さよならダーウィニズム

さよならダーウィニズム 構造主義進化論 (池田清彦著 講談社選書メチエ)

 生命の根源とは何かを考える時に、必ずぶつかるのが進化論である。聖書の創世記における神の生命の創造と、ダーウィンの進化論は長い間対立関係を築いて来た。しかし、これも150年の間に矛盾が指摘され、一方では最新の科学的発見のひとつであるゲノム理論をもとにネオダーウイニズムが提唱されるようになった。ドーキンスもその延長戦上にある。一方、キリスト教はその中の神話的表現に神学的根拠を見出し、対立概念ではなくなり、一歩引いた形で科学と共存を目指すようになった。ところが、今日、イスラム原理主義や福音派がその出発点として対決姿勢を崩していない。生物の進化は様々な批判にさらされつつも、パラダイムとして健在である。しかし、この原理に関しては、自然淘汰や突然変異で説明しきれず、そこを創造論者は衝いてくるが、生物の進化を全否定するわけにはいかない。これが、種の変化をどのようにもたらすか、系統変化を越えられるかの議論になると、まさに思想のぶつかり合いであって科学ではなくなってしまう。ジェレミー・リフキンの「エントロピーの法則」では生物が精神を持ち,時間の要素と意志を持った方向性を持つことを述べているが、これは一種のインテリジェントデザイン論であり、例示した事例に怪しいところがあったので池田清彦氏の「さよならダーウィニズム」を読んでみた。これはそうしたこれまでの理論から、新たな方法論となるような方向性を模索したもので、先般亡くなったレビーストロースを代表とする、構造主義の論理を元に展開したものである。この2つを俯瞰しながら考えてみたい。

 人間は言語を習得するとき、少しづつ憶え、成長期、子供の時にしゃべれるようになる。狼少年のように、この機会を失うとなかなか言語機能が身に付かない。言語というのは、単語の羅列ではなく、構造として体系が出来るものらしい。構造主義生物学は言語学者のソシュール、あるいは記号論のパースといった構造主義者の考え方を生物学に応用する試みである。しかし、今日進化論の主流は、ネオダーウィニズムである。
 木村資生は外側の形ではなく、体の中の遺伝子に注目。遺伝子の中に残されている突然変異を分析した。生存に有利な突然変異が起こることはまれ。生存に重要な遺伝子の働きを壊すような突然変異は、生き残ることができない。遺伝子の中に残る突然変異は生存に有利なものとは限らない。自然選択説では選択されない中立的な突然変異が残る場合が多いことを見つけ出した。これを、遺伝子・分子進化の中立説として発表した。

中立的な突然変異の例----耳の中の耳垢には二種類ある湿ったタイプと乾いたタイプ。遺伝子で決まる。本来は湿ったタイプだが、突然変異で乾いたタイプの遺伝子が出てきた。私は乾いた方、生きることに有利にも不利にもならないが、残っている。自然選択説では説明できない部分。だが、このことが種を越えるだろうか。
 
 ダーウィニズムでは生物の進化の順序を明らかにし、分岐した順序に従って分類した系統樹を重視する。ダーウィン的には、分岐した時は殆ど同じ生物種が突然変異と自然選択によって徐々に変わって、全く違った生物群が出来ると考える。ところが、ミッシングリンクの問題や、生存には弱者のはずの動物が何万年も種を維持している現実を見ると、かつてのダーウィニズムは色あせてしまった。1950年代以降、分子生物学の急激な発展に便乗し、DNAがその遺伝の原因であり、この変異が新しい種を作るという考え方を加えた、ネオダーウインニズムがその後生まれた。セントラルドグマは今日メインパラダイムだが、全てを説明できているわけではなく、たんぱく質から最終的に何かの形とか、行動をつくるプロセスは今日もわかっていない。その部分的なメカニズムが解明できたからといって、種の進化という大きな出来事を説明できるとは思えない。
 
