剣道人生と師 興武館と本間七郎先生

本間七郎先生のこと   加藤 順
e0195345_22434793.jpg

 自分が今日まで、剣道を続けて来たのは良き師、良き友に恵まれたからだと思っている。何事も、これに努力を加えれば目的は達成できると信じている。自分が、何故興武館で剣道をしているのか。還暦を過ぎ、剣道人生を振り返る年齢でもあり、興武館とご縁のある故本間七郎範士八段のことを記させて頂きたい。本間先生は関東管区警察学校の教官をされ、一橋大学の剣道師範でもあった。師として自分の人生にも多くの教訓を頂いた。剣道は進歩に時間がかかるが、長い師弟関係のうちに人生の師にも出会うことができる。これは幸福なことだと思う。
 昭和35年中学に入った年の夏休み、市川市の剣道連盟が警察署道場で剣道を教えているという話を、近所の子供から聞きつけ、友達と一緒に入門した。 当時、テレビの人気時代劇ドラマ、赤胴鈴之介で剣道ブームが始まり、チャンバラ好きの子供は多かった。何と、その時の千葉さゆり役は、吉永小百合、これが彼女のデビュー作品の筈だ。当時は、テレビで中継されていたのは野球、相撲、プロレスくらいであった。柔道と剣道はGHQに禁止され、6年前の昭和28年に復活したばかり、中学生は撓競技でトレパン、防具も竹ではなく布製、竹刀は袋撓という先の柔らかなものでやっていた。剣連では今の防具と袴で稽古や試合もしていた。嵐寛寿郎や辰巳柳太郎の時代劇映画で見た剣の道は憧れの世界であった。区立中学2年の時に剣道部が作られた。それは同学区の3校に剣道部があるため、校長が対抗意識で作ったもので、とにかく、自分は他より1年長じて試合も出来たので選手になれると踏んで入部した。そこでは熱心に指導してくれる先生はいなかった。週2回の稽古を1年程続けたが、団塊の世代であったため、放課後、教師からは下手すると浪人するぞと脅された。3年時に受験戦争がはじまり、周囲の仲間の眼の色が変わって来た。市川剣連に行くと、剣道だけやっていれば何とかなるから続けろと言われたが、自分は体格も小さいし、それで身を立てられる訳は無いから、馬鹿なことを言われたと思い稽古も辞めてしまった。
 都立墨田川高校に入ると、剣道部があったので入部した。しかし、ここも、先生無し、指導者は先輩で、勝手気侭な稽古しかしていなかった。実は、母校は、昔は府立七中で、名剣士、渡辺敏夫先生が戦前教職をされていたことを最近知った。その弟子が体育の教師で剣道部顧問だった。東京高師出の五段だが、国体にも出たハンドボール部に夢中で、教えに来てくれない。強い方だが、たまに稽古に来て、からかわれるばかり。嫌になった。高体連の大会等に行っても、負けてばかり、巣鴨高校や国士舘などの選手が何故強いのか、不思議でならなかった。指導者が丁寧に指導するかどうかの差だなと思い、始めからこりゃ勝負にならんと結局2年生で辞めてしまった。師にも友にも恵まれず、寂しい中高生時代であった。
 大学に入ると、剣道部があるのは知っていたが、文化サークルのYMCAには入っていたので5月過ぎまで入部しなかった。でも、小平の校庭で新入部員が素振りの稽古をしていたので、竹刀を振りたくなり、稽古に参加した。国立の道場は有備館といって、昭和の初期に建てられた古式豊かな木造の道場だった。床も丁度興武館と同じ正目板で、修行の場という感じであった。防具をつけると、全く身体が自分の物ではない感じで、ブランクが恨めしかった。白い稽古着を来た師範に稽古をお願いした。小柄な先生だが、かすりもしない。高校時代の先生は乱暴でボコボコにされたが、今度は打っても届かず、空を切るので苦しくて仕方が無い。息があがっているのに止めてくれない。殆ど打ってこないが、必ずポンと軽く小手を抑えられている。面打の繰り返しになったら、ハイと言って蹲踞したので生き返った感じがした。この方が、本間七郎先生であった。
 面を脱ぐと、何と、随分お年を取っておられる感じで、何でまた、こんな爺さんにやられたのか、全く不思議であった。先輩から先生は警察学校の師範をされ、昔は神宮大会で準優勝された、小手の本間といって有名だったそうだと聞いた。本間先生はいつもニコニコしていて、週2回稽古に来てくれた。これまで、きちんとした専門家に習った事が無かったので、これからは正しい剣道が出来るに違い無いと先生に稽古を付けて頂くのが楽しみであった。ところが、本間先生は全く自分の欠点とか、面の打ち込み方がどうのといったことは言わずに、相変わらず、面の中でニッコリされている。あんまり当たらないので体当りしてみたら、やんわり受け流されて、息が切れるばかりで、最後は、面の打ち込みを続けた。必死の思いで先生がハイと言って、蹲踞すると、元気元気といって終わる。毎回そんな繰り返しで、何だか苦しいばかりで、相手にしてもらってない気もした。
