不道徳教育講座 ブロック.W著

不道徳教育講座  ブロック.W 橘 玲訳 講談社

 同じ書名で三島由紀夫のものがある。これも、日本的社会で常識としてきたものを、ある種の個人主義で切って捨てるような面白みがあった。が、これはリバタリアンについての本である。リバタリアニズムとは、国家の機能を縮小し、市場原理によって社会を運営しようという政治思想。この本では、売春婦、麻薬密売人、ポン引き、闇金融など、を擁護することによって、"不道徳"な行為に対する人々の偏見を挑発し、その背後にある"国家"を考えさせる。国家が国民の福祉を増進するというのは幻想であり、アウシュビッツ、ソ連の強制収容所や中国の文化大革命のように、近代国家成立後におこった信じがたい災厄のほとんどが国家の巨大な権力が引き起こしたことである。これに対して市場機能が果たす役割を重視している。
 
 国家が果たしている役割のほとんどすべては市場で提供されうる。できる限り国家の権限を縮小し、小さな政府にすることが望ましいと考えている。夜警国家論である。これを竹中平蔵や小泉政権は政治的スローガンに利用し、規制緩和も、郵政改革も中途半端に終わってしまい、今やかえって前より病状は悪くなっている感じだ。リバウンドというのは一層深刻だ。
 
 アダム・スミスが「神の見えざる手」といった市場機能は、官僚機構が生み出すもろもろの政策とは関係がない。アダムスミスは人間の理性とか、悟性にもとづき、他人と自分という関係における道徳的な規範や自己規制によって社会の調和を図る事を期待していた。だから、何も、勝手に自由気ままな結果が平衡状態をもたらすとは言っていない。そこは誤解ではないか。アダムスミスの国富論の骨子は、道徳情操論という哲学論に前提として展開されている。リバタリアン経済学者ハイエクは法哲学者でもある。彼が、アダムスミスが国富論で言っている神の見えざる手をそのよう解釈するるはずはないのだが。

 しかし、政府のアフリカ諸国への援助、日本のODAの失敗を思い起こさせるような指摘もなされる。貧困に対する”援助”は、実際のところ何の役にも立たず、かえって相手国の経済に打撃を与え続ける結果につながり、自国の市場機能が育たないため、援助中毒から抜けることができなくなっている。国家が支援したものは必ず、先方の未成熟な国家機構を介するから、結局援助は一部の官僚や権力者に横取りされてしまう。多くの先進国が過ちを犯して来た。

 しかし、アメリカのリバタリアンはいわゆるリベラリズムにおける、国家の機能を組合とか、ボランティア、自発的団体に置き換えようとするもので、その経営には高度の技術を必要とする。これを実際にこなせるのは、神のごとき人材である。これをヨーロッパに置き換えると、結果的にはナチスのようになってしまうのではないか。結果的に超国家主義になってしまう。ロシア革命が人類初の自由な、階級の無い国家を志向して全く逆の結果になった事が思い起こされる。統治という事はリバタリアンでも放棄はしていない以上、この権力という代物は無菌状態の中で一気に増殖する病原菌のような陳腐な権力すら抑止できないのではないか。オウムなどもそうだ。一部の宗教団体とか、アーミッシュのようなアメリカの政治や経済と隔絶された中でしか実現できないものだ。実際、過激なテロとか、ゴールドウォーターのような極右を生み出す温床になっている。
 
 キリスト教とか、日本的風土において実現可能なリバタリアニズムとは何かを考えて行きたいものである。

[PR]
by katoujun2549 | 2010-04-17 22:04 | 書評 | Comments(0)