「大学病院のうらは墓場」 久坂部 洋著 幻冬舍新書

「大学病院のうらは墓場」 久坂部 洋著 幻冬舍新書
ー医学部が患者を殺すー

1.大学病院の現実

 大学病院は病院としてトップクラスの地位にあると思う人が多い。ある部分ではそうだ。先端的な研究が行われ、難病等、普通の病院で治療が出来ないような患者が頼りにしている。ところが、研究、教育、診療という3つの課題は個々の医療行為と言う点では必ずしも三位一体ではない。その理由は、今日の医療は専門性と細分化が進み、これらを同時にこなせる人材も、仕組みも無い。さらに悪い事に、医療の質という要素からは必ずしも患者の立場に立っていないからだ。悪く言えば、患者は医学教育の実験台、練習台である。それを承知で診療に来てくださいということである。「医学部が患者を殺す」という過激な副題であるが、この本は、今日の医療に対するマスコミの一方的な批判や患者の誤解、医療側の課題などを現実問題に即して考えている。著者は医師だからでもあるが、副題と違って一方的に患者の立場に立った論点ではない。医療の世界は一般患者に取っては謎に満ちている。白い巨塔という山崎豊子の小説がドラマにもなり、大学病院の実態が暴かれた感があり、大なり小なり、あの世界は今日も形を変えて健在だという。患者の立場に立った医療、インフォームドコンセント、情報公開など、この10年、医療環境は大きく変化した部分と、大学病院の持つ使命から変化できない部分を、明らかにしている。
 医学研究の国家予算(科研費)の半分は東京大学が握り、残りの半分は京都大学、そのさらに半分が阪大、残りの8分の1を国立大学医学部で分けている。国の科研費は私大には回らない。それだけ、東大、京大は優秀だから仕方が無いという。しかし、医療訴訟が多いのは昔から東大病院であり、国立の医療機関250のうち大学病院は49、五分の一だが、医療訴訟の半分は国立大学病院で発生している。これは何を意味するのだろうか。僻地医療の崩壊、慈恵医大の腹腔鏡手術事故、東京女子医大のカルテ改竄、東京医大の心臓外科事故など、なぜこれらの事件が発生したのか、新聞で書かれなかった真実がこの本では明らかにされる。

2.白い巨塔が崩壊したら後には何も残らない

 大学病院の医師は自分の病院で手術をしていないことを耳に挟む。知り合いの国立大T病院の教授は心臓バイパスを他の病院で行なった。また、K大病院の医師も、自分の病院をすすめない。いずれも東京では5つの指に入る有名病院だ。テレビで神の手ともてはやされた医師の実力は全く実態と違うと言う。大学病院の医師は研究の優先順位が高いが、治療技術が伴わない人が多い。これは当然と考えた方がいい。実際、ある大学病院の医療安全担当の教授はその事故の多さに辟易としていたことを裏付ける記述だ。
 日本の医療世界で特徴的だったのが医局である。医局は大学医学部教授を頂点とする教育研究組織と講座、さらに付属病院の診療科から構成され、必ずしも出身大学でなくても医局員にはなることができる。医局こそ白い巨塔である。医療の仕事の中には退屈な仕事、反復繰り返し、リスク、煩雑な事務などがある。しかし、これは仕事なら医療の世界のみならず、どこでもある。3Kの仕事を避けて、誰かに肩代わりさせる事で幾分楽にはなるが、そうした仕事は無くならない。看護師やコメディカルスタッフがこれらをこなしている。看護師も欧米のように階層的に、仕事の量と質を分け合う事は良い事ばかりではない。何層にも分かれた仕事の階層を管理しなければならず、それらの負担やストレスも大きい。アメリカでは医師以外の事務コストが日本の5倍以上かかるし、医療事故も多い。細かな分業は高度なマネージメントが必要になる。何でもこなす看護師がこれまで担って来た単純作業は日本人ならではの細やかなケアを生むが、大学病院ではこれを研修医や若手の医師が行なわざるを得ない。一般病院とは看護師の役割は違う。日本の低コスト医療は彼らの多能工的役割によって成立している。権限の分化と委譲は勿論今後の課題だ。
 大学病院の看護師は一般病院と比べ、静脈注射もできないし、導尿、膀胱洗浄、胃瘻チューブや人工肛門の管理も出来ない。年を取ったら行き場が無い事に一番危機感を持っているのは彼らなのだ。やる気のある看護師は一般病院に転職していく。

