ダーウィンと家族の絆を読んで

ダーウィンと家族の絆
ランドル ケインズ (著), Randal Keynes (原著), 渡辺 政隆 (翻訳), 松下 展子 (翻訳)

1.種の進化の謎

 進化はどのように行われるのか、分ったようで分っていないといいたい。未だに謎だが、近年のゲノム解析でドーキンスなどはこれに飛びつき新しい局面に入って来たように見える。個体変化はかなり説明できる。しかし、これは品種交配でも行われて来たことだ。ダーウィンと変わらないのではないか。種の変化はもっと大きな出来事だと思う。個体変化→種の変化というのは自分は永遠に解明されないと思っている。まさに神の領域なのだ。日本の文化勲章受章者、木村資正の研究では遺伝子のゆらぎ理論、中立説が世界的に大きく貢献した。生物の進化に遺伝子がどのように関わっているかはその中心的研究ターゲットである。彼の説は600万年前にチンパンジーと共通の祖先から分化したというのが基礎になって地質学、化石学などから出発しているし、進化論が正しいという大前提がある。セントラルドグマは、物理学や化学的解析によって不動の理論的地位を得てきた。高校の生物学教科書でも説明されている。こんなことが生体の中で行われてるとは全く宇宙的な出来事だ。神の存在と生命の設計図を思わせてくれる。人間がゲノムによって全て支配されているかどうか、人間の進化がこの部分を基盤としているという説が支持されている。分子生物学はセントラルドグマで成立した。たんぱく質を構成するアミノ酸が20種類なのは何故か。すでにこうした構造があるではないか。これは神が定めたのだ。しかし、仕組みが何故動くのか、どのような作用が働くのか、謎は深まるばかりだ。セントラルドグマは結果であって、原因ではないようなのだ。そうした機能をもたらす「構造」が全く明らかになっていない。また、たんぱく質が発生において「場」が違うと形が変わる。人間が、様々な環境変化、飢餓、気候、ウィルス、血族結婚、異種交配などによってゲノムに影響が加わるプロセスがよくわからない。生体の変異を、どこかが信号を送り、ゲノムに伝え、様々な変化が起きる。さらにゲノムとは無関係に形質変化もあるのだ。木村資正氏の中間説によると32億のゲノム情報において2年に1度くらいそのようなことが起きており、ほとんどは機能せずに中立的に残る。ゲノムの中で適者生存が行われ、優位に立った遺伝子が残る。しかし、そうした変化をゲノムの変化にまで至らせるプロセスで何が指令をだしているのか。この出来事が種の変異まで起こすのかは謎だらけだ。ミトコンドリアとの関係、さらに糖鎖がどう働くのか。それに対してセントラルドグマの部分は物理学と化学的分析で明快な答えが出るからどんどん研究が進み、評価もされる。細胞がまるで機械であるかのように工学的に解析するのがはやりだ。生物をビジネスにしようという魂胆が働いているからだ。ところが、細胞の働きの構造的な関連性がはっきりしていない。遺伝子を使った突出した様々な試みが月面着陸のように行われ、実は周辺の大切な構造がなおざりにされ、多分大きなトラブルを起こすだろう。ますます分らなくなっているのだ。このことは、分子生物学だけではなく、科学史的な全体を見る力も必要だ。