 先生はいつも、口癖のように「継続は力」「不器用は器用」といって皆に稽古が終わった後挨拶された。夏休みの前に、1年生の有志10人ぐらいで、本間先生のお宅に行く事になった。高円寺の商店街を抜けて閑静な住宅地になるところにお宅があった。先生を囲んで、お話を聞いた。戦前は旧制水戸高等学校の教授をされ、当時の配属将校に睨まれていた生徒を庇った話等を伺い、感服した。禅の話も話されたが、当時はキルケゴールやマックス・ウェーバーが哲学と思っていたから、剣道にもそんな理屈があるのかと、聞き流してしまった。失礼なことだったと今、汗顔の至りである。奥様がお酒を持って来てくれ、皆で美味しい出前寿司をごちそうになった。寮の食事は旨くなかったし、受験生時代から何年も寿司を食べた事が無かったので、嬉しく夢中になって食べた。先生は東京高等師範で高野佐三郎師について、その後、旧制水戸高等学校(今の茨城大)の体育教官をされた。当時の話を良くされた。ご子息は出版社にご勤務で、奥様も気さくなお話上手な方であった。剣道家は人生も達人なのだなあと思った。素晴しい師に出会った幸運を味わうことができたのである。
 先生は、必死に打って行くとさらりと躱された。息も尽き、これ以上は無理と無心で打つ時には必ず面が当った。というより、相手を良く見ており、頑張った時、いい攻めの時は面を打たせてくれたのだ。流石に、東京高師出の先生は教育的に引き出してくれる稽古と感じ入った。3年生の時に、先生に面が当たるようになった。少し上達したのかと喜んだところ、キャプテンから、先生は白内障が進んで、来月手術を受けると告げられた。進歩した訳ではないことが分り、恥しい気持ちになった。その後先生に懸っても、相変わらず小手を抑えられたので、老剣士の凄みを見たような気がした。本間先生は、結局、3年生の秋に引退された。その後に師範になられたのが、鹿児島から戻られた中倉先生であった。先生が警察病院に入退院を繰り替えされておられるご様子を伝え聞いた。
 本間先生が危篤と知ったのは、昭和54年であった。大先輩の渡辺憲三さんから先生のご様子が大変なので、見舞いに誘われた。高円寺のご自宅に伺うと、先生はベッドにお休みになっておられ、先輩が手を握って、先生と声をかけられたがご返事は無かった。その3日後訃報が届いた。ご葬儀の後、仕事が忙しかったのもあり、すっかり本間先生のことが、遠い思い出でしかなくなった。剣道の稽古も月に1回、国立とか、友人のいる住友海上道場に行く程度であった。ところが、45歳の時に狭心症になって入院し、カテーテル治療で回復した時、急に剣道が恋しくなった。そこで、中野の清武堂という防具店で一番良い稽古をしているのは、興武館だと教えられた。
 体調も回復した平成7年4月、防具を持って興武館の稽古に加わった。小澤先生にご挨拶すると、一橋の剣道部におられたならば、本間先生をご存知ですかと聞かれ、びっくりした。さらに、住友の道場で稽古をお願いした大沼先生もおられるのに、世界の狭さを感じた。さらに、小澤丘範士と日本剣道形をされている写真を見せられ、どうして、ここに本間師範がおられるのか、先生に伺うと、小澤範士と本間範士は親友で、興武館ではいつも小澤先生と並んで稽古をされていたことが分った。学生時代、かの、有名な小澤範士とこれほどの信頼関係があるとは、全くお話しになられなかったので、先生の謙虚なお人柄に感じ入った次第である。さらに、橋本先生が、自分も初心者のころから本間先生には稽古をつけて頂いたと伺い、これなら、兄弟弟子だと勝手に思い、興武館を本籍にして剣道を続けようと決めたのである。その後は、進歩が無い自分ではあるが、なかなか合格しなかった五段も、何とか達成し、さらに、6年後には六段も頂いた。今から振り返ると、自分の剣道人生をこのように導いてくださったのは、あの本間先生であったような気がする。勿論、興武館で故安藤宏三先生や小澤先生から、基本的な剣道の姿勢を再教育して頂いた結果ではあるが、剣縁という意味では本間先生が導いてくださった。恬淡とした無欲な方で昇段とか試合に勝つことにもこだわっていなかった。本間先生は禅を勉強されていた。剣道と酒、友人との語らいを大切にされ、自分の人生も悠久たる時間の流れの一部であり、大宇宙の小さな存在であるとお考えであった。本間先生と出会った時の先生の年齢に近づいて来た自分も時の流れを感じるようになったのである。
  

[PR]
by katoujun2549 | 2010-10-02 22:39 | 武道・剣道 | Comments(0)