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北方領土交渉の真実

北方領土交渉秘録―失われた五度の機会―東郷和彦著 新潮社

 外交官として、北方領土に取り組んだ外務官僚の記録として貴重な内容である。巻末に彼の外務省パートナーであった佐藤優氏の解説があり、その内容が全体を総括している。外交とは何かを一般人にも理解させてくれる。領土問題を平和に実行するには、選手(政治家)スタッフ(外交官)サポーター(国民)が一体になっていることが大前提である。今のように国民が経済や政治への不信感を持っている時代にあっては困難である。国民は政府に100%の成果を要求するがこれは外交交渉にはならない。互恵的関係においてのみ解決の糸口が見えてくるのこの交渉の特徴だからである。東郷氏の回想録は外務官僚として、ロシア側の国内事情をこれほど留意し、人間関係を築き、努力したことが切々と述べられている。しかし、官僚の文章に特有だが、肝腎の部分は全く触れられていないか、敢えて削除されている印象が強い。その時々の政権首脳を領土交渉の席に着かせるという事自体、とても大変な事だと思う。

 外交交渉は、政府間の交渉と国会の批准、そして国会に影響する世論の三つのバランスが要素である。これは双方にとって欠かす事が出来ない部分で、どれもが独自の動きをする。また、国際情勢という環境がこれに大きな影響を与えるから、問題を解決する為には、三つの針の穴を一気に通すような難事業であり、それ故にこれまでも進展しない。交渉は51対49で相手に花を持たせなければ成立しない。特に、ロシアとの交渉のように、相手が常にリーダシップを持っている交渉は、幻想にこだわっていては全く成果が望めない。これを国民が理解するには、外務省、さらには国民の国家への信頼度が高くなければ折角の交渉成果が全て反対勢力につぶされる。

 北方領土の返還に対する最後のチャンスを逸したことについて、東郷氏によれば、ソビエトの崩壊後、エリツイン時代に2島返還のサインがあった事を外務省の4島返還原則を崩せず、ロシア側の事情として思い切った提案であったことを理解できなかったのである。あの、鈴木宗男氏の活動は現実路線で2島返還の動きである。自分はこれが現実的に思えるが、ロシアのこの領土問題は、実際は彼らの腹を見抜けなければならず、本当は全く返す気がないことを日本側の暗黙の認識事項として出発すべきだと思う。しかし、こうした原則は外務省の官僚的無作為を生み易く、数年で移動となればお役御免。ライフワークとして取り組んだ東郷氏、鈴木宗男氏、さらには佐藤優氏の努力は、これまでに無かったほどの情熱を注いだことで評価される。しかし、官僚間ではむしろ政治に対する越権である。だから、批判も大きい。これを乗り越える人材も、外務省の官僚も今は存在しない。残念な事である。ロシアの国内事情も、金融危機以降厳しく、国内の反発を抑える為に領土交渉は利用される。彼らの経済が行き詰まったときはチャンスである。ロシアの政権がナショナリズムを煽っているときは領土交渉は無理なのである。

 今尚、出発点は1956年の日ソ国交回復共同宣言である。先は国交回復が先行し、日本はこれにより,先は国際連合の加盟を果した。スターリンが1953年に死去し、フルシチョフによる冷戦の雪解けという国際環境があった。当時、北方領土問題は、国交回復→平和条約締結→歯舞、色丹引き渡しという合意がなされ、平和条約の交渉を続ける事になったが、いまだにこれは実現していない。ソ連は漁業交渉など、カードを握っており、交渉は難航した。ソ連は2島返還、日本は四島一括返還という立場を崩さず、今なお変わっていない。ソ連としては、戦勝国としてドイツとの交渉もあり、また、フルシチョフ政権になっても東西冷戦は続き、西側に敵対する日本という位置は続いたから、国際環境上も困難な環境が続いた。日本が西側諸国の一員であり、日米安保条約を締結していることもソ連側からみて平和条約の障害となっている。

 1960年岸政権下の安保改定ではソ連は歯舞色丹返還は両国間の友好関係にもとづいて、本来ソ連領である同地域の引き渡しと主張し、これを撤回するに至った。1973年に日本の田中角栄首相がモスクワを訪問するまで、両国の首脳会談は17年間も開かれなかった。田中角栄のソ連側からの印象は必ずしも好ましいものではなかった。その後、(平和条約締結後に歯舞群島・色丹島を日本へ引き渡すことを明記した)日ソ共同宣言は、1993年のボリス・エリツィン大統領来日時に「日ソ間の全ての国際約束が日露間でも引き続き適用される」ということが確認され(東京宣言)、2000年にはウラジーミル・プーチン大統領が来日時に「56年宣言(日ソ共同宣言)は有効であると考える」と発言した。2001年に両国が発表した「イルクーツク声明」では日ソ共同宣言の法的有効性が文書で確認されている。

 外交交渉においては、交渉当事者の人間的な触れあい、信頼関係が欠かせない。また、交渉結果の評価が様々な国内勢力の影響を受ける。文化やスポーツ交流は国民の当事者国の理解を進める。また、経済協力は最も重要な要素であるが、経済的協力が先行する出口論と、領土問題を前提とする入口論と並行した議論になっているうちは解決の糸口がつかめない。これらをいかに絡み合わせて、平行線をいかに乗り越えられる距離まで近づけるかである。

 鳩山前首相の日米同盟の関係修正論は、日本の地政学的な位置を無視した暴論である。1956年の祖父の鳩山一郎時代はサンフランシスコ条約における日本の単独講和、朝鮮戦争、日米同盟という環境の中で行なわれた。そもそも、鳩山一郎は何もリベラルな政治家ではなく、戦前は政友会出身で軍部に抵抗はしたが、日本の再軍備を基本として平和憲法も反対する独自路線派であった。しかし、親ソ的な行動により、当時の進歩的知識人には歓迎されたのである。彼らは、自己保身とイデオロギーを重ね合わせ、ソ連に幻想を抱いていた人々であった。しかし、鳩山一郎をはじめ、スターリン時代から日本軍人抑留者問題などに取り組んだ積み重ねの結果得た成果が日ソ共同宣言であり、これもスターリンの死去が無ければ到底実現しなかっただろう。ルーピー鳩山の軽挙妄動が、プーチンとのイルクーツク宣言まで覆しかねないメドベージェフの北方領土訪問や、ロシアの中国と連携した行動をもたらしたといえる。

by katoujun2549 | 2011-01-11 11:32 | 書評 | Comments(0)