2.ダーウィンの生活と理論

「ダーウイン家族の絆」を読んでいると、昔のジェントリー階層の生活が垣間見える。何と、これは今の皇室の生活に似ている。乳母がいて、下女、執事、家庭教師、毎日がお散歩にはじまり、慈善活動とか、クリケット、まあ、理想とする定年生活みたいなものもある。天皇家が生物学の研究を生活の一部にしている理由は何かな、昭和天皇は確か、海ウシに取り組んでいたし、今上天皇はハゼ、秋篠宮のナマズとか。分類学、博物学は全く論争のない学問らしい。皆が仲良くなる学問で、皇室向きなんだそうだ。ダーウインも何故人間が争うのか、生物界には目を覆いたくなるような残酷な結果があるのか、神に慈悲は無いのかを真剣に考えた結果、種の起源を書いた。彼にはもう結論は出ていた。だから、科学的には曖昧な部分が残り、さらに次の理論を発展させるきっかけを与えている。彼は進化が世界の原理だと思ったのだ。ダーウィンは生物が皆同じルーツを持ち、何故このように多くの種が地球上に存在するのかを解いた。彼は、フジツボの分類研究に7年も費している。種の分化が自然淘汰だけで説明しきれるものではなかった。突然変異が何故生まれるのか、何故、ラマルクの要不要説が間違いなのか。さらに、病気の原因が細菌やウィルスによって起きる事はパスツール以降に分った事だ。病気は水で治った時代。今でも分らないプラセーボ効果。その後数十年後でも野口英世はウィルスを知らなかった。キリスト教徒としては困った人だが、彼が反発したのは国教だし、旧約聖書だ。キリストの愛に敬虔な気持ちを持つユニテリアン(アリウス派に近い)の妻とは最後まで妥協しなかったが、根底にはつながるものを感じる。ユニテリアンというのは実に寛大な教派で、神とキリスト、霊の三位一体には同意しない。しかし、キリストを博愛の原点と見て教会や礼拝はきちんとしているのである。日本人には取っ付きが良い考え方で、かつて森有礼などはその考えを導入しようとした。ダーウインは人間だけが特別ではないことを主張した。当時の社会は人間を神の代理人として全ての生物の頂点においた階級社会、奴隷もいたし、子供や動物を酷使した。彼はそこに宗教への反発を感じた。我々はみな祖先を同じくする仲間なのだというヒューマンな思想が根底にある。とはいえ、個体と種をまたがる進化は未だに解明されていない。人間が生命のメカニズムを全て解明できると考えるのは、必ずやその反作用で手痛いしっぺ返しを受けるだろう。

3.家族と理論

 ダーウインの妻の実家はあの陶器で有名なウェッジウッド社であった。医師の家庭に生まれ、ケンブリッジ大学神学部に学んだ。しかし、彼自身は信仰的な人ではなかった。何不自由無い、ブルジョワの生活で、名家の妻を得、10人の子供に恵まれて、食うには困らない生活であった。しかし、彼は最愛の長女を結核で失った。又、ダーウィン自身もあまり健康な身体の持ち主ではなく、床に伏す日々が多かった。生物学的な意味での、適者生存の道から遠い自分の身体には晩年まで悩み続けた。かれは神学部で学んだ経験から、神に祈ったり、礼拝することは、若い頃は日常茶飯事だった。娘の病いに苦しむ姿を見て、彼は必死に祈り続けたという。無情にも神は答えなかった。12才で長女は天に召された。どれだけ彼は苦しんだだろうか。娘を苦しめるのは罪か、神の慈悲はどこにあるのかと。彼に対して妻は信仰深い方だったという。
 一旦生物界を見てみると、残酷な現実が満ちあふれている。蜂に生きながら卵を産みつけられ、孵化した蜂の幼虫に食い尽くされる芋虫。産業革命に翻弄され、貧民街で飢えやアルコール中毒に苦しむ労働者、廃棄物や煤で汚れた無機質な街の存在、神が創造主であるとすれば、どうしてこのような苦渋に満ちた世界を造りたもうたのか。社会の厳しさと健康に苦しむ彼自身も神への不信感を高めた。そこでビーグル号で訪れたガラパゴス諸島はまさに工業地帯のイングランドのように殺風景だった。
 生命がより良く生き抜くには自然界から学ぶものは何か、という彼の問いがあった筈である。さらに生命は何処から来てどこに行くのか。彼は娘の死への悲しみから、ある答えを得た。それは神の支配も、罪の戒めも自然には存在しないということだ。

ダーウィンとその家族を描いた映画 クリエーション が公開される。アメリカでは進化論反対論者が多く、公開が躊躇われていた。原作「ダーウィンと家族の絆」の著者 ランダル・ケインズはダーウィンの曾曾孫である。子孫の一人が書いた小説として興味深い。

