進化の証明 ドーキンス著

ドーキンス著 進化の証明について

1.進化は現実である
 
 進化という現実を否定することはできない。しかし、アメリカ人の40%は生物の進化を認めようとしない。今日ヨーロッパにおいてはムスリムの人口が増え、その中で原理主義者は生物の進化を否定している。日本はその点では極めて進化論に理解のある国民である。ドーキンスの進化に関する論点は、進化が現実であり、それを否定することは、地球が丸い事、あるいは、公転することを否定しているようなことだとしている。聖書の天地創造の物語を丸呑みしようという勢力はアメリカ合衆国に多い。著者は生物学の軸足である進化を否定する人々に対して挑戦的である。生物の進化を否定する西欧人の思考方法には遠くギリシャ哲学の影響がある。プラトンである。彼は事物をイデアとして固定したモデルを設定する。しかし、進化というのはひと時もその変化を休まない。猿人と人間のミッシングリンクという発想そのものが事実を分かりにくくしている。ミッシングリンクを埋める新たな化石が見つかったとすると、創造論者はこれとつながる更に新たな化石を要求する。化石はそう簡単に見つからないから、従って再び証拠を求められるのである。これまで見つかった化石全体で見てもらいたい。600万円前の化石から現代人までをつなぐ多数の化石が進化の姿を物語っている。
 
 化石による合理的説明が難しい理由は
1.「化石」という客観的記録が統計学的に余りにも不完全な「あらゆる意味の片寄り」を持った情報であること。
2.進化が「種によって間歇的(一挙に化石を残さないスピードで途中段階を経過してしまう)」で「理想的な(学者に都合のよい)漸進の放散進化」が幻想だということ、
3.化石は死体から生まれ、特殊な条件でしか残らない。腐敗し易いものや、地域的に偏りがある。
「中間型の謎」というのは化石ばかりじゃなくて「直立歩行の起源と進化」にも当てはまる。一旦直立歩行が確立してしまえば「エネルギーのエコノミー」で説明はできる。しかし、中間型のヨチヨチ歩きのご先祖たちの「エネルギーの不経済性」と、なにより「不格好さのリスク=恰好の獲物状態」の期間をどう越えたのか、を如何に説明するのか。「目」もその例だ。現在の「高級立体カメラ的眼」を前提にすれば「生きる上での効能」は言をまたない。が、完成するまでの数知れない「出来損ないの無数のカメラ」の時代はどうなるのだ。勝算もなしに、そんな中途半端な器官をどうして「後生大事」に「完成」まで維持していたのだろう。
やはり「無限の時間の闇」に逃げ込むのか…。将来、「中間型の化石」は必ず見付かるとか、「DNAの中に痕跡が見付かる(DNA化石!)」と盲信するなら、進化論もインテリジェント・デザインといい勝負だ。」

 精神と体の関係はプラセーボはじめ未踏峰。ダーウィンが進化論を志向したのは最愛の長女の死だった。彼は必死に祈ったが答えは死、人の死は神も罪も無関係。自然現象であるという事が彼の慰めだった。そこが出発点。人間は寂しさに耐えるのが難しい。塩基が転写能力を得てタンパク質を合成するには、偶然がなせる技とすると宇宙的な時間がかかる。30億年で出来るならば、竜巻に吹き上げられたゴミからジェット機が組み立てられるくらいの偶然が必要な無理な話。二重螺旋構造発見者クリックは宇宙から飛んできたとしか考えられないと言っている。

2.進化論は科学か

 犯人を有罪にするには、本人の自白、有力な証拠、目撃証言となるだろう。進化の場合は自白に相当するのが再現性、証拠は化石、目撃証言は種の器官の相同性と系統樹だろう。進化において再現性は無理である。重要な部分は化石だ。目撃証言としてはこじつけの感じもあってこの部分は不完全だ。ドーキンスの論により説明が出来ない5つの謎、核酸メカニズムにおける進化の契機、発生の初期における突然変異条件と作用、分類におけるミッシングリンクと系統樹における進化の順序、人間の意識や理性といった思考の進化が何故生まれたのか、創造論の本質や神話性に関するドーキンスの考え。最後は全て「事実上無限に与えられた時間の闇」に逃げ込もうとする。全てが状況証拠であり、再現性に限界がある一つの「仮説」に過ぎない。創造論者はまさにここを突いて、進化論を批判し、すべてをぶちこわす策に出る。進化論は厳密な意味では「サイエンス」ではないとする見解にドーキンスはその科学性を主張する。この本では、探偵の証拠集めのような形で進化を説明しようとしている。しかし、その結果に関してはダーウィンの自然淘汰説にこだわっている。しかし、創造論者に比べるとフェアな方法だ。ドーキンスはダーウィンの進化論が、神の計画とは無縁である事を主張する。進化が神のインテリジェントデザインである事を否定するのである。全ての自然現象には目的は無い。ここの法則性の結果であり、それによって絶えず変化し、進化する。

