1Q84 10月〜12月 book3

 我々同世代、所謂全共闘の大学解体の意味をあの参加者、シンパ達がどのように受け止めたのか。確かにあの時代はベトナム反戦、中国文化革命、パレスチナ解放、沖縄返還と70年安保が錯綜し学生は全て関連付けて議論せざるをえなかった。サルトルとかソビエト共産党も健在な中、我々同世代は混乱し、かろうじて運動の端くれにぶる下がり、知性が未熟なまま結局高度成長期の物質文化に飲み込まれた。あの時代から知的変革の理論的旗手は哲学ではミシェルフーコー、精神分析のジャックラカンである。恥ずかしながらそんなことも知らず世界の変革を我が物のように理解しようとした。しょせんは闘争脱落者。しかし、フランスではあのカルティエラタンの闘争は知の世界を象牙の塔から解放する試みが続いた。わが国の大学はそもそも単なる図書館とそれを根城にした学会が蛸壺とか学者の城であり教育機関でも無く、御用学者の年金積立機関でしかなかった。丸山真男も大塚久雄も象牙の塔の領主であった。しかし、諸外国では知の世界は新たな地平に歩みを続けていた。無限に流動する人間の思考を、それぞれの時代の中心に回収する仕方に対し言語と無意識を武器に真っ向から立ち向かい、アカデミズムの牙城を突き崩した。不定形な思考の疾走。(「アンチオイデプス草稿」フェリックス・ガタリ著 前田耕作氏読売新聞書評(アジア文化史))

 しかし、三島由紀夫や石原慎太郎などがアカデミズムから一歩踏み出し、社会的発言を始めた時期でもあった。村上春樹はそんな時代にあって、我々団塊の世代としては、やや腰の引けた傍観者のような姿で登場した。政治的主張ではなく、彼がそこで、愛とか、死について、更に時代を描く事で若者の共感を得てきた。彼のメッセージは単純。(1)人はどこまで他人を愛せるか(2)何故人は他人の苦痛に無関心でいることができるか(3)人間が命を大切にするのは何故か(4)我々にはどんな時間が残されているか(5)自分は愛する人に何を与えることが出来るか、といったことがテーマなんだな。これを彼独特のメッセージ、メタファで展開している。彼の人気はこの単純な課題を映像的にイメージし易い文体で書いている。漫画やアニメみたいな受け止め方も可能だ。我々が時代を考える時に、政治や経済の事に思いを馳せてしまうが、実は最も大切な視点なのだ。村上春樹は1Q84で結局、過激派カルト宗教も、ナチスのように正義の目的の為に手段を選ばない柳谷式の老婦人も説明しきらないまま、物語を終えている。彼は死の問題に関しても、性に関しても、淡白な描きかただ。その代償として、リトルピープルとか、空気さなぎを登場させ、この世と1Q84の世界を橋渡しをしているように言える。

 主人公 天吾青年はNHK料金集配人の息子として、母親の愛情に恵まれなかった。青豆もエホバの証人を思わせる宗教団体に熱中し、その幹部になる母親から離別する。ふかえりの教祖は過激なカルトを率い、天吾にせまるが、どうも失敗続きであり、「ふかえり」に小説で内容はばらされるは、教祖は殺されるはで、実際のオウムよりドジな感じになった。もちろんオウムも崩壊した。しかし、村上春樹は、そうした宗教団体や様々な思惑、思想を持った人々、さらには不思議な空間を登場させて、この世を村上春樹ワールドで表現した。天吾と青豆はその二人の愛を命がけで守った。しかし、過去の歴史においては全く逆に、教団が勝利し、愛する若者が悲劇の中に陥れられた出来ごとが、現実に起きたのである。この二人の命をとりまく配役を国家とか、教団といったものに置き換えてみると、1Q84の世界が蘇ってくるのかもしれない。

 かつて、あのフランツ・カフカが予言した、第二次大戦の不条理な状況を思い起こしてみる。あれはまさに1Q34の世界だ。人々が知らないうちに恐るべき暴力と非情が進行していた。
1933年ヒトラーが首相になった時ナチの 人気は派手なデモンストレーションに反して期待はずれだった。帝国議事堂放火事件後の総選挙でナチスの得票率は43%、ベルリンでは34%共産党は24%も取った。第2党の社会民主党は議席数を1つ伸ばし、千人以上が逮捕された弾圧下の共産党は81議席もあった程。兎に角議事堂燃やして議会を開けなくしたうえ反対派を妨害したインチキ議会で全権委任法成立させた。途端に突撃隊SAの恫喝、コーペニックの血の週間による140人に上るテロ犠牲者はリンチされ無惨な姿で土左衛門となった。中には知事やエリートも多くいた。日本の2.26もそうだが恐怖が独裁者を誕生させた。ドイツの政治は暴力団に乗っ取られた。恐怖支配とはいえ何でドイツ人がこんな不正を容認出来たのか不思議なこと。ロシア革命の恐怖とかインフレ、ベルリンの風紀の乱れといった社会環境も暴力的な実行力に喝采したグループを生んだ。ユダヤ人攻撃はまさに国民の期待に応える形だったのだろう。思い当たるのはビスマルクが国家目標達成のために議会を無視し、しかも栄光のドイツ帝国を築いて普仏、普襖戦争 に勝利した記憶が忘れられなかった!それにもかかわらず大戦に負けたドイツ。インフレで儲けるユダヤ人を横目に憎しみが煽られた。不正や他人の苦しみを前に、良き時代を取り戻すために見てみぬふりをするようになった。それにしても、自分の兄弟が精神病や不具だからと7万人も安楽死させたり、共産党でもない人権活動家、牧師、批判記事を書いた記者などが政権奪取前後にナチにより十万人も殺された。ドイツ人はそれほど他人に無関心なのか。公共が個人に優先し汚職や異人種のいない、清潔な都市をそんなに希求したのか?人間は自分を守るためには平気で他人の苦痛を見てみぬふりする種族か。
そこで個人の愛は国家に優先したのだろうか。ヒトラーやゲッペルスは実行した。
 
 これらを日本の状況の中で当てはめるのは縁遠い感じがする。しかし、目的のためには手段を選ばない人達、市場原理こそ神のごとく振る舞った若者達。あるいは小泉元首相のような短い、アジテーション的なスローガンに煽られたではないか。誰かに支配されたマスコミに操られる国民とならないとは限らない。そのとき、あの不条理な1Q84の世界が恐怖となって現れない事を祈るばかりだ。
[PR]
by katoujun2549 | 2010-05-03 12:13 | 書評 | Comments(0)