一刀斎夢録 浅田次郎著

一刀斎夢録 (上) 浅田次郎著

 浅田次郎の一刀斎夢録上を読み終わった。新撰組の齋藤一が陸軍中尉梶山に剣とは何か、人を切るとは何かを語る。時は大正元年、明治天皇崩御直後の東京。新撰組の斎藤一は藤田五郎と名を換え、明治を生き抜いた。新撰組の近藤や土方、沖田などの隊士についての独特な人物像と批評が面白い。人間所詮は糞袋という見方が奇異である。人を刀で切り殺すという異常な作業を平然と行った人物像という事を語りたいのだろうか。浅田次郎は齋藤一を通して何を言いたかったのか。

 斎藤一は近藤勇の天然理心流の牛込、試衛館に入門、土方や沖田等とは共に江戸から京に上った新撰組の同志である。京都での様々な新撰組の事件は司馬遼太郎の「燃えよ剣(昭和39年)」や、下母澤 寛の「新撰組始末記(昭和3年)」など、既に多くの小説などで知られている。近藤勇、土方利蔵、沖田総司など、多彩なキャラクターが様々な作家によって書かれてきた。他の隊士も永倉新八も津本陽が「北の狼」と書き尽くされてきたといってよい。浅田次郎の小説、壬生義士伝では新選組で守銭奴や出稼ぎ浪人などと呼ばれた吉村貫一郎の義理と愛を貫く姿を描いた。この小説でも斎藤一に吉村のことを語らせている。新撰組の鳥羽伏見の戦い以降の品川宿から江戸、さらに甲陽鎮武隊の勝沼防衛に向かうところで上巻は終っている。斎藤一は高台寺党の伊東甲子太郎派に入り込んだ間諜としても有名で、実態の分らない人物として知られていた。矛盾した行動を感じる彼の人物像に浅田次郎は切り込んだ。

 剣の奥義を求める梶山に対して、人を切る剣との違いを語る斎藤。斎藤は左利きの居合いの達人であり、彼の剣が不意討ちや、長州の間諜を切る模様が描かれる。坂本龍馬は彼が切った事になっており、この暗殺シーンが全般のハイライトである。史実の裏付けは無いが,暗殺から戦闘に至る戦いを経験し尽くした斎藤一の姿を描きたかったのである。新撰組の戦いは伊東甲子太郎暗殺の油小路の変に行なわれたような騙し討ちであった。というより、戦争というのは汚いし、失敗は許されない。その中で勝ち抜かねばならない。それが戦いの論理である。

 アメリカ軍が調査したところ、戦争において、ベトナム戦争でも、面と対峙した敵を狙って銃で撃つ事自体大変な自責の念を伴い、多くの兵士がPTSDに悩まされたと言う。第二次大戦中、人を切った日本軍兵士の体験では、刀で人を切った時、異様な興奮状態になるらしい。かあっと血が体を駆け巡り、体が熱くなる。これは外科医が手術で人の体にメスを入れ、血が噴き出す時も同様で、一種の恍惚感が襲うのだそうだ。刀で人を切ると興奮状態になる。アメリカ軍の調査では命令とはいえ、戦時でも平然と人を撃てる兵士は5%くらいだそうだ。これはかなり精神の異常な人という結果がある。斎藤もその部類かもしれない。

 人を単なる糞袋と表現したのは浅田次郎であろうか、それとも斎藤一なのだろうか。要するに、切られてしまえば糞袋だから、絶対に負けてはならない。この小説の時代背景は、明治が終わり、大正に入ったときである。乃木将軍が殉死した。これを斎藤は痛烈に批判する。戦に美など無い。殺されれば糞袋である。だから、彼は、若い新撰組員には幕府の時代が終わりつつある中、脱退を薦める。

 浅田次郎は斎藤一に近藤勇や土方を語らせ、さらに明治維新の真実を明らかにしたい。これを政治的リーダーの立場ではなく、目線を多くの国民の立場から描こうと試みた。無名の剣士の目は庶民の目でもある。底辺の群像から見た維新を描き出そうとしている。  
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by katoujun2549 | 2011-05-22 23:06 | 書評 | Comments(0)