第2次大戦で中立を守ったトルコ:イノニュの貢献

 
 今トルコは1億バレルという石油、1兆5000億㎥という天然ガスの埋蔵量を誇り、40年分の石油を確保している。農業国である。この農業をベースに、世界にうって出れば21世紀の未来が待っている。なにも、工業にこだわる必要は無い。バイオ技術や農業を基盤に、ワイン、ビール、羊肉など安全な食を世界に売ることができる。トルコ料理の豊富なメニューは素晴しく、親日国。原発も今なお日本製を貫いてくれている。日本・トルコ交流協会の会長は皇室の最長老である三笠宮様である。いくら親切にしても平気で裏切る韓国、何をしても自己中心の中国。新幹線の技術を教えれば、勝手に自分達の功績のごとく特許申請して日本を競争相手にしようという国。そんな国に比べ台湾やトルコのような親日国を日本は大事にしなければならない。トルコリラ債は何と8.9%で回っている。これはトルコを自陣営に引きつける為に莫大な財政支援をしているアメリカの戦略のお陰だ。一方、アメリカは石油市場の混乱を招くトルコの油田開発を快く思わない。だから、クルドのテロリストKPPを陰で支援し、イラクのクルドとも連携を取ろうとする。クルドはイランにも多くアメリカの対イラン牽制にも利用できる。3,000万人のクルド人の自治を人参の餌にイラクを支配し、石油利権を手にしているのがアメリカである。このあたりが複雑なところ。
 広い国土、豊かな資源と人口、伝統文化に恵まれた国だから、ひとたび優秀な指導者が現れると花が開く。政教分離の国が発展するのを目の当たりにすれば、原理主義国家は考えを変える。宰相不幸社会の日本からみるとうらやましい限りだ。
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 トルコは第一次世界大戦で300万人の戦死者を出し、瀕死の状態であった。北アフリカから、ギリシャ、ユーゴスラビア、黒海から中東まで広大な領土は失われ、オスマントルコ帝国は瓦解した。そのときの英仏のいい加減な中東処理が今日の混乱のもとである。
 ガリポリ戦の英雄ケマル・アタチュルクが登場し、トルコの近代化に務め、今日の穏健なイスラム国家として、貴重な立場の国が生まれた。イラン、シリア、エジプトはかつてオスマントルコ帝国が支配した。今も、リビアのカダフィと欧米を仲介する大事な役割を持っている。イラン、レバノンなどの問題解決にトルコを仲介者に引き出すことが平和の鍵だ。かつての宗主国に対する警戒感が強いが、控えめに、領土野心を出さなければ、良い結果が期待される。トルコの民族主義とイスラム化勢力と軍を中心とした非宗教化路線は常に微妙なバランスをもって維持され、これがまた、ヨーロッパに優位な立場をもたらすようエルドアンは画策する。女子大学生のスカーフ問題がその動向を象徴的に表し、国を揺るがすのである。トルコの人々はそうした国際情勢の中で、不安を抱き、アメリカにコントロールされていると思い込んでいるが、これはそんな単純な情ではない。

 建国の父として、今もトルコ国民が尊敬している珍しい指導者である。ケマル・アタテュルクは、世俗主義、民族主義、共和主義などを柱とするトルコ共和国の基本路線を敷いた。一党独裁を築き上げ、反対派を徹底的に排除して強硬に改革を推進したアタテュルクと、その後継大統領となったイスメト・イノニュも他国の独裁政権と比較すれば、政権を守り通すことに成功した。結果として、トルコは独裁政権下にありながら全体として国家の安定に成功した例となり、「成功した(正しい)独裁者」ケマルはその死後も現在に至るまで国父としてトルコ国民の深い敬愛を受けつづけている。当時独裁国家の悪ばかりが歴史やマスコミは訴えるが、スペインのフランコ、インドネシアのスカルノなど、巧みに国づくりをした独裁者もいたのである。日本の軍部よりはるかに良い結果を出している。ケマルの死後、世界はナチスの台頭と第二次世界大戦という大惨禍を迎える。これを乗り切ったのがイノニュである。ケマルの後塵を拝した彼は崇拝の対象ではないが、後継者として立派な仕事をした。もし、再度トルコがドイツと同盟していたら、国家は消滅していただろう。
 
 興味深いのが、大戦中ドイツの駐トルコ大使が、かつて、ヒンデンブルグ大統領の元で首相を務めていたフランツ・フォン・パーペンだったことである。彼は、ナチの台頭、さらにはドイツ・オーストリア併合に重要な役割を果たしたが、その後、ヒトラーとは一線を画するようになった。彼はドイツでもヒトラーの専横を導いた張本人として、また、上手く立ち回る軽薄な首相として、評判が悪い。ヒトラーを大魔神とすると、魔界と娑婆を行ったり来たりする、ネズミ男的な立ち回りをした。ニュールンベルグ戦争裁判でも無罪となったが、再度国内で裁かれた。
 
 どうも、トルコ大使として、ナチスに対し、二枚舌を使い、トルコの中立を守る事に貢献したのではないか。日和見、自己保身といった批判が彼にはついて回るが、ナチスが台頭するドイツの将来を小心者らしく見通し、生きる為にふるまったパーペンはある意味では見事だ。一国の首相という責任ある立場をそもそも背負う人物ではなかったが、ナチスの中枢にいて荒波を泳ぎ切った。血筋の良さ、貴族的といった体面を守り、国民の為には働かなかった、我国で言えば、細川元首相のような人物だろうか。イノニュはパーペンのそうした弱点を見抜き、ドイツの圧力に屈しなかった。結果的に彼の日和見主義に救われた。

 パーペンはヒトラーを批判した演説を行い、ナイフの夜の後、部下を暗殺されている。ヒンデンブルグのお陰で生き延びた。1936年からは駐オーストリア大使に任じられ、オーストリア併合に暗躍した。後にパーペンは、回想録で全ヨーロッパ紛争の回避のためと弁明している。1939年からはトルコ駐在大使を務め、第二次世界大戦で中立を保つトルコを同盟時代のようにドイツ側にする工作に従事し、1941年にはドイツ・トルコ相互不可侵条約が締結された。しかしトルコは中立を維持し続けたのである。 トルコが第二次世界大戦では中立を保ち続けたことは、イノニュの功績である。57歳で早世したケマルの改革は途上であり、国力が疲弊していたトルコが大戦に参加する余裕は無かった。しかし、ヒトラーは何とか第一次大戦のときのようにトルコを枢軸国側に引きずり込みたかったに違いない。

 

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by katoujun2549 | 2011-06-30 01:40 | 国際政治 | Comments(0)