センター試験国語問題に思う。鷲田清一の身体論

センター試験国語問題 鷲田清一の身体論 

 2011年のセンター試験の国語第1問は鷲田清一氏の「身ぶりの消失」からの出題であった。評論はおそらく「昭和住宅メモリー そして家は生きつづける。」に収められている。住宅雑誌に載った随筆で、彼の出版した本にはない。図書館で探してみよう。
 掲載された新聞の活字があまりにも小さくて読むのに一苦労した。高校生なら問題ないのか、遠視が進んだ自分の高齢化を思い知らされながら読んだが、第1問に取り組んでみた。彼の文章は受験問題に頻出するらしい。ということは難解であまり良い文章ではないのかもしれない。鷲田氏は大阪大学の総長で哲学者。敬意をもって好意的に読むと、流石に緻密な文章展開に啓発される。氏はファッションなどにも一家言あるらしい。この短い文が身体論の面白さを伝えてくれたことは流石である。 優れた評論は、読んだ人に様々な思考を啓発させてくれるところに妙味がある。ところが、センター試験ということになると、限られた時間と「正解」探しという何とも厳しい現実が、読んだことによる思考の発展を妨げてしまう。高校生が優れた文章を読まされながら、それを正解の為に苦闘しなければならず、自由に思考することを妨げられるのは気の毒だ。受験が終われば、こうした文章を読むのはこりごりということになる。美味しいケーキを3秒で食えとか、その成分を当てろとか言われてこれを何十回も繰り返したら、ケーキなんぞ食べたくなるのと同じだ。
 
 作者は哲学者であり、このような目的に自分の文章が使われるのは本意ではないだろう。芥川賞選考委員の黒井千次が、昔、自分の書いた文章「春の道標」がセンター試験(共通一次)に出たので挑戦したら、自分の文章なのに正解が10問中3つしかなかったので、キレたという話がある。それ以後、生きている人の作品を出題することに慎重になった。鷲田氏は国立大学総長だからこんな発言はしないから安全なのだ。

 選択問題には大体類似の正解に近い選択肢が必ずあり、不正解だった選択肢もあながち間違いとも言えない場合がある。悔しいながら、11問題中2題不正解。問い4を間違ったのだが、「木造家屋を再利用したグループホームという空間では、ひとのふるまいが制約されているということとひきかえに、伝統的な暮らしを取り戻す可能性がある」と正解の「木造家屋を再利用したグループホームという空間では、そこで暮らす者にとって、身に付いたふるまいを残しつつ、他者との出会いに触発されて新たな暮らしを築くことができるということ」との差が何だか分らない。木造家屋に残された過去の暮らしに失われた記憶を蘇らせ、痴呆の改善効果を狙っている、建物との関わりによる治療効果、あるいは進行抑制効果があることは、介護、精神医療の世界では認められつつある。このことを知っている読者は前者(回答選択肢①)を選ぶ可能施が高いだろう。冒頭の漢字問題、キョソという言葉の漢字を選択させる問題もあったが、この「挙措」—立ち振るまいという意味を知っている学生が一体どれだけいたのだろうか。やま勘で、挙動とか、暴挙とか挙という漢字がふるまいという意味を持っていることに気づけば問題は解ける。漢字問題のため、この語句を文章中で漢字を書かずにキョソと仮名になっているから、何が何だか不安定な文章になる。しかし、この語句は全く筆者の語彙選択の好みであって、この語句は「立ち振る舞い」という表現で足りるし、分らなくても、文章の意図や狙いを理解することが可能である。文章中。挙措とかいてあれば、大体、挙という字から「ふるまい」のことだな、と想像して読解には支障がない。漢字とはそこが面白いところだ。そもそも、この語句は口語では使わないからカタカナにされると何だか分らなくなる。まさに、受験生を苦しませる為の設問である。この文章問題には、グループホームをはじめ、使われている語句に10箇所も注釈を添えているが、これらの言葉こそ、この文章を読む人は知っていなければならない語句なのである。
 
 とはいえ、この鷲田先生の「身体論」というのを読んでみたくなった。自分は、住宅の仕事を以前やっていたこともあり、住宅の持つ可能性には関心がある。東京医科歯科大学での修士論文にも書いたのだが、慶応大学の渡辺朗子先生の研究(頭の良い子が育つ家)では、有名お受験校、慶応、開成、麻布、櫻蔭、女子学院などの合格者では、個室で勉強していた子供が極めて少ない。むしろ、自分なりの勉強場所を見つけており、それもかなり多様である。学習空間を自分の方法に合うように選択している。社会は家族のいる場所、算数は自室とか、学習の内容によって変化している。しかも、結構「ながら族」も多い。むしろ、家族のいる空間が多い。それは、最難関校受験は、子供だけの思考ではとうてい解けないレベルの問題もあり、時事や、思考レベルを大人と「同期」し、小学校での受け身の学習やただの暗記から脱していなければ、他の強豪受験者から1歩ぬけだすことは出来ないということなのである。これは介護空間でも同じことである。

 要介護者を個室の限られた空間、たとえば病院の個室などに長期間寝かせておくことは、介護する側は楽だが、患者に取っては生きるための多様な刺激を遮断してしまう。だから、むしろリビングのような開放空間で、周囲の目が注がれるところが、精神的にも、病気への抵抗力、免疫力の増進にも効果がある。これは重介護の典型であるALSの患者を介護するには、そうした、家族に囲まれ、また、外部の訪問看護が容易にアクセスできる環境が患者にはむしろ必須であることからも分る。患者もテレビを見たり、食事をしたり、本を読んだり、また、家族との語らいなど、行為は連続しているのであって、それを遮断する空間は、重篤な要介護者には好ましくないと思う。鷲田氏の身体論にはどのようなことがかかれているのか興味を持った次第である。

 鷲田氏はメルロポンティ、パスカルなどにも詳しいらしい。介護の問題にもふれ、彼のサイトにこう書かれている。

「ケアの現場って自由じゃないものばっかりでしょ、死とか、病とか。しかもケアする方は、特に家族の介護とかいったら、もう奴隷みたいにかんじることもある。なんで私がここまでしなければと、ケンカになったりもする。息子夫婦がケアを通じて危機に陥ったり、別れることになったり、そんなのいくらでもあって。ある意味では、他にしたいことがあってもケアだけは、職業であれ家族であれ、どうしても、仕方なく、と、必然の世界と思われていたけれども、「弱いものに従うことこそ自由である」と。だから「めいわくかけてありがとう」、そういえるような関係に、自分が入れた、すると本当の意味での自由に自分は触れた、というふうにつなげていきたい。こっちにたこ八郎がいて、こっちにパスカルがいて(笑)。そういうモチーフが、いま、僕にはあるんです。」


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by katoujun2549 | 2011-01-17 22:56 | 医療介護福祉 | Comments(0)