特攻と日本人 保坂正康著 講談社新書

 百田直樹の「永遠の零」で、特攻をイスラムのテロと比較するくだりがあった。これまでに無かった視点に感心したが、これは小説において、今の若い人から見れば、区別する方が難しいのかもしれない。こうした見方は外国人ならばあり得ても、日本人としては情けないことである。日本の特攻は市民テロとは違う。軍事作戦の一つとして選択され、大規模に国家が実行した点、また、特攻隊員もその約70%が学徒兵であり、予科練や少年飛行兵出身の若い人材が特攻要員として育成された。ナチスドイツでも行なわなかった、世界でも特異な軍事行動であった。

 戦後の歴史教育において、また、映画やテレビのマスメディアなどでも、特攻に殉じた若者達の実像が、必ずしも正確に伝えられてこなかった。その戦果や軍部と隊員の関係や隊員の選定方法などの歴史的記録においても、偏らざるを得ない事情と、政治的な理由を抱えたまま、伝えられないことも多かった。「きけわだつみの声」「ああ、同期の桜」「はるかなる山河に」といった特攻隊員の手記や映画はあるが、それぞれ時代の背景によって、今日の日本社会での認識に耐える内容ではなくなった。彼等がどのように生き、家族と結ばれ、学問に励み、明日を夢見て来たかを語らなければならない。こうした問題は特攻に関して、日本の戦争認識と同様、常にあり、歴史認識の差が、靖国問題や、特攻を軍国主義と常に重ねて考えるあまり、これら殉じた方々の顕彰や慰霊とはかけ離れた結果をもたらす。誠に残念至極である。 彼等は歴史に名を残す「英霊」であり、その勇気と国への貢献という意味で太平洋戦争中の国民の代表として末永く顕彰すべき人々である事は確かだ。

 今日、当時の特攻隊の生き残りや戦争指導者の世代が老齢化し、戦中派の証言者が急激に減少している。そうした中で、人生の最後に、語り部として真実を伝えようとされる方々の貴重な証言がこの10年間に集められている。保坂正康氏の「特攻と日本人」では2005年の出版であり、この取材など多くの特攻隊員の生き残り、また、作戦責任者が生存していた筈である。しかし、著者はこれを行なっていない。もっぱら、隊員や司令官の遺書などが中心であり、その後の歴史的文書などに頼っている。氏の戦争観などは昭和史を語り継ぐ会を主宰し、昭和史講座などで研究を続けてきたから、そうした取材を改めて行なう事も無かったのだろうか。この本は特攻隊員の遺稿によって構成され、保坂氏の戦争観によって味付けがなされている。何故特攻が行なわれたかについては、その作戦立案の筋道が欺瞞に満ちていた。太平洋戦争の目的や、戦略的には破綻したにも拘らず遂行された作戦の一つである。この決定には最終的には天皇の責任が関わる。しかし、その作戦につながる首脳は、天皇を守るという名目のもとに自らの責任を回避し、さらには噓で塗り固められた歴史を後世に残した。その結果、英霊に対する国民の感謝の気持もちぐはぐになった。

 特攻には陸軍と海軍が競い合って行なった。それぞれその内容も違う部分がある。陸軍は肉弾戦を戦術の基本としていたから、このような作戦への移行は容易だったかもしれない。海軍はその近代技術を駆使して、最後は戦艦大和も沖縄に突入させた。しかし、前途有為の若い命を爆弾として使ったと言う点では共通である。そして、これに従った隊員達は、強制されたというより、高度な訓練を経て知的な確信のもとに実行して行った。特攻が志願であったとか、誰の発案であったとかいう議論は当事者の責任回避の議論に過ぎない。

 しかし、何故このような悲惨な作戦が実行され、1944年10月のレイテ戦敷島隊から沖縄での七生隊特攻までは戦果もあり、米軍に脅威を与えた。米軍もその被害に対策を考え、末期には殆どが迎撃され、行き着く事も出来なかった。神風特攻は1945年末期まで、290回も、沖縄が占領された後も効果を無視して続けられた。戦闘機だけではなく、回天、桜花、震洋といった特攻兵器が使用され、多くが失敗したが、軍部はこれを中止する勇気を持たなかった。結果、4千人以上の若き命が失われた。今日、大震災後の原発問題を見るにつけ、何故、この狭い国土に55基もの原発が建設され続けてきたか。その安全性や将来的コストを計算されることもなく延々と続けられ、その後始末を国民似残されるという理不尽が重なって見えるのは自分だけだろうか。今、福島で事故の処理に命がけで奔走している人々と電力会社の首脳が、あの特攻隊員と軍部の関係に重なって見えてしまうのである。
 

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by katoujun2549 | 2011-05-02 14:21 | 国際政治 | Comments(0)