死刑制度の本質を考えよう
今日、死刑を最も多く行なっている国は中国で、日本も多い方の国だという事だ。アメリカは凶悪犯罪が多い国だが、州によっては廃止している。アメリカのカリフォルニア州では死刑廃止の方向だが、財政圧迫の原因の一つが刑務所コストの重圧で、これは教育予算を超えている。それでも廃止しようとしている。アジア、アフリカでも死刑廃止国が多い。昔、片っ端から政治犯を銃殺していたロシアも死刑が無くなっている事をマスコミはどうして伝えないのか。
以前千葉法務大臣が拘置所の処刑場を公開したが、処刑部屋を公開しただけである。死刑反対論者が執行許可をし、その言い訳のような行動。民主党の行動は言い訳が多い。辞任に追い込まれた柳田法務大臣も含め、そんな軽い人に死刑執行命令されるのではたまらないだろう。実際は、死刑囚の生活から、処刑方法、その結果どのような処理が行なわれるのか、処刑人の選定や執行者の考えなど公開すべき情報は多い筈だが、その一部だけというのは何もしていないのと同じだ。
何の為に死刑を行なうのか。犯罪の抑止効果は無いというのが今は定説である。日本の殺人犯は組織犯罪の者が多い。そこで、下積みの人間が強いてやらされる事が多い。また、殺人を計画的に行なうケースは少ない。海外の陪審制度は事件の証拠や証言の真偽を判断することが中心で、刑を判定することは少ない。裁判員の重圧は裁判官の責任を軽くする為にあるかのようだ。また、日本の無期懲役はかなり厳格に実施されており、恩赦などで刑期途中で減刑されて出獄する人は100人に一人くらいだという。このあたりも、一般の人々の懸念と実態が違う。冤罪も今の、検察の起訴手法を見ると結構予想される。そんな中で、死刑の決断を下す人が抱える苦悩は制度を少し勉強すれば大きなものにならざるをえない。
おまけに、日本の制度では死刑が確定してから執行までの期間が2年から3年もあり、待機中に精神異常を起こしたり、拘禁神経症になり、自分の犯罪認識もあやふやになってしまう人が多い。麻原彰晃等はもう心神耗弱状態で公判にも出られない状態だという。精神科医の小説家、加賀乙彦氏もこのことを重視している。(死刑囚の記録)何事も、厳しくすることが責任ある行動で進歩だと考える人もいるが、あまりにも単純だ。その意義や効果について良く考えてほしい。陪審制度は民主主義の形なのだ。しかし、日本人の民主主義は「おまかせ民主主義」であって、選挙以外は国民が参加していない。
かつて、ナチス時代にフライスラーという判事が、弁護もさせずに何千人もの反政府主義者を処刑したり、魔女裁判、ソ連の粛清など、国家が必ずしも公正ではないことが歴史的に見られる。処刑方法も議論が多い。アメリカでの電気椅子は今は行なわれていない。注射による死刑が残酷だとこれを違憲とする裁判が行われ、最高裁で却下されたほど,死刑はアメリカでも議論になっている。ギロチンというのはもともとドイツで発明されたが、ルイ16世が、これまでの死刑があまりにも残虐で処刑者の苦痛が大きかったので、人文主義の観点からギロチンを採用した。彼自身にこれが採用されたのは皮肉だが。ドイツでは第二次大戦中、白ばら運動のゾフィーショルなどもこの刑を受けた。戦後もギロチンは行なわれたが今はフランス共々廃止されている。イスラエルも死刑はない。テルアビブ事件の岡本も死刑になっていない。絞首というのは床が落ちて自分の体重で首の骨が損傷するので気を失い苦痛は少ない。自分の家の鴨居に縄をかけて自殺する場合とは違うのだそうだ。その場合は気を失うまでに時間がかかり、苦痛が大きく、舌や目玉が飛び出したり、脱糞したり、始末も大変なのだそうだ。日本でも、戦前の大逆事件など冤罪が多かった。江戸時代は打ち首だが、首切り朝右衛門最後の処刑者が高橋お伝だという。江戸時代は年間何千人もが処刑され、これも冤罪が非常に多かったと言う。打ち首は処刑人の負担が大きい。
陪審制度の民主主義的な意義は大きい。日本では社会で適合できない人間、犯罪者、高齢者、ハンディキャップのある人々を隔離しようという感覚が強い。犯罪人を更生させるのではなく、刑務所に隔離し、自分は平和に暮らせると思う楽観主義だ。刑務所に入った人間の再犯率は高い。犯罪者も市民であり、罪の更生こそ刑の目的であることを認知させるべきである。殺人は死刑によって購うということでは犯罪は無くならない。終身被害者の為に奉仕する人生とする事の方が受刑者には厳しい生活だろう。意味が曖昧な我が国の死刑制度の為に、多くの国家予算と時間が費やされている。犯罪の報復のためなら終身刑で充分ではないだろうか。被害者の家族も、死刑という事の意味が分からずに、加害者への死刑を望んでいるのである。