アンネフランク最後の7ヶ月 ウィリー・リントヴェル/著

  
「アンネフランク最後の七ヶ月」
ウィリー・リントヴェル/著 酒井府/訳 酒井明子/訳 徳間書店

 アンネフランクとその家族と出会った人々の証言である。皆女性であり、彼女達は中継収容所のオランダ北東のヴェステルボルク通過収容所からアウシュビッツに送られ、さらにベルゲンベルゼンに移送された人々であり、そこでアンネの家族と出会っている。これをテレビでインタビューしたものが本になっている。証言の言葉の問題か、訳がぎこちないのが難点だが、それを越える壮烈な体験である。

 アンネフランクはユダヤ人家族と共に1944年10月までオランダのアムステルダムの運河沿いの家にナチスの迫害を逃れて隠れ住んでいた。その時の日記が生き残った父親によって出版された。世界で大きな反響を呼び起こし、多くの若者に読まれた。日本でも1952年に出版され、特に思春期の女性の必読書となっている。彼女が悪名高きアウシュビッツに送られて、解放の2週間前に強制収容所のベルゲンベルゼンで亡くなくなった事は知られている。アウシュビッツには近所にビルケナウという殺人工場があり、毎日何千もの収容者がそこのガス室で殺されていたという。何故当時アンネの家族が生き延びていられたのか?アンネの父親は生き残ったし、兄弟姉妹も亡くなったのは彼女とはさほど違わず、送られて5ヵ月ほどの時期だった事が分かった。我々が知っていた歴史の上では到底そこまで生きてはいけないと思うが、何故だったのか、調べてみた。アウシュビッツのホロコーストやガス室は無かったという輩、さらには、この日記が捏造であるという悪意の主張をする人もいて国際訴訟にもなったので確かめたかったのである。そもそも、あの夜と霧で有名な強制収容所の実態は生還者からの証言がある。ところが、バンぜー会議後のラインハルト作戦で絶滅収容所がポーランド各地に作られ、そこで何百万人ものユダヤ人がガスで殺された実態は未だに分からない事が多い。映画などで見る骨と皮の収容者の映像は、最後の生き残りや、看守が放置しし、餓死した後の状況。もっと悲惨な死の工場の証拠は無いのである。というのはドイツはソ連軍の接近を感じ、ソビボー、へウムノ、トレブリンカ、マイダネク等の絶滅収容所を解体、死体も焼却、証拠を隠滅した。生存者も少なく、実体解明が出来ない。アウシュビッツはガス室や焼却場を設計したIGファルベンなどの企業の設計者が保有していた設計図などが発見され、全容が明らかになった。歴史の闇は深い。
アンネの存在は貴重な記録なのである。
 アンネの日記のお陰で彼女の周りにいた人が出版後に現れ、証言した。何人もの生存者がおり、アンネの最後を知っていた。その証言が「アンネフランク最後の7ケ月」という本にまとめられ、生き延びるための壮絶な戦いが記録されている。更に近年、彼女がアムステルダムで隠れ住んだ家で、居住者の結婚式の模様が8ミリ映画で撮影されていた。隠れ家の窓からアンネフランクが、顔を出して楽しそうに眺めている映像が公開されて、You-Tubeでも見る事ができる。(http://www.youtube.com/watch?v=4hvtXuO5GzU)
 
