レーニン暗殺未遂事件

東京外国語大学学長 亀山郁夫先生(ロシア文学)のお話を書かせて頂きます。

3年前、東京医科歯科大学の医療政策MMA大学院で聞いた亀山先生の講義が頭に焼き付いているので、敢えて以下に書かせて頂きます。昔、高校の教科でレーニンは病死であったことしか、書かれていなかった。暗殺未遂事件やスターリンの怪しい動きは、当時の教師にマルキストが多く、また、彼らに情報も無かったかもしれないが、自分は全く知らなかったため、衝撃であった。その講義の一部です。権力がどのように生まれたのか、興味ある話題でした。

 1918年8月30日、レーニンが会合での演説を終え自動車に乗ろうとしたとき、3発の銃声と共にレーニンは倒れた。そのうちの二発が彼の肩と肺に命中した。レーニンは自分のアパートへ運ばれ、他の暗殺者の存在を恐れ病院への搬送を拒絶した。医者が呼び出され、銃弾の摘出は行われたが、その内の1個は首の動脈に近接し、危険すぎたので手術は中止された。レーニンの容態はどうにか回復したものの、その健康状態はこのときから傾き始めた模様で、この暗殺未遂による負傷が、死因となった脳梗塞に大きく影響したと考えられている。多分、残置した弾丸の頸動脈への圧迫と弾丸の鉛の腐食等が悪影響を与えた筈である。
 なお、この時現場にいたエスエル党員ファーニャ・カプランが逮捕され、即決裁判の後9月4日に処刑されたが、彼女は既に失明同然だったことなどから、犯人は別人だった可能性が高い。この事件を機に赤色テロが始まり、多くの旧体制関係者が処刑された。

 8月のレーニン暗殺未遂事件以降、レーニンは自分の首の弾丸摘出手術の回復を待つあいだの1922年5月25日に脳梗塞で倒れた。ひどく衰弱したレーニンは半ば引退する形でモスクワ郊外のゴールキ(en:Gorki Leninskiye)に移住した。スターリンはレーニンへの面会を監督する役職につき、外部との仲介者としての役目を果たした。この間に、ソビエト連邦を構成する共和国を強化するための経済政策とその方法を巡って、両者は口論になった(グルジア問題)。レーニンとスターリンの関係は悪化し、レーニンは自身の遺書(en:Lenin's Testament)の中で、スターリンをますます軽蔑する内容の口述をしている。レーニンはスターリンの不作法な態度、度を越した権力志向、野心、そして政治を批判し、スターリンを書記長の座から解任すべきであると提案した。レーニンは完全に体の自由が効かなくなった状態のまま、翌3月6日に脳卒中の発作で倒れた。スターリンはもうレーニンが助からないことを隠蔽し、全てを封印、その間、自分の派閥を固めていった。
 
 1924年1月21日、レーニンは死去した。レーニンはスターリンを警戒し、その後継者として相応しくない事を遺書に書いたが、スターリンはこれを握りつぶした。その後のスターリンの秘密警察によるテロは、亀山郁夫著「大審問官 スターリン(小学館)」に詳しい。スターリンは革命前は帝政ロシアのスパイであったが、共産党においては逆スパイを務め、その顔写真は帝政ロシア警察のファイルに保管されていた。この事を知る上層部の指導者は、次々と粛正された。スターリンのトラウマに関しては、先生の推論であるが、真に迫った解釈である。

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by katoujun2549 | 2010-03-05 12:40 | 国際政治 | Comments(0)