戦没者の記録