 アニーの死がここまでキーポイントとなったかどうかには異議を唱える声もあるが、一番注目すべきなのは、このストーリーが、ダーウィンの子孫という、プライベートな情報まで把握することができる人間によって描かれた家族の物語だということだ。保守的で内気だったとされるダーウィンは、もともと信仰心に厚いわけではなかった。医師として成功した父を敬愛していた彼は、同じく信仰心の薄い父が死後裁きを受けるとされている教義にずっと納得がいかなかった。また、ケンブリッジで優秀な科学者と知り合い、議論を交わした経験が、種の起源へと発展する基盤を築いた。そして、妻エマとの信念の違いを超えた愛と、子どもたち、特にアニーとの関係は、彼の人生から切り離すことができない。つまり、彼の思想、彼の研究にも家族は密接に関係していた。彼は種の起原において、生命の行方に関する彼自身の慰めと確信を書きたかったのだと思う。人間の生命について神は関心が無い。しかし、自然は進化という大きな流れをもって生命を子孫に伝え、自分の生命も、アニーの命も大きな大宇宙の一部として永遠の一部となるということ。そこには人間を罪に陥れる教会も、苦悩を与える神も存在しないのだ。

 4.ダーウィンをどう受け止めるか

 創造論者がダーウィンを否定する事には嫌悪感を感じる。聖書の読み方が違うのである。そもそも、カトリックはあまり聖書を読まない。だから、議論にはならない。聖書について議論できるのは神父だけであり、彼らは実に良く読んでおり、解釈もリベラルだ。ただし、教会は彼らの拠り所であり、飯の種だから、組織的な忠誠心で教会を支えている。
 自分のような長老主義リベラル派も彼らの敵である。創造論者の信奉する創世記は、そもそもユダヤ教においてバビロン捕囚期に編纂された。それまでは無かったか、口伝で文書にはなっていない。古代人の記憶力は驚くべきだ。だが、文書にならないと、前後に矛盾が出ても気にならない。だから、今の旧約聖書を読んでも奇妙な辻褄が合わない箇所がある。聖書、特に出エジプト記もかなりメアファな要素が強い。しかし、イザヤ書や詩編、ヨブ記などは文学的な価値がある。聖書を考古学や暗号理論、コンピューターによって分解し、科学的な手法で研究し始めたのはこの50年の事だ。その研究結果によって信仰が増したという話は聞いた事はないが、魅力的な研究対象なのだ。しかし創世記を10ページ程読んでも著者の意図が創造論者の受け止め方とは違う事に何故気がつかないかか不思議。子供の頃から沁み込んだ観念だろうか。

 ダーウィン家族の絆を読むと、ダーウィンは無神論者というより理神論者だと思った。種の起原
を読んだ事も無い人が、彼を非難すると言う点で、偉大な思想や、研究は共通している。主義という形で受け継がれるにしたがって意図とは別の効果をもたらすことはよくある事だ。彼は何も、聖書の内容を批判するために種の起原を書いた訳ではない。しかし、生命の営みのあらゆる局面に神が介在するという思想には反発した。
 神は全てを創造したが、その成り立ちは自然の摂理により達成された。神は進化やその営み、法則には介在せず、我々の心の中にイエスキリストにより臨在し賜うた。現代人の精神に近い。ところが、社会的進化論やヒュームなどに、さらに政治家や唯物論者に悪用された感じがする。ウォレスはじめ進化論や自然淘汰を喧伝した人は他にも沢山いたのだ。マルサスも人口論で悪く言われているが、経済学として重要なステップとなっている。彼は当時の労働者の悲惨な生活環境をどうしたら改善できるかを真剣に考えた。彼の本も読まれずに悪書と言われる。
 ダーウィンは種の多様性と人間の本性に原理を探求したかったのだ。霊魂とか確かめようの無いものには関心がなかった。科学的精神というものである。心霊現象には不快感というより興味がなかっただけだ。彼がエミリーの死にどれだけ深く思いを寄せていようと、それだけでは種の起原は生まれない。
 ダーウィンはまるで、品種改良のように子供を沢山作ったが、愛情を注いだのは死んだエミリーだけだったのだろうか。子供を植物や動物観察のようにしか見ていないとしたら、やはり、奇妙な人格だ。また、不思議なのは、妻のエティが、娘の死に駆けつける事も無く死後、墓所の場所も分らなかったというのは不自然だ。当時は子供の死はよくある事だったにしても、また、彼女の死が突然で、間に合わなかったとしても、本当に悲しんだのは乳母や家庭教師というのは理解できない。この本を書いたランドルケインズの祖父の兄はあの経済学者ケインズである。とはいえ、ダーウィンの孫にケインズがいるということか。彼の知性がそこに遺伝したのだろうか、これも凄い。
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by katoujun2549 | 2010-02-26 12:50 | 書評 | Comments(0)