3.創造論、宗教との戦い

 アダムとイブにおへそがあったのか。もし神が自分の姿に似せて人間を創造したなら、神にもヘソがあるという事か?ということは神にはその母がいたということではないか。その母は誰なんでしょう?逆にヘソが無い男女から遺伝的にヘソのある子供が出来るのか?といった疑問は誰でも持つだろう。そんな事を何千年もの間気がつかなかった筈は無い。ということは、創世記の物語は、神話として、何かを意味するメタファである事が分かる。ノアの箱船に有袋類がいたかを論じるのは時間の無駄だ。創造論者が歴史的事実として科学を批判するのはいかがなものだろうか。逆も然りである。しかし、アメリカの福音派、イスラム原理主義者はそれを行っている。ドーキンスもムキになって進化を証明しようとする。進化という現実を否定することはできない。しかし、アメリカ人の75%は生物の進化を認めようとしない。40%が人類は4万年前今の生態系として創造されたと考えている。人間と恐竜が一緒に暮らすジオラマを展示した博物館があるくらいだ。今日ヨーロッパにおいてはムスリムの人口が増え、その中で原理主義者は生物の進化を否定している。日本はその点では極めて進化論に理解のある国民である。ドーキンスの論点は、進化が現実であり、生物の進化を否定することは、地球が丸い事、あるいは、公転することを否定しているようなことだとしている。聖書の天地創造の物語を丸呑みしようという勢力はアメリカ合衆国に多い。

 世界は全て物流法則で説明出来るはずで、自然は「平衡」とか宇宙の法則とエントロピーで調和しているとする。福岡伸一(生物と無生物の間)とか現代の科学者の考え方だろう。ダーウィンの進化論では自然界の基本変異は一つずつゆっくりと起きる。自然全てが品種改良に似た経路で発達進化すると、分かっている範囲の知識をもとに拡大解釈してして自然法則を創造する。ところが区切り平衡説…基本変異は突然起きるとすることが主流。遺伝子工学などはそうした考え方えだ。生命を情報の集積として工学的に処理し、神秘性を排除するのに対し構造主義は人間が認識不能な世界を包含して、そこに生まれる理性や社会を対象とする。熱力学第1法則第2法則では環境を守れない。理性というのが平衡感覚でしがないなら愛とかモラル、生命の尊重はどこに行くか、構造主義はこのあたりを説明している。
 しかし、生命は人間が自ら作り上げたというより、親から賜ったものであり、また、神から授かったもという考えかたで世界は調和するのではないか。いただいた命は後世に伝える。自然は自分のものではないから大切に扱う、これではだめなのか。

4.ドーキンスの狙い

 しかし、いくらドーキンスが進化を証明しようとしても、人間が神によって創造され、生態系を神の計画の賜物として守る事を否定するつもりはない。人間の先祖は断じてモンキーではない。ましてや線虫やワムシ、でも無い。ドーキンス読んでも小生の考えは変わらない。お前の先祖は人殺しだ!とアベルとカインの物語が伝えるのを信じるかどうかが原点として論じるなら分かる。生物学のために小生生きてる訳じゃない。サンタクロースを信じる子供に真実を一生懸命伝えようとしている愚も感じるが、進化論の場合深刻なのは、反対者が、宗教的原理主義で、ムスリムの場合、全くの非科学的集団のくせに、それが故か、核兵器をテロの手段に使う危険性がある。サンタを信じる事を強制したり、反サンタの国に爆弾を仕掛けたりするならば事は深刻だ。さらに、福音派の連中は、終末論を現実として信じ、イスラエルを常に正当化し、ハルマゲドンを期待している節がある。このことがまさに、ドーキンスが危惧する事である。

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by katoujun2549 | 2010-01-08 23:03 | 書評 | Comments(1)
Commented at 2010-05-16 10:04 x
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