北方領土交渉の真実2

 
 浅田次郎の新刊『終わらざる夏』(集英社)は、千島列島の先端の島で実際に起きた日ソ両軍の戦闘に材をとりながら、戦争に巻き込まれ、翻弄(ほんろう)された人々の姿を描く大作である。終戦から65年、北方領土問題はその時点から歴史を見直さなければ理解できない。1945年8月18日、対アメリカ戦を想定して日本軍が駐留していた占守(しゅむしゅ)島に突如、ソ連軍が上陸、激しい戦闘が始まった。ソ連はそこで日本軍の激しい抵抗を受け、3,000人を超す犠牲を出した。そこで、スターリンは北海道侵攻を諦めた。彼は、北海道を軍事侵攻によって留萌から根室までの線を手に入れようとしていた。ヤルタ会談も、ポツダム宣言も無視の蛮行である。ロシアは、千島を実行支配したら返したくない。そもそもが、国際交渉無視の、領土拡張主義的な力の政策なのである。

 昨年の11月1日、ロシアのメドベージェフ大統領が国後島を訪問し、日本の政府に衝撃を与えた。ロシアの歴代国家代表としてはじめてであり、その後副大統領も訪問している。国後島では政府の経済計画による学校、港湾施設、地熱発電所などを訪問した。これが一体何を意味するのかについて我が国の報道はあまり意味のある解説をしていない。菅首相が遺憾だと言ってもロシアには何の影響も無い。自分の国のどこに行こうと勝手でしょうということだろう。ロシアは今、ナショナリズムを高めて経済の行き詰まりをはぐらかしたい。強いロシアを演出するには弱い者苛めに限るのである。
 
 これはロシアの大きな方向転換を意味している。北方領土交渉が最も進んだのは、エリツインの訪日で橋本龍太郎、さらに、プーチンに変わった後の小渕、森と続いた自民党政権時代の交渉成果が大きかった。森・プーチンのイルクーツク声明以後、これは2島返還論とみなされ、野党の批判を浴びた。ひkし、現実はもっと厳しい。この声明では
(イ)56年の日ソ共同宣言が平和条約交渉の出発点を設定した基本的な法的文書であることを確認し(ロ)その上で、93年の東京宣言に基づき四島の帰属の問題を解決することにより平和条約を締結すべきことを再確認し、
(ハ)あり得べき最も早い時点で平和条約締結へ向けた前進の具体的方向性を決定することで一致したこと、である。その他様々な経済文化交流のチャンネルが作られた。しかし、これを全て敗北と批判する勢力も多い。東郷氏や佐藤優い最大のと現実的成果としている。ところが、今や、ロシアの国内事情はそれどころではなくなり、また、メドベージェフは当時の弱腰だった時代の修正に入っているのだ。昨年の事態は、実は小泉政権時代、田中眞紀子が外相だった時の、ロシアスクールの東郷欧亜局長更迭、佐藤優氏の逮捕という事件に遡らなければ見えてこない。

 メドベージェフの尖閣列島の中国漁船船長釈放事件以来、中国訪問や、終戦を9月2日と言ったり、北方領土交渉は2001年のイルクーツク宣言から大きく後退したのではないかという懸念を与えている。しかし、そもそも、この後、交渉は、1956年の日ソ国交回復以来、当時の合意の解釈や確認に終始し、とにかく、先方を交渉のテーブルに就かせるところで息切れしてしまい、当時の合意事項の復習で終わっている。当時のロシアは冷戦の敗北とソビエト連邦の解体というピンチに暗中模索、それに対して日本の経済が頂点にあり、何とか,日本を利用しようと躍起になっていた時代である。日本は30年以上にわたる日本とソ連の経済協力、交流等、冷戦当時とは違う、交流の積み重ねを基礎に何とか相手を引き出し、先に進む為の努力を行なって来た。

 しかし、今日、情勢は変わった。日本の政治力は弱体で、首相も毎年交代し交渉力は無い。しかも、中国の興隆により、日本だけに頼らなくても済むという計算がある。相手の動きはシンプルなのだ。メドベージェフは中国を訪問し、対日本の領土問題に両国で一歩も引かない事を確認し、その後国後に行っている。プーチンはメドベージェフを使って当時の弱腰を何とか取り戻す機会を狙っていた。これを見抜けず、国後にロシア大統領が訪問し、実行支配に布石を投じようとした情報を掴めなかった外務省ロシア大使の責任は大きい。これまでの、対ロシア外交の弱体化を見せつける事件であった。何も尖閣列島での日本の首脳の弱腰に乗じた訳ではない。日本は内外の経済低迷と国内政治の混乱に目を奪われていた。しかし、ロシアのプーチンの存在は大きく変わらない。外交は継続している。この1年間、ルーピー鳩山と菅政権を見ながら、虎視眈々と狙っていたのである。柔道の愛好者、プーチンならではの返し技1本決まりなのだ。

