ソロヴェッキー島

 ソビエトロシアの収容所だったソロヴェッキー島は、北極に近い、白海の中に浮かぶ島々である。ロシア正教の修道院だったところで、今日世界遺産になっている。しかし、その美しい建物が、ソビエトロシア時代のおぞましい反革命分子の収容所であった。ここで、信じられない数の人々が命を落とした。グラーグ第1号であったこの島は素晴しい景色が望まれるが、厳冬期は人間が住むところとは思えない恐ろしいところとなる。1921年、収容所として開設された。収容所の規模はヨシフ・スターリンの時代に一気に拡大され、1923年の頃には4000人収容していたのが、1927年頃には2万人、1930年代はじめには65万人(大陸にある複数の支所収容所含む)もの人々がここへ連れてこられ、奴隷労働を強いられるようになった。飢餓と伝染病と看守の暴行などにより何万という囚人がここで死亡した。特に1929年にはチフスの伝染で一気に2万人が死亡している。しかし、これは世界遺産として、アウシュビッツ・ビルケナウ収容所のような負の遺産ではなく、文化遺産である。両方を兼ね備えた世界遺産。
 
 Wikipediaによると
ソロヴェツキー諸島(ロシア語 Солове́цкие острова́)は、白海オネガ湾に浮かぶ6つの島で構成される諸島である。ソロフキという略称で呼ばれる。行政上はロシアのアルハンゲリスク州に属すソロヴェツキー区である。諸島の海岸線はとても入り組んでいる。島は花崗岩や片麻岩から成っている。地形は丘が多く、最高地点は107mである。諸島の大半はヨーロッパアカマツとオウシュウトウヒからなる森林で覆われ、一部は沼地となっている。多くの湖があり、修道士たちにより運河のネットワークを構成するように互いに連結されている。
 歴史的に諸島は有名なロシア正教のソロヴェツキー修道院(Solovetsky Monastery)で知られている。キリロ=ベロゼルスキー修道院(Kirillo-Belozersky Monastery)からやってきた2人の修道士により、15世紀後半に設立された。16世紀後半までに修道院はもっとも裕福な地主となり、またロシアにおけるもっとも影響力のある聖地となった。 現在の拠点とその主要な教会はイヴァン4世統治期初期に、Philip II, Metropolitan of Moscowの依頼で石で建造された。ニーコンの改革とそれに続く古儀式派への迫害はこの修道院にも及んだ。修道士たちは断固として従来の信仰を守り、皇帝の代理人を追放したため、皇帝アレクセイの軍隊による8年に及ぶ包囲攻撃(Solovetsky Monastery Uprising)を招き、最終的に多数の修道士が殺害された。
 ロシアの帝政期を通じて、修道院は強固な要塞として知られ、リヴォニア戦争(16世紀)、大動乱期(Time of Troubles, 17世紀)、クリミア戦争(19世紀)、ロシア内戦(20世紀)と外敵を退け続けた。
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ロシア革命後このソロヴェツキー諸島には島毎に収容所が作られ、ソルジェーニツインの収容所群島とはまさにこれを物語っているのです。
 
 1937年の大粛清において多くの人々が逮捕され、銃殺、収容所送りになった。その名目はほとんどが、人民の敵、外国のスパイといったでっち上げ容疑でした。ナチスの収容所に送られたのは、共産主義者やユダヤ人、平和主義者と特定の定義の人でしたが、スターリンの場合、身内に対する容赦ない粛清が特徴で、これが組織的に行われた。皮肉な事に、銃殺に追いやった人が、復讐で密告され、また、銃殺されるといった中世の魔女裁判そのものの社会病理現象でした。この歴史的なナチス以上の国家的犯罪行為に関して、共産党はスターリン批判で済ませているようですが、このことの問題点はは彼らの理想とする唯物論的理想社会に向かう過程で、必然的に発生する可能性がある事です。ナチスの強制収容所は、特定の人、ユダヤ人などは殆どがすぐに殺されるのですが、ソ連の収容所は、先は労働力として劣悪な環境下で労働奉仕させられるところが違います。
 スターリンはソロヴェツキー収容所をソビエト連邦全域の収容所のモデルとして考え始めます。当初、この収容所は、チェカやオゲペウの管轄中、残虐行為の横行する地獄と、一部の富裕層が要
領よく、自由な監獄生活を送るアンバランスな状態がありました。特に、何らかの技術を持った人、音楽や演劇の能力など一芸を持った人も生き残る確率が高かった。これをゴーリキーが一面だけをとらえて社会主義の理想的監獄と喧伝したりした事もありました。これは実はスターリンが仕組んだ罠だったのです。この収容所においては労働に応じてパンとスープが3段階に量を増加、減少されるノルマ制をとり、病人とか弱者は上位30%の半分しか与えられず、死ぬ運命にありました。しかし、巧みな経営により、周囲の脆弱な自治体の産業を脅かす程の影響もあったのです。勿論この経営は赤字で、収容者のコストをまかなうものではなかったが、関係者のピンハネ利益等、旨味もあったと思われます。この所長ナフターリ・フレンケリーは、スターリンの信頼熱く、戦後も生き延び天寿を全うしているのです。スターリンは収容所を産業の基盤として活用する意図があり、粛清を利用していた節があります。しかし、粛清による労働力の取り込みは、特に逮捕者の家族、老人、女性、子供まで収容するため、非効率だったのです。これが、コストの低い労働力として経済を支え、また、依存してきたのがソビエト経済でした。これでは消費力、高度な技術を支える基盤が伸びません。戦後、スターリン死後、収容所経済の非効率がソ連の経済の重荷となっていることに気がついたゴルバチョフ等の改革につながって行きます。ゴルバチョフの祖父はこの収容所の犠牲者だったのです。




モスクワには、ソ連に理想社会を求めた日本人共産党員やシンパがかなりいました。『旧ソ連秘密文書など記録による粛清確認者』は、34人です。その内訳は、(1)銃殺18人、(2)強制収容所送り7人、(3)国外追放4人、(4)逮捕後行先不明4人で、(5)釈放は野坂竜1人だけでした。コミンテルン執行委員・野坂参三は、妻の逮捕後、山本懸蔵をディミトロフに2回にわたって密告し、彼を銃殺させることと引き換えに、妻の釈放と「密告者」としての自己の安全を得ました。山本懸蔵は、国崎定洞を初め、勝野金政その他日本人をゲペウに密告したことがソ連崩壊後のデータで明らかになっています。「“人民の敵”“外国のスパイ”容疑者を密告すること」こそが、スターリンとゲペウへの忠誠度を証明し、自己と家族の逮捕を免れる唯一の行為となる社会主義国家システムでした。さらには、その「密告者」が密告されるというのが、理想の社会主義国家の実態でした。加藤哲郎一橋大学教授が、著書やHPにおいて、34人の経歴・粛清経過を載せています。
www2s.biglobe.ne.jp/~mike/katuno.htm参照
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by katoujun2549 | 2010-04-09 19:53 | 国際政治 | Comments(0)