 教授—助教授—講師—助手(博士号)—研究員—大学院生—研修医であり、この順に大学病院は院長(教授)—副院長(助教授)—部長(理事/主任部長);講師—医長(助手)—医員(研究員/研修医)という形でピラミッドが出来、大学病院、関連病院、研究機関を人事的に支配しているが、医師にとっては就職やポジション確保の手段であり、公私にわたる人間関係の場である。この頂点が教授であり、病院への医師の派遣、学位などに関わってくる。この医局が崩壊しはじめたのだ。その原因は医師の病院への名義貸し、公立病院から国立大学病院への寄付問題、新臨床研究医制度による研修医の自由化である。そのため、2003年ごろから地方大学から医局を廃止したところが出たが、これは教授の人事権が部長等に取って代わられただけで、白い巨塔は残っている。しかし、かつての医局はやがて消えて行くだろう。その結果何が起きるかと言うと、実力のある病院、医師に人事が集中し、地方や、大学病院の医師不足が拡大するという事態になる。資本主義の論理だろうが、格差は広がった。この変化は地方や特定診療科の医師不足という形で患者に跳ね返ってくる事だ。

3.医療は聖職だが、医師は聖者ではない

 市場主義者は医療もその論理で上手く行くと思っているようだが、全くの誤解だ。商品が売れなくなれば会社は倒産する。しかし、他の企業がマーケットに合わせて生まれ、消費者はそちらから便益を受けられるが、医療はそうはいかない。医療サービスは有限の資源なのだ。働ける意志の数は限られ、養成には時間と金がかかる。商品は高ければ買わないが、医療はサービスを受けられなければ取り返しはきかない。その先には死が待っている。人の生死が市場選択、金の有る無しで左右されないように仕組みが作られて来た。だから、その点では我が国は国際的に、相対的に成功しているのだ。市場は情報開示、自由な取引、公平な競争が前提だが、医療はそうはいかない。サービス提供者の医師は受益者である患者に対して圧倒的な情報格差がある。非対称ということだ。情報格差がなければ病院に行かないし、患者は必ずしも医師を選択できない。病院間の競争はやっと始まったばかりだし、健康保険のなかではいくら金を積んでも治療内容に差がない。経済論理が通用しない世界を、財界人は納得できないのだろう、しかし、これを変えるというのは破壊行為だ。
 確かに研修医が無給では食べて行けないし、過労死問題があった。看護師も手術時間が超過したら残業となる。だから手術時間を制限しろという。彼らが労働者だというのは論理も実態も飛躍している。大学病院はこうした理屈がまかり通るところだ。ベテラン看護師は知識はあるが、出来る事が少ないため、若手医師の雑用は助けてくれない。その分研修医や医師の負担がどんどん増えるのである。国立大学病院はこの傾向が私立より激しい。執務環境として良い雰囲気ではないから、国立病院の医師は看護師を良くいわない。勿論頑張っている看護師も多い。これは患者からは見えない部分で起きている。
 医師が一番困るのは、医師が人格高潔、聖人のように思われる事だ。これは一種の差別だから迷惑だ。なにも霞を食っているわけじゃない。明日の楽があるから、苦しい入試や貧しい研修医が勤まる。しかし、医療は危険な仕事もあり、命を扱っているというプライドがあるからそれでも頑張れる。医師が社会的な尊敬を保っていられるのはこの部分だ。大学では名声と権力が目標になる。開業すればこれまでの投資を回収したくなるのは当然だ。かれらは人一倍努力家だが、それと同じように上昇志向も金銭欲も人並み以上にある。私大の医学部を卒業するには2千万円〜5千万円はかかる。国立大学は安いが、入る為には小学校からお受験、一流進学校に行かなければ到底入ることは出来ないから、これも入るまでに何千万円もかかっているはず。これを取り戻すつもりかどうかは個人差があるが、これだけ人材の育成にはお金がかかる。これを無視してマスコミは攻撃し、厚労省は政策を立てるから話がブレてしまう。

4.医療崩壊はどこまですすんでいるのか

 この本が書かれたのは2006年、新研修医制度により地方国立大学、自治体病院に若手医師が集まらなくなり、医療訴訟が頻発、産科医、小児科医が減少し、医師不足が社会問題となっている。医療訴訟があまりにも実態を無視したため、外科、産婦人科などはリスクに見合わないと見なされるようになった。今は、外科、特に脳外科、心臓外科がどんどん減ることが予測される。大学医学部で外科志望が急速に減少しているのだ。これで高齢社会が乗り切れるのだろうか。何かが変だ。こう思われた為に、診療報酬の改訂とか、医学部の定員増、在宅医療の推進等手が打たれているが、4年前の問題は解決されているとは思えない。医療の無過失保障制度は叫ばれるが一向に進まない。30年前医局が健在で、教授を頂点とするピラミッドが医療の世界の封建制の象徴として呪いの対象だったが、いざ、これが崩壊すると後に何も残らないことがわかって来た。親が作った家が気に入らないからと言って、後の生活や何を建てるかも決めないで,家を壊す馬鹿はいないだろう。それが行なわれてしまったのだ。とにかく、ブっ壊すといって壊した総理大臣が後を放り出して消えてしまった国なのだから、何が起きても不思議ではない。


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by katoujun2549 | 2010-11-10 00:43 | 書評 | Comments(0)