日本軍の恥部;崩壊の原因ー苛め、制裁

  仙谷由人氏が国会で自衛隊を暴力装置とマックスウェーバーの言葉を使って物議をかもしたが、まさに、軍隊は人間性を削ぎ落し、若者を組織の機械として動くように作り替える機関である。他人に銃を向ければ普通の神経では引き金を引けない。第二次世界大戦のとき、アメリカ軍のシャーマン機関が調査し、ヨーロッパ戦線で、ドイツ兵に銃を向けても撃たなかった米兵の比率が高かったことが分かった。何と、30%の兵が敵を見て撃っていなかった。それが朝鮮戦争、ベトナム戦争を経て90%に上昇したのは訓練方法を研究した結果である。戦時でも、人間を平気で撃てる人は5%くらいで、かなり精神病に近いか異常な人だそうだ。だからこそ、軍隊では標的を人間と見ないような工夫が凝らされ、反射的に引き金を引くように訓練される。その為には、理不尽な要求に意志を合わせる習慣、肉体的な苦痛が恐怖を上回る訓練が不可欠なのである。今も、ロシア軍や海兵隊では様々な暴力行為が初年兵に加えられている。海兵隊の初年兵訓練も有名で、大声で指導教官が耳元でがなり立て、集団行動を乱すと腕立て伏せなど、殴ること以外のあらゆる苦痛を与えるように仕組まれている。スタンリーキュブリック監督の映画フルメタルジャケットでは苛めのシーンもある。これは社会から入って来た若者が戦闘マシーンとして、これまでの常識が通用しないことを思い知らされるように計画されているのである。だから、沖縄で海兵隊員が街に出ると異常な暴力行為といったトラブルを引き起す。

三重県資料より(http://www.pref.mie.lg.jp/FUKUSHI/heiwa/shiryou/01-14.htm)

 e0195345_1211265.jpg日本軍の初年兵に対する暴力は、殴る、蹴るである。海軍では精神注入棒で腰を立ち上がれない程強く殴るのである。靴やベルトも使われた。特に、大学学歴を持った兵隊は過酷な仕打ちを受けた。学徒兵や幹部候補生に対する制裁は特に厳しかった。丸山真男などは兵卒として召集され、一高出身であることが、反戦思想の持ち主とみなされ、毎日のように制裁を受けた。これが、彼の反軍思想の原点にもなった。日本の場合、教育というより、階層社会のフラストレーションを解消する手段にもなっていた。ところが、陸軍では、前線では殆ど行なわれなかったと言う。これは弾丸の飛び交う戦地では、皆が仲間であり、多少の制裁は合理的な理由があればあったが、ここで、人間関係を悪化させることは危険なことであった。部下から憎まれ、後から弾丸が飛んでくることが怖かったのである。ところが、海軍では艦船に乗り組み、そうした危険は無いことから、下級の水兵は常に暴力の対象であった。だから、戦艦陸奥の爆沈とか、反感を持った水兵が無理心中的に艦の弾薬庫に放火することで仕返しをすることがあったという。その当時、士官達は下士官以下のリンチに近い制裁を見て見ぬ振りをしていた。そもそも、自分達が引き起こした悪習を見てみぬ振りをしたのだ。卑怯なことではないか。こうした無責任が軍に蔓延し、一見整然とした海軍の組織は腐り、末期症状を呈していたということである。この無責任と日和見感覚はこうした組織の悪習から生まれた。新発田第16連隊は勇猛果敢と言われた。インドネシア攻略で名をはせた今村大将は新発田中学出身で16連隊を率いたが、日清戦争からインパールまで戦い抜いた勇猛果敢な連隊であった、そこでは郷土愛が強く、しかも仲間意識が高いことで有名だった。そして、内部での暴力的制裁はほとんど無いことで有名であった。

