乃木希典将軍はどう描かれたか

 司馬遼太郎著 「坂の上の雲」や「殉死」 では乃木希典大将の無能が日本軍の損害をもたらしたかのごとく描かれている。名将児玉源太郎に対して無能な指揮官の典型にされてしまった乃木さん。後世にて軍神として神社も作られ、その時の指揮の無策が太平洋戦争の無謀な、命を粗末にする戦術の元祖にされてしまった。本当だろうか。 自分は、司馬遼太郎氏の小説家としてのレトリックに皆が騙されていると思う。これまで、軍神としてあがめたてられていた、日露戦争の立役者を引きずり下ろし、児玉源太郎という能吏を第3次総攻撃の時に突然登場させ、203高地攻略を成功させるというドラマティックな筋書きで読者を惹き付ける。司馬氏の構想力に歴史が歪曲されているのではないか。乃木将軍の人格は今の世ではどこまで魅力的かは分らないが、当時、2人の子息を戦死という悲しみの中で指揮を取る指令官無くしては、兵士達の死を覚悟の突撃は出来なかった。現代の感覚で、70年以上前の戦術の非を問うのはいかがなものか。彼の戦法は第一次大戦時の西部戦線の惨状から比較しても、戦死者を出さないように、工夫したことがみて取れる。攻城時の損害は守る方の5倍は覚悟しなければならないが、これも総攻撃だけを見ると第二次総攻撃以降は互角である。第一次総攻撃から塹壕による肉薄と突撃を組み合わせたり、トンネル掘削も第二次から開始している。

 日露戦争の10年後、第一次世界大戦が始まったが、その時のドイツ軍も、英仏軍もこの教訓を取り入れていない。ベルダン突撃戦では1日に3万人の戦死者を出し、これを何度も繰り返している。当時の縦深陣地攻撃では第1線、2線突破までは攻撃側も、守備側も捨て駒なのだ。結局9ヶ月間で独軍仏軍合計69万人が戦死した。ソンムでも無謀な突撃で1日でイギリス軍は7月1日だけで死傷者6万人を出した。イギリス兵は30kgの背嚢を背負い、横1列で前進し、塹壕で待ち構えるドイツ兵はあきれた顔でこの光景を見ていた。機銃掃射で起きた後のことは言うまでもない。ここでは僅か10kmの争奪戦で4ヶ月で62万人が犠牲になった。乃木将軍はこのような消耗戦を考えた訳でもなく、丁寧に3回の攻撃の作戦を練っている。日露戦争当時の将校は、西南戦争に従軍し、日清戦争の経験もある人が多く、戦争の仕方を理解している有能な集団だった。それでも、機関銃の威力が分らずに、突撃肉薄だけを武勇と考えていた将校、上官は多かったが、その威力を知った時は遅かった。

 軽量化が図られた上に毎分500連発と実用性の高い機関銃であるマキシム機関銃は、この戦闘で世界で初めて本格的に運用され威力を発揮した。機関銃陣地からの十字砲火に対し、従来の歩兵による突撃は無力であることを実戦で証明した。当時の日露両軍は世界的に見ても例外的に機関銃を大量配備しており、早くから防衛兵器としての運用を考え出したロシア軍に対し、日本軍側はあくまでも『野戦の補助兵器』として考えていたので、初期には効果的な運用は行われていなかったが、後に日本側もロシア側の運用法を応用している。同時代のヨーロッパ各国では、機関銃をごく少数配備していただけで運用法も確立されていなかった。この戦闘における機関銃の威力は各国観戦武官によって本国に報告されたが、辺境の特殊事例としてほとんど黙殺された。ヨーロッパ各国がこの事実に気づき、機関銃の攻撃に対して有効な解決策が考え出されるのは第一次世界大戦における戦車の発明まで待つことになる。

(第1回総攻撃)
日本軍第三軍は戦死5017名、負傷10843名という大損害を蒙り突破に失敗、対する露軍の被害は戦死1500名、負傷4500名だったという。

大本営に攻略をせかされた為、塹壕を敵塹壕まで掘り進み急襲する正攻法を捨て身体をさらけ出して攻めかかる強襲法を採用した為である。乃木らは、突撃による攻撃では要塞陥落はできないと判断。要塞前面ぎりぎりまで塹壕を掘り進んで進撃路を確保する戦法に切り替える(正攻法併用による攻撃計画の策定)。6度に渡る東北保塁への攻撃は失敗した為日本軍は撤退を余儀なくされた。竜眼北保塁や水師営周辺保塁などの戦略目標の占領には成功した。

