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アップ・ライジング

1.歴史的背景と映画

 2時間40分の大作で長いなあ!という感じだが、秀作。ドナルドサザーランドとかジョンボイトなど俳優陣も充実している。前半のゲットー内部でのユダヤ人協議会議長(ドナルドサザーランド)の苦悩と武装蜂起派の成長などの経緯がまどろっこしい。しかし、ゲットーの解体が始まると抵抗運動が活発化する。コルチャック先生等も登場する。ワルシャワ・ゲットーにおけるユダヤ人達はトレブリンカに送られていった。ポーランドには大戦前300万人のユダヤ人がいた。そのうち38万人が1940年からワルシャワのゲットに押し込められた。最終的には絶滅収容所に送られたが、1941年に第一陣6000人が送られた後、抵抗組織が蜂起した。その時の模様が描かれた作品である。ドイツではこの事件は圧倒的なドイツ軍の制圧で終わったようになっている。確かに完全に鎮圧され、公表上はドイツ軍の死者は18人、戦傷者も100人以下であるが、実際には100日以上も戦われ、ドイツ軍は毎日2000人もの軍隊を投入し、1,300人以上の死傷者を出した凄惨な戦いであった。この蜂起でシュトロープの記録では約13000人が射殺または焼死。残りは絶滅収容所に送られる。合計で56,065人が殺害され、もしくは捕虜となり死亡した。映画では指導者の一人モルデハイを軸に多くの若者群像が描かれる。この蜂起で100人程の生き残りがいた事は驚きであった。これはポーランド側のレジスタンス組織の支援もあったからなし得た事であったが、当時のドイツ軍はまだ東部戦線に消耗していたとはいえ、軍事組織として健在であったから、武器も食料も乏しいゲットー住民には到底戦い続けられるものではなかった。映画ではポーランド側の非協力ぶりが描かれるが、ポーランド人の中にはゲットーに入り込んで共に戦った人もいたのである。だからこそ地下水道を伝って脱出できた人もいた。この蜂起が後のポーランド人によるワルシャワ蜂起につながったとは言えないが、ゲットー蜂起の生残りにもまた、参加した人がいた。このあたりはポーランドの研究課題らしい。
 
2.イスラエルの評価
 
 この抵抗に関し、現在のイスラエルでは極めて高い評価が与えられており、第3次中東戦争までは膨大な死者を出した強制収容所よりは大きく喧伝されていた。ワルシャワ・ゲットー蜂起の生き残りであり、指揮官であったイツハク・ツケルマン(Yitzhak Zuckerman、ŻOB の指揮官代理)とその妻のジヴィア・ルーベトキン(Zivia Lubetkin)を含めた「ゲットーの闘士」は、生き残り、イスラエルにおける Lohamey ha-Geta'ot と呼ばれるキブツ(ゲットーの闘士のキブツの意)に移り住んだ。1984年にキブツのメンバーは、"Dappeo Edut"(「生存者の証言」、ツビィカ・ドロールが面談を行い編集した)を出版した。これは、キブツの96人のメンバーから証言を取り4冊構成である。アッコの北にあるキブツには、ホロコーストの記録を収めたアーカイブと博物館が存在する。ガザ地区の北にあるヤド・モルデハイ(Yad Mordechai)は映画の中で描かれる指揮官モルデハイ・アニエレヴィッツの名前から名づけられたという。
 シンドラーのリストや戦場のピアニストのように、映画がユダヤ人の強制収容所のリアルな姿で描かれるようになったのはこの10年のことで、イスラエル側はむしろ沈黙していた。もの言わぬ羊のごとく絶滅収容所に向かうユダヤ人は無抵抗の結果で、何も生み出さなかった。600万人ものユダヤ人が無為に亡くなったことはむしろ軍事国家としては国民を鼓舞しないからだ。無抵抗である事が敵の残虐性を増すというのが彼らの教訓になった。これを繰り返さない事が国是であるイスラエルは軍事大国としての体制を強めていく。イスラエルがアイヒマン裁判を始めた頃からヒトラーの絶滅収容所が世界に訴えられ、当時から大量殺戮は無かったという反論もでていたくらいだ。もちろん、夜と霧とか、パサジェルカ、愛の嵐(Nightporter)、TVドラマのホローコースト、ソフィーの選択といった作品もあったが、いずれもフランス映画やハリウッド映画であり、イスラエルの作品は無い。描いたのはハリウッドの在米ユダヤ人監督や俳優達であった。

3.映画の背政治的背景

 この映画はアメリカで2001年に制作されており、フランスポーランドドイツ合作の戦場のピアニストなどの他のホロコーストものと同時期であった。こうした映画の制作は、在米ユダヤ人のイスラエルに対する何らかの動きと気脈を通じるものであり、イラクなどアラブの大義がイラク等によって世界に声高に叫ばれたことへ対抗する時機に作られており、極めて政治的なユダヤ人の戦略が背景にある事を感じざるを得ない。当時のイスラエルは第二次インティファーダを経てシャロン政権へ移行するときであり、イスラエルがオスロ合意やキャンプデービッド協議を吹き飛ばし、パレスチナ難民に戦勝者として高圧的に振る舞い始めた。まさのその直後9・11が発生した。日本と違い、彼らに取っての映画とは政治的主張の一つなのである。

by katoujun2549 | 2009-09-23 01:59 | 映画 | Comments(0)