 日本の軍隊は、陸軍はドイツ、海軍はイギリスを模範とした。その本家本元もこうした殴ると言う暴力行為は少なかったという。というより、英国海軍の軍律違反には鞭打ちがあり、これが日本では棒に変わったのだ。帆船時代のイギリス海軍ではハンドスパイキ(木製の円錐形の棒)や短いロープの切れ端で、ぼやぼやしている水兵の尻を叩き、水兵が上官に反抗したときは、被告の両手両足を縛り付けて、九尾の猫鞭と言うムチで背中を5~20回位叩き、背中に一生消えない傷を残して他の水兵たちへの見せしめとした。軍艦というのは危険なところで気合が抜けると死亡事故につながる環境であったこともある。勿論、戦場で命令違反は、将校が即時銃殺する権限があり、前線ではしばしばこれが行使されているから、殴るどころではなかった。山本七平もこの日本軍での殴るという慣習が何故頻繁になったか分からないと言っている。
 この旧帝国軍隊の暴力的風習は実は大正時代からであって、日露戦争前はあまりなかったという。日本の軍隊では下士官以下の規律や能力は他の国よりはるかに優れていた。識字率が高く、かつ最前戦で有能であった。ところが、将校の育成システムはかなり観念的で、ベテランの兵士から見て合理性に欠けた傾向があった。ノモンハン事件でもソ連軍のジューコフ将軍が嘲笑している。どうも、このことが、将校にとってはやりにくいことだった。
 日露戦争までは将校も実戦体験に裏打ちされた専門的指導能力もあった。ところが、大正に入り、日本は暫く戦争をしていない、平和な時代であった。そこで、陸軍士官学校や海軍兵学校出の将校より、長く軍隊に残っていた下士官の方が陸海軍とも実戦知識も豊富で、将校は指導力を発揮しにくかった。実際に戦った人間を未体験の上官が命令したり、説明しても反論されてしまう。そこで、彼らの地位を利用した暴力行為が頻繁に行なわれ、命令に服す習慣をつけさせようとしたのだという。組織マネージメントが誤ったまま修正不能というのは破滅の道である。この組織的な機能不全がトップにまで及び、天皇の軍隊という神格化によってさらに拍車がかかった。
 
 将校というのは上からの命令を噛み砕いて、部下に伝え、大組織を動かすように訓練を積んでいるはずであった。ところが、第二次大戦では精神性とか、天皇への忠誠モラルを指導者が利用することになってリーダーシップや訓練の合理性が失われた。実戦では多くの兵が動かなければ戦争には勝てないし、集団行動を統率する技術も必須である。彼らからの情報や要望を将校が吸収して、戦略に反映させる必要性もある。これは一種の専門的技術である。ところが大戦末期は全員が精神論者では技術的な主張が通らなくなってくる。最後には食料は敵から奪えばいいという極論になった。兵を動かすには食料や水が無ければ動けないし、敵に対して優位の火力と安全に移動したり、有利な条件から攻撃することで戦闘には勝利できる。このことが何故か忘れ去られた。兵は一銭五厘で召集され、使い捨てにするという悪習が軍にはびこった理由が分からない。この結果が組織暴力と作戦の過ちを連鎖的に生んでいる。兵士を大事に扱い、戦闘に有利に働かせ、勝利に導くという戦略が忘れられた。第二次大戦中の特攻、玉砕、食料の無いままインパール作戦を実施して悲惨な退却を招いた牟田口連也、辻正信などのミスはこの辺りに原因があるのではないだろうか。要するに日和見的な無責任を作戦の必然と混同している。阿川弘之などは海軍を美化し、そうしたトラブルとは無縁の山本五十六とか、米内光政、井上成美といった将軍の話がお得意だが、名も無く、海の藻くずと消えた兵士、アメリカの潜水艦の餌食になった人々の話を描くことこそ戦争体験者の責任ではないか。

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by katoujun2549 | 2011-02-18 13:34 | 国際政治 | Comments(0)