(第二回総攻撃 )
第一回総攻撃失敗後、大本営は東京湾要塞に配備していた二八センチ榴弾砲(当時は二十八糎砲と呼ばれた)計18門を送り込む。10月26日、二八センチ砲も参加し、第二回旅順総攻撃を開始(目標は盤竜山保塁並びに竜眼北保塁の周囲の露軍陣地を占領し安定を図る事)その前に旅順港の一部が見渡せる観測点を確保していたので(南山披山の占領)、旅順港に対する砲撃も行い旅順艦隊に損害を与える。(しかし旅順艦隊はこの前の黄海海戦で既に修復不能の損害が出ておりコンドラチェンコ少将は「破壊された艦船を更に砲撃しても意味は無い」と発言している) 二八センチ榴弾砲の威力は凄まじく目標となった二竜山保塁、東鶏冠山保塁では火薬庫が爆発するなどの大損害を蒙った。29日には露軍が反撃に転じるが失敗し、30日に今度は日本軍第9師団が無名の保塁(通称P保塁)を攻撃し苦闘の末夜半には占領する。

日本軍は戦死1092名、負傷2782名の損害を出すが露軍も戦死616名、負傷4453名と日本軍以上の大損害を受けた。また日本軍は目標の占領には成功し作戦目的も果している。

(第三回総攻撃 )
10月バルチック艦隊がウラジオストックに向かったという報を受け、陸軍は海軍から矢のような催促を受けるようになる。中央の参謀本部は11月14日、御前会議で「二百三高地主攻」を決定するが満州軍総司令官大山巌は此れを容れず参謀長の児玉源太郎は10月までの観測砲撃で軍艦の機能は失われたと判断して艦船への砲撃も禁止した。こういった上層部の意見の食い違いは乃木と第3軍を混乱させ第3回総攻撃案は両者の意見を全部取り入れた折衷案となった。陸軍は内地に残っていた最後の現役兵師団の精鋭、第7師団を投入して第三軍に第三回旅順総攻撃を指令(11月26日)。11月26日、東鶏冠山北保塁と二竜山保塁への準備砲撃を開始。午後には第11師団が東鶏冠山北保塁を、第9師団が二竜山保塁をそれぞれ攻撃した。しかし数波に渡る攻撃も失敗に終わり、夜半には有志志願による突撃隊を、中村覚少将の指揮のもとに攻撃を行う。(夜間の敵味方の識別を目的として、隊員全員が白襷を着用したので白襷隊と呼ばれた)要塞へ決死の奇襲突撃を試みるが、司令官が局所攻撃に没頭してしまったり予備兵力の少なさ、局所的に日本軍が密集してしまったなどの結果、大損害を蒙り失敗した。

当初の攻撃計画が頓挫したとことで第三軍は27日。目標を要塞正面から203高地に変更した。28日より攻撃が始まるが頼みの二八サンチ榴弾砲も二百三高地の泥にささるだけで効果は少なく担当した第1師団も此れまでの戦いで欠員が多く前進すら出来なかった。29日に新着の第7師団が投入され30日に西南保塁を占領、その後東北保塁も占領するが露軍の激しい反撃を受け翌朝には奪還されてしまう。一連の戦いは乃木司令部によって行われたものであるが、一部に満州軍総参謀長児玉源太郎大将の関与を指摘する意見もあり、おおよそ次のような見解である。
11月29日に戦況の不振を懸念し第3軍(及び乃木)を助ける為児玉が旅順方面へ南下し12月1日到着。途上、203高地陥落の報を受けたが後に奪還されたことを知るや児玉は「二百三高地を【決戦場】とし露軍に消耗を強い、要塞正面攻略を有利にしよう」と決断。大山に電報を打ち、北方の沙河戦線より歩兵第17連隊を南下させるように要請した。
日本軍は12月4日早朝から203高地に猛撃を加え、203高地の西南保塁、東北保塁を1時間半ほどで占領、そして山頂に機関銃を配備してロシア軍の逆襲を撃退し203高地を完全に占領した。日本軍は戦死5052名、負傷11884名。露軍は戦死5308名、負傷者は12000名近くに達した。
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by katoujun2549 | 2010-04-08 21:16 | 国際政治 | Comments(0)