フーコーの「全体的なものと個的なもの」 三文社

 ミシェル・フーコーが1979年スタンフォード大学で講演したときの講演要旨である。20世紀の知の巨人のひとりであるふーこーについて残念な事は、彼が1984年、ベルリンの壁崩壊やソ連の解体、中国や日本、アジアの成長を見ずしてエイズで死んだ事だ。かれの思索は西欧国家の成立と権力にこだわっているように思える。彼は、また、今日のEUの成立も見なかった。彼の政治論が今日色彩を失っている理由でもある。

<フーコーの思想は、ニーチェとハイデッガーの影響を受けている。とくに、ニーチェの「力への意志」や伝統的価値の無力化の指摘と、ハイデッガーによる「技術的存在理解」への批判をもとに、フーコーは、社会内で権力が変化するさまざまなパターンと権力が自我にかかわる仕方とを探究した。歴史においては、ひとつの論が時代の変化とともに真理とみなされたり、うそとみなされたりすることがありうる。フーコーはそれを支配している変化の法則を考察する。また、日常的な実践がどのようにして人々のアイデンティティを決定し、認識を体系化しうるのかをも研究した。フーコーによれば、事物を理解するどの方法も、それなりの長所と危険性をもっている。彼が彼が問題にしているのは政治と理性である。( Wikipedia)>

 この講演によると、政治は古代においては「ひつじ飼」、牧人国家ということであり、これは今日的には福祉国家である。彼は政治は法の支配によるギリシャ的、プラトンのいう理性と法から、キリスト教国家としてどのように変質したかを述べている。牧人とは羊達に対する慈愛をもって群を守る。しかし、莫大な数の国民を一握りの牧人が支配する。この牧人権力がキリスト教という理念と結合し、権力のテクノロジーと結合したとき、国家という権力を作り上げた。しかし、その権力は国民全体を表すと同時に、個人の精神に介入し、個々人が築き上げるものでもある。この本はフーコーの政治批判ではなく、政治理性批判である。正直言って、何を言っているのか、良くわからなかった。それはフーコーがあくまでも、西欧的価値観の個人と、福祉国家との関係を述べているからであり、それは日本からはよく見えない。フーコーはギリシャの都市国家のイデアから、マキャベリ、さらに絶対君主の統治理念まで、一気呵成に語る。17世紀の市民革命や絶対君主の統治理論を持ち出している。テュルケ、ドゥラマール、フォン・ユスティの3人の行政学者の著作を解説している。これらは、国家統治における経済学、統計学といった理論が使われる以前の時代である。我々には全く知識のない学者の話で、彼の知識の底深さを感じさせる。我々には過去の専制君主の統治論とか、キリスト教的支配に関しても、国家が権力とともに何処まで介入して来たかについての実感も、知識も無い。ヨーロッパにおいてはそうした国家による恐怖体験が日本の第二次大戦中の国家総動員時代とは比較にならないレベルで歴史的に数多くあった。ソビエトのグラーグ(労働収容所)などもつい30年前までは活動を続けていた。さらに、ベルリンがソ連軍に包囲されたとき、一般市民で家にいた成人男子は老人も含め、ナチスに絞首刑になったり、射殺された。キリスト教の魔女狩りのようなでっち上げで何万人も毎年拷問されて殺された時代もあった。そうした我々が、ポリス、共同幻想としての国家というものが、島国日本を念頭に置く限り理解できないのは当然だと思う。
 フーコーの言葉を引用すると、「もし、権力が、ただ、抑圧しかないのであったなら、「否」というもの以外に何もしないものであったなら、はたして人は権力にいつまでも従っているものでしょうか。そんなことが本当に可能とお答えですか。ところが、権力はしっかり立ているし、しっかり、人々に受け入れられているのです。その理由は簡単です。それは、権力は単に「否」を宣告する力として威力を振るっているわけではなく、本当はものに入り込み、快楽を誘発し、知を形成し、言説を生み出しているからなのです。権力は、社会全体の全域にわたって張り巡らされた生産網なのだ。と考える必要があります。権力を、抑圧機能しかもたない否定的力だとするのは矮小な見方だ。」とする。フーコーは唯一の原理で様々の事象を説明することは出来ないこと、逆に、多数の関係性の結果として一つの具体的な事実があること、この2つの確信にもとづいて語っていると言う。(北山晴一)

 確かに、北朝鮮においても、スターリン支配下のソ連においても反乱が起きた訳ではない。だから、権力は恐るべきものなのだ。人の心と生活の全てを支配する。
 例えば、現在の昭和天皇は皇太子時代、美知子妃殿下と共に、新しい皇室像、さらに市民像を提示した。国民の前に映像で見せるのは、ピアノを弾き、家族の団らん、登山や別荘の生活、音楽会や三越でのお買い物など、当時の中産階級の憧れをもたらし、高度成長の消費をリードした。国家の象徴としての天皇一家は我々の心に介入し、生活を支配した。しかし、今日、浩宮ご一家は精神の不感に悩む雅子妃殿下と愛子内親王である。まさに、今日の国民の象徴であろうか。いや、これもその意味においては国家権力の具体的な国民に対する働きかけなのだ。

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by katoujun2549 | 2010-05-04 23:13 | 書評 | Comments(0)