死刑囚の記録 加賀乙彦著

死刑囚の記録 加賀乙彦著 中公新書

 精神医学者であり、小説家、カトリック信者である加賀乙彦氏の文章は、切れがよく、読み易い。近年、不幸な国の幸福論が話題になっている。小説宣告や雲の都が話題になった。加賀氏は遠藤周作氏や井上洋司神父の導きで洗礼を受けた。死刑反対論者である。氏は東京拘置所の精神医官として、多くの死刑囚と接して来た。それは研究のためであるが、そこで体験したことや、死刑囚と対面しながらその精神分析を行い、印象的だった相手について精神医として思い出を綴っている。死刑反対論を展開しているわけではないが、死刑囚達と接して来た中で、氏の思いは伝わってくる。
 
 東京拘置所には裁判中の未決囚も多く、彼らは何とか死刑を免れようと藁を掴む気持ちで上告を試み、あがく。執行が遅れるという果実を求めて。また、逆に、進んで上告を避けるもの、また、冤罪を感じさせる者もいる。実際に陳述調書や裁判の記録からは明らかに判決どおおりと思われる人物でも20%くらいは氏には冤罪であると訴える、妄想にかられたり、拘禁症状、被害妄想等様々な症状が見られる。日本の裁判は長いので有名だ。逮捕されてから最高裁まで争えば10年以上かかるケースもある。一審二審で死刑判決が出て更に上告するか、棄却されるまでに拘置所に収監され続ける。さらに、法務大臣が執行命令を出すまで長期間、何年も待機するのである。現在死刑が確定している死刑囚は109人で、この間、精神を病む者が多い。死刑囚は刑が執行されるまでは、他の懲役囚とは待遇が異なる。本を読んだり、差し入れも受ける事が出来る。しかし、独房での生活は常に監視され、自由の無い、希望の無い日々が続く。死刑が執行されるのかどうか、また、いつ死刑が執行されるのかわからない状態のまま、死刑執行の日を待つ毎日を送っている。この不安定な状況が、死刑囚に非常に大きな精神的ストレスを生み出している。昔は鋸引き刑とか、磔、海外では八つ裂きや切断といった残酷な苦痛に満ちた刑が多かったが、定められた以外の苦痛を受刑者に与えないことが近代法治社会の刑の執行である。アムネスティインターナショナルではこの日本の現状を非人道的と指摘している。
 
 関東では死刑執行は東京拘置所や仙台刑務所で行われる。仙台に送られれば日が近いという事でもあり、それは突然やってくる。かつて世間を騒がせた、メッカ殺人事件の正田昭はカトリック信者として、改心と人格の変化があり、驚きに満ちた生活態度を示すようになった。永山則夫のケースもある。冤罪を主張し、結果、無罪を勝ち取った囚人、帝銀事件の平沢、また、三鷹事件で死刑判決となったが獄死してしまった者等、加賀氏が印象に残った人々について書いている。こうした変化が死刑の為に起きた事ばかりではない。全ての囚人がキリスト教や仏教に帰依する訳ではない。むしろ、教誨師が持ってくる贈り物を期待したり、気晴らしに宗教を求めるケースが殆どだという。収監中に出会った教誨師の力もあるだろう。また、長期間の拘留で、かつて自分が犯した犯罪を実際に起こしたという実感が薄れている人が多い。そうした人物に報復的な意味での刑の実行に何を期待するのだろうか。
 
 共通しているのは、罪を犯した死刑囚の告白では、死刑が全く殺人という凶悪犯罪の抑止力になっていないということだ。もう一つは、長期間の拘禁状態が、囚人に必要以上の精神的苦痛を引き起こしているということである。また、死刑を執行する担当官の苦悩も存在する。死刑反対論の根拠はこのあたりにあるのだろう。加賀氏は精神科医であるため、死刑囚とは拘置所の職員や、検事などより心を許す交流が出来たのであろう。しかし、彼らの多くは、やはり驚くべき犯罪を起こしている。その被害者や家族に与えた衝撃、損害に関して加賀氏はどのように考えているのだろうか。社会が国家による報復を期待している事にどのように反論するのだろうか。国家の必要悪として死刑と戦争では殺人が犯罪にはならないが、この制度に関わる多くの人々が苦しんでいる事もある。加賀氏はカトリック信者として殺人という行為はいかなる条件においても認められないということだと思う。では、その代替としてどのような制度が求められるかが欠落した場合、説得力が欠けてしまう。
 
 今日の死刑と無期懲役の差は大きい。恩赦無しの終身刑が検討される事が望ましいが、今日運用上実質的にそのようになっているケースも多い。日本国憲法もそうだが、我が国は法律を運用で片付ける習慣がある。しかし、こうした感覚が政治における献金問題等、脱法行為を助長させている。法のすみやかな執行と問題のある事に関してはきちんと立法機能が対応することが法治国家の基本ではないだろうか。

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by katoujun2549 | 2010-03-21 21:06 | 書評 | Comments(0)