戦争中のアメリカ合衆国における日系人収容

 戦争中アメリカ国内の日系人はアメリカ国内の辺境の地に作られた収容所に強制的に送られた。
彼らの財産は保管されたものもあったが、着の身着のままで送られた家族が多かった。
この収容所は粗末なバラックで作られ、外部に出ることが禁じられた。収容所の内部は自治が行なわれた。農業関係者の多かった日系人は野菜等の作物を作り、自給する事が出来た。

Manzanar(California)  10,000人   Tule Lake(California)     16,000人
Poston(Arizona)    20,000人   Gila River(Arizona)       15,000人
Minidoka(Idaho)     10,000人   Heart Mountain(Wyoming)  10,000人
Granada(Colorado)    8,000人   Topaz(Utah)         10,000人
Rohwer(Arkansas)   10,000人   Jerome(Arkansas)      10,000人

 これは第二次大戦中のアメリカの日系人強制収容所とその収容人数である。12万人以上である。この日系人に対する扱い方について1980年代にレーガン大統領が謝罪し、8万人の生き残りは一人当たり2万ドルの補償を受けた。その影には日系人の政府に対する抗議と日本人部隊442連帯の欧州戦線における活躍と犠牲があった。日系人は大戦中のアメリカ軍の中で最高の軍功を上げた。モンテカシーノやバルジ戦線で上げた功績は目覚ましいものがあった。シルバースターやパープルハート等の戦功賞は全米部隊の中で1番であった。

 彼らの生活を収容所の宮武東洋という写真家が撮り続けた。これを見ていると、当時の日本人より食生活も、服装もよく、彼らが権利を奪われたことに抗議をする理由が分らない程だ。しかし、これはアメリカが勝ち戦だったからで、もし、日本軍が攻勢であったらどんな目にあったかは分らない。その収容所はまさにドイツのアウシュビッツのような形をしていた。アメリカという自由を標榜する国において、日系人だけが人種差別的に収容されたという事実はアメリカ社会に反省をもたらしたが、この歴史の事も、二世部隊の活躍も知っているアメリカ人は少なくなっている。

 大戦前の日系一世や二世は、黄色人種排斥の運動もあったため、アメリカで苦労していた。彼らは勤勉すぎるという理由で迫害された。そうした中で、二世や三世を日本で教育させたいと思う人も多かった。戦争が始まり、日本の学校に取り残され、日本の国籍を持った人は学徒動員で日本軍人とならざるを得ない人もいた。一橋の剣道部の松藤先輩もその一人で、彼は特攻隊員として沖縄に出撃し、戦死された。
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by katoujun2549 | 2010-08-21 12:04 | 国際政治 | Comments(0)