 ロシアとの交渉は主導権が常に相手方にある極めて厳しい戦いであり、始めから日本は土俵際に立たされて、そこから立ち会わねばならない。とはいえ、最も前進したと外務省官僚が思ったのがイルクーツクでプーチンと森首相が会見し、平和条約締結後2島返還とその後の問題解決にプーチンが努力するという発言を得た時である。しかし、これは1956年の合意を確認しただけで、国後択捉は返すつもりは無いともいえる内容である。プーチンは日本が4島返還にこだわり、ロシアは全くその気はないのだから、この交渉は先が無いと見切っている節もある。 

 鈴木宗男議員などはこれに便乗し、2等返還で自分の成果としたいと野心をあらわにし、警戒され、また、その行状を暴かれる原因にもなった。北方領土交渉の日本側のロードマップはロシアと経済や文化、政府間の交流を高めながら、1956年の合意を実現することである。先は歯舞色丹を返還する交渉の中で、国後択捉を継続審議とする道をつけ、あくまでも、4島返還を達成することを到達点としなければならないのである。共産党などは北千島まで含め、江戸時代のロシアとの交渉を原点にしろというメチャクチャな主張をする連中もいる。日ソ交渉で失敗したのが、田中角栄が娘の真紀子を同伴してブレジネフと会見したときである。このとき、田中角栄は面と向かって、4島返還という日本側の建前を主張し、要求ばかりした。日ソ共同声明を出す事には成功、「未解決の諸問題」に北方四島の問題が含まれることを確認し、以後の交渉の起点としたことは成果であった。ところが、ソ連からその後突き放されたのである。角栄は娘もつれて演出し、国内では一見大舞台を演出したかのように見えた。国内では、要求したことばかりが評価される。相手の言う事を聞くことから交渉が始まるのであるが、日本のマスコミと国民意識は成果のみに思いを寄せる。これはソ連国民とて同じなのである。ソ連の軍事力、国際影響力は頂点に達していた時代である。土建屋の社長が大企業の会長に怒鳴り込んだようなことになってしまった。

 日中交渉に成功して得意の絶頂だった角栄の誤算である。田中眞紀子はその後外務大臣になった時、そのレベルに戻して、自分と父親の功績になるようなストーリーにしたかった事だろう。相手の顔に泥を塗ろうと、言いたい事を言ってのければマスコミは拍手喝采で、これが交渉だと思っている彼女の姿勢である。当時、駐ソ大使館書記官として接遇の任に当たった欧亜局長の東郷和彦氏は、彼女からも記憶されていたので、一生懸命、田中時代からの交渉経緯、成果を説明した。ところが、それが、彼女の癇に触ったようなのだ。田中氏は父に同伴したときの交渉から一歩も進んでいないことを望んでいた。とんでもない考え違いであるが、官僚の弱み、事なかれ主義をよく知っている彼女ならではの反応である。あのとき、外務省官僚のひげは嫌いだとか,言いたい放題で、それをマスコミは面白おかしく、格好の記事にして、彼女もノリに乗っていた。それでは最悪の状態に戻ってしまうのである。そこから、彼女の陰湿な攻撃が始まる。東郷氏の熱心な説明は、恫喝であり、自分達一家の貢献が消えてしまうような話だと受け取ったのだろう。そこから、ロシアスクールは、小泉のアメリカべったりの外交で力を得た外務省アメリカンスクール一派の攻勢に押され、佐藤優の告発、東郷氏の更迭という事態になって行く。今や、日本の対ロシア交渉の前線は、関東軍が南方に引き抜かれた状態でソ連軍の侵攻を受けたときのごとく、まさに、1945年の8月9日のように空白と無防備の中に陥っているのではないだろうか。対ソ外交という日本の重要事項を国内の政争と、官僚間の勢力争いが目標を見失ったことの結果だ。このことを、最も後期と捕えたのがロシアであり、むしろ解決の糸口が見えないと判断されたのである。


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by katoujun2549 | 2011-01-14 00:42 | 国際政治 | Comments(0)