光市母子殺人事件、「なぜ君は絶望と闘えたのか」 本村洋の3300日 門田隆将著

 

書評「なぜ君は絶望と闘えたのかー本村洋の3300日」門田隆将著

 門田隆将氏の代表作といっていい。あの光市母子殺人事件の少年が、広島高裁で無期懲役から死刑判決を受けたことは記憶に新しい。被害者の家族、夫である本村洋さんが、無念の気持を抱えながら、命がけで司法と闘った記録である。被害者の家族が、何故司法と闘わざるをえないのか。被告ではない。被告は当初、二審までに無期懲役を言い渡されて被告は勝利したと思った。逆に被害者にとっては敗北なのだ。それは、被告は犯行時18歳の少年で、その場合、無期懲役は7年に短縮され、出所することが出来る。それに対して、犯行の残忍性などの真実と、被害者の人権が尊重されない裁判制度を被害者家族は訴え、ついに最高裁で差し戻し、被告の死刑を勝ち取った。

  今日、死刑制度に批判が多く、刑法学者でも死刑廃止論者は多い。日本は死刑の多い国でもある。アメリカでは半分くらいの州が廃止、ヨーロッパやイスラム圏でも廃止しつつある。死刑は犯罪の抑止にはならないという。しかし、こうした議論は本来、個別の事件から事例を得て、これを前提に成立するだろう。一般論というのは空論だ。成人の社会常識を持った人なら、殺人を犯す事はよほどの事だということが分っている。しかし、死刑にならないという前提で殺人を犯す、モラルハザードという課題もある。特に、少年犯罪においてはしばしばこれが見られ、死刑の存在は抑止効果がある筈で死刑は恐いのだ。死刑があるから反省し、殺人者は死刑を待つ間、拘置所で命の重みを考え、真人間になる。抑止効果よりも、加害者に反省を促す力がある。ところが、刑罰を厳しくすると犯罪がなくなるかというと必ずしもそうではない。死刑の犯罪抑止力には疑問をもたれている。死刑を効用として考えるとそうかもしれない。
 
 死刑、あるいは刑罰が、国とか、民族、文化的な背景によって社会での受け止められ方が違う。その社会が殺人や重大犯罪をどうとらえ、死刑を制度として容認するか、刑罰の目的が何かということである。その国において、死刑がどのような効果をもたらしているかだけではない。我が国では被害者の立場、家族や関係者にとってどうかということでもある。重大犯罪は、被害者のみならず、周囲に大きな精神的かつ、経済的損失をもたらす。日本人においては、西欧より個人と家族という関係を重視する。部族社会においてはその一員が生命財産に被害を受ければ部族全体で受け止めるだろう。相手の部族同士の抗争となり、凄惨な戦いが始まるかもしれない。マフィアの抗争も同様だ。

 要は、その社会が家とか部族、家族との絆を基盤にしているのか、あるいは個人を単位として考えるかえ大きく方向が違ってくる。今の日本は家族、いわゆる夫婦を基準とする標準家族である。犯罪の被害は家族全体に及ぶという考え方である。もちろん個人社会の欧米でも、家族の被害に対して残された遺族は決然とした態度を取る。先般の英会話教師、リンゼイアンホーカーさん殺害事件でもイギリスから家族は裁判で被害者家族として公判で発言できるようになり、厳しい態度で臨んだ。家族もかけがいのないものを失ったという意味では同じだ。彼は被告の市橋を最高刑に付してもらいたいと言ったが、死刑判決を望むとは言わなかった。そこが違う。日本人は殺人に対しては死という応報的な感覚が強いのではないか。この理由は宗教観から来ているのかもしれない。キリスト教では死は終わりではない。ところが最近の日本人で来世を信じ無い人が多い。このあたりに応報的になる原因がある。






 

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by katoujun2549 | 2011-07-12 23:33 | 書評 | Comments(0)