 アンネフランクという一少女の生が、これほどまでに記録され、ユダヤ人のホロコーストの証言となっている事は、何とも奇跡的である。沈黙していた神の意志を感じるほどである。何故神は人間の悲惨に何もしてくれないのか?その答えは真実を埋没させないという人間の行為の中にあるのだ。隠された真実は必ず世にあらわになる。人は自の不始末を正さなければならない。神は人間の犯した罪を真実を伝えるという形で、我々が二度と過たない道を示してくださる。
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 確かにアウシュビッツもビルケナウも絶滅収容所であったが、フル稼働していたのは1943年までであった。収容所に送られたユダヤ人の75%は選別されガス室に、その数は150万人とも言われるが正確な数は不明である。ここでは、到着すると選別され、到着したユダヤ人達が気がつかないうちにどんどんガス室に送り込まれて「処分」された。ガス室に行かなかった収容者は死ぬまで労働力として戦争経済に奉仕させられた。IGファルベンなどの企業の工場に振り分けられたのである。映画「シンドラーのリスト」にもその状況が見て取れた。1944年というのはドイツ軍の東部戦線が崩壊して、ポーランドのクラクフに近い収容所は稼働を停止し、ナチスは証拠隠滅を企てて、収容者のドイツ国内への移送を企てていた時期だった。そのため、彼らは極寒の中をベルゲン・ベルゼンまで歩かされ、道程で死んでいく事を計画として、期待されていた。チフスと栄養不良により、そうした旅の中でアンネや兄弟姉妹は倒れ、最後にたどり着いたベルゲンで力尽きたという事であった。さすがに何千という収容者を殺すには手間がかかり、それらを焼却して証拠を隠滅しようとしたナチスは、実行する時間的余裕が無い事に気がついたのである。彼らのうち親衛隊幹部は、既に逃亡を始めていた。アンネフランクはチフスにもかかっており、食料の欠乏するなか、姉を失い、気力も尽きて死亡したのである。収容者の生存はアウシュビッツではそれなりにあった。死者は出ていたが、殺人システムはすでに機能していなかった。ベルゲンベルゼンではそれも放棄され、管理機能が麻痺したことによって飢餓が収容者を襲った。彼女の家族がナチスに捕われて、何ヶ月も生き延びる事が出来たのは大戦末期になって、収容所を解体しなければならなかった事情によるのである。
  余談だが、アンネの日というのが昭和36年10月26日というのは「アンネ社」が女性用生理用品「アンネナプキン」を発売した日である。「40年間,お待たせしました」というキャチフレーズであった。これは、アメリカでは40年前から紙製のナプキン「コーテックス」が販売されていたからである.アメリカではこのように紙製の生理用品は普及していたが,日本では「アンネ・ナプキン」が発売されるまでは,カット綿と呼ばれる脱脂綿が生理に用いられていた.

 (http://blog.goo.ne.jp/cool-susan/e/3dd00251548e82a904a765ea7d2bfa10参照)

  アンネ・ナプキンの発売により,女性の生理時の不快感が軽減されたが,それ以上に,生理に対する日本人が持つ不浄観をアンネ・ナプキンが大きく変えた。その登場は,それまでの暗いイメージを吹き飛ばし,生理用品に市民権を与えた。日陰の商品が明るいイメージで売り出され,日本人の月経に対する暗いイメージを大きく変えたのは「アンネ・ナプキン」というネーミングであった。アンネ・フランクの「アンネの日記」から引用,少女のもつ清純さ,無邪気な明るさを連想させた。彼女が「日記」の中で胸をときめかせながら生理を待つという描写から命名した。このネーミングによって女性の生理の生々しいイメージが一掃された。「アンネの日」という口にしやすい言葉が定着したことには天国のアンネもびっくりしているだろう。
 しかし、強制収容所体験者の話だと、収容されていた時は、女性の生理が止まってしまったという。解放後復活したが、人間性を無視した環境、いかに過酷な精神状態だったかが分る。
 アンネ・ナプキンは若干27歳のアンネ社長・坂井泰子が製品化したもので、そのネーミングも彼女によってなされた。これが女性の意識と生活を変えただけでなく,女性の地位の向上,男性からの女性解放に役立つことになった。一人の女性が一生の間に使用するナプキンは1万4000個になると計算される.生理用品は年間約100億枚売れる2兆円産業。
 現在はユニチャームが市場の4割を占めている.ユニチャームを創立させたのは高原慶一朗であった.彼はナプキンの製造販売を開始、使いやすさの追求とスーパーなどへの販路開拓に力を注ぎ,昭和49年に大成化工から現在の社名に変更、その後も「チャームナップミニ」などヒット商品を連発、さらに紙おむつ,大人用失禁製品などへの事業を拡大したのである。
 ユダヤ人が発明したものに、もう一つ付け加えるとコンドームがある。これも、女性を予測不能な妊娠から解放してくれた。女性の地位向上に大きく貢献している。ベルリンのユダヤ博物館に行くと、そのことが展示されている。人間の生と性に関わるところにユダヤ人が関わっているのは不思議だ。まあ、講釈もこのくらいにしておこう。
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by katoujun2549 | 2010-12-04 21:53 | 書評 | Comments(0)