 進化は発生的に制約されている。例えば人間であれば人間以外の者にはなれない。未だ種を越えた進化のメカニズムは解明されていない。クジラが河馬から進化したかどうかは骨格くらいの証拠しかないし、仮にそうでも、種を移動しているかどうかは推測に過ぎない。もし、DNAに人間以外の者になるような変化があれば人間は生きて行く事は出来ない。猿の卵と人間の精子が合体しても、生命体にはならない。また、無限に変化するものではない。すこしでも環境に適したものは生き延びる確率は高く、その逆もある。生き物に自然選択が働くと考える事は正しい。しかし、軟体動物が脊椎動物に変化するような事はありえないのである。進化を構造的に理解する必要がある。生物は物理化学系より複雑な系であり、物理化学系から演繹されない、何か記号論的な関係性を想定しなければ、どうしても分らない。DNAをいくら研究しても、DNAがもたらす形態とか、行動の対応しか分らない。本当に生物が何をやっているのか、さらには進化という大きなドラマは分らないのだ。ネオダーウィニズムはDNAの進化を説明し、生物の形態も進化するとことは旨く説明しているが、生物はDNAだけで出来ている訳ではない。遺伝子が子孫に特徴的な形質を伝える事は否定できない。しかし、遺伝子の異常が種を越えた進化の原因だろうか。生命は恐竜の絶滅というような急激な変化があり、これまで支配的だった種の後に新しい種が生まれ、世界に繁殖する。それだけでは説明できない。恐竜がすべて新しいい種に変化することは無かっただろう。鳥が突然変異した恐竜だったのだろうか。
 
 最初に100の種があって、何かの原因で90が死滅し、10残った場合、最初の100の多様性と、さらに、残った10が100に分岐した場合の多様性は質が違い、後者の方が複雑な内容を持っている。現在の種とカンブリア紀の種を考えてみると、現在の方がはるかに複雑なのではないか。これも推測にすぎないが。生物の進化は、何も、偶然に支配されてはいないし、限りなく行われるものではなく、一定の仕組みの中で行われている。また、過去からの長い時間の中で、「文化」や歴史のように積み上げて成り立っている。だから、いくら試験管の中で材料を混ぜて電気で刺激しても生命にはならない。また、数十億年前の原始地球の物質構成が、生命発生の条件を満たし、偶然に生命が誕生したとしても、その条件を再現することは不可能である。

 自分はキリスト教徒だから、この問題について敢えて言えば、聖書の特徴は人間の生命現象をユダヤ民族の歴史の中にみながら時間的な世界観を展開しているところである。進化論というのはやはり生物の歴史学ととらえると、人間の営みを反映しているように見える。ダーウインが生きた時代は産業革命のさなかで,資本主義や市場原理が荒々しく人間を支配していた時代である。そこでの生存競争や自然選択説は当時は一部のサロンでしか受け入れられなかったが、産業が高度に発展した20世紀のパラダイムになった。そこには神は不在であった。第一次、二次世界大戦という惨禍が発生した。神を忘れた結果である。しかし、20世紀の後半、ネオダーウィニズムが飛びついたゲノムの構造は更に複雑さを増し、極めて精緻な仕組みである事が分って来た。ゲノムがどこまで働いているか、また、発生学上、これが万能ではない事も分ってくると、進化はある枠組みの中で行われているのではないかと思うようになった。これを精神とか、構造とか、神とか言うならばそれで良いのではないか。否定するのも勝手だし、肯定するのも自由だ。

 図らずも、地球環境問題等の新しい科学の枠組みが生まれて来た。人間が自然を全て支配しきれないことが益々分ってくると、そこに神の大いなる知恵とか、生命創造の仕組みが背後にある事を思わざるを得なくなった。しかし、宗教と科学は全く別の世界である。人間の感情が科学的に解明され、一生のうちいつ癌が発生するかがゲノムで読めたからといって、その人がいつ誰と恋に落ち、何人子供をつくって、幸せになるかどうかは絶対にわからない。これこそ、神の領域である。
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by katoujun2549 | 2010-02-19 01:07 | 書評 | Comments(0)