堂々と奨励してのけた。一個人が会社という権力に、内部告発という手段を許さない。強者の立場しか目に入らず、社会的公正、企業の社会的責任を無視した判決であった。

確かに当時は内部告発には社会の理解が無かった。その後、千代田生命は乱脈融資が祟って潰れた。
 この本は門田隆将氏のデビュー作。お時間があったら読まれるようお勧めします。如何に日本の裁判官がエリート意識の固まりで非常識、かつ思考能力に欠けた単なる試験に通っただけの記憶装置人間かという告発書だ。日本の裁判官の異常な判決がこれでもかと書かれて面白い。裁判員裁判の必要性も分かる。とにかく、裁判官は忙しすぎる。年間140件もの判決を出さなければならない。裁判のマニュアルに従って、先に白黒つけた上で、後は判決の理論構成をしている。あの厚労省村木さんの検察データ捏造事件もあったが、裁判官も検察もこんな感じでは国民は救われない。税金でくだらないエリートを育てている日本が情けない。真実は何か、正義とはどうあるべきかといった観点は考慮されない。そんな裁判官が法律のプロだからといって、正しい判決が常に出される訳ではない。だから、裁判員裁判なのである。

 やっぱり、という感じ。彼は、自分と剣道部同期で、感心な事に3年生まで一生懸命稽古に参加していました。学園紛争時代、もう勉強の意味を失い、大学に愛想を尽かして剣道に打ち込んでいた。彼は、司法試験の勉強をやりながら、真面目に稽古に出ていた。剣道部仲間ではゲゲゲの鬼太郎に出てくる、子泣き爺とか、塗り壁とかからかわれていたが、勉強意欲を失った自分と比較して敬意を持って仲良くしていた。大学1年から初心者で、素振りから始め、先輩に我慢強くかかり、頑張っていました。彼は、何と、4年で司法試験に現役合格したのです。いつも、稽古ではボコボコにされていたから、悔し紛れに自分には「おい、加藤、お前は剣道ばかりだが、好きなことがあるのもいいよ」とからかうように言われた。一寸、小馬鹿にされたかなと傷ついたが、ある時、図書館で、卒業した先輩で髭だらけの司法試験浪人が勉強しているのを見て、あいつ等は要領が悪い。何年やったって無駄だよと耳打ちしたんで、こりゃ、剣道バカリの俺の事は相当に馬鹿にしているに違いないと思った。学校が無茶苦茶になっている時、猛勉強できる彼を敬意を持ってみていたが、自分を正当化するようだが、心がぐしゃぐしゃになるのが普通。勉強に身が入らず、自分の好きな本しか読まなくなった。剣道だけは続けたが、落ちこぼれたなと挫折感に落ち込むこともあった。それを平気で勉強できる彼の神経を疑いたくなった。確かに、彼は論客で、自分の考えを曲げない奴だった。あれが、きっと裁判官になって特殊環境の下、傲慢になり、もともと、唐変木の機械的思考のところがあったから、さらに酷くなったのだろう。

 この判決後、バブルが崩壊、千代田生命も倒産、各方面で内部告発は常識的にも認められ、市民社会の責任ある行動と見られるるようになった。高柳判決も、当時は保守的であるが、認められた。上告は無かったのだろうか。しかし、彼が、元常務を支持したら歴史に残る名判決になっていたろう。高柳君は残念ながらやはり、裁判史には残らない凡人であった。

 今、政府は人権保護法案の成立に向けて意欲を示している。これは一見人権保護に向けた民主的な体制づくりに見える。しかし、その狙いは、三条委員会という、全国的な組織的な仕組みで、原論弾圧にもつながる危険性をはらんでいる。政治家が狙っているのは言いたい放題の言論なのだろう。裁判においてマスコミはしばしば叩かれる。マスコミというある種の権力と、国家権力との戦いであろうか。この「裁判官が日本を滅ぼす」というのはマスコミ関係者のみた裁判像でもある。裁判にはそれなりの論理があって、証拠などの構成要件も法律的な積み重ねが必要だが、マスコミからの告発にはそうした要件が不足している場合もあるのではないか。また、判決はその当時の「常識」に従っているので、今の時代からは奇異なものもある。10年もすると社会的な意識は変化する。判例主義ではその判例が何年も前のモラル、社会観に縛られており、極めて保守的になり易い。また、死刑制度など、国際的常識には到底ついて行けない水準である。このあたりが、裁判制度を批判するうえで難しい事ではないだろうか。


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by katoujun2549 | 2011-07-30 11:57 | 書評 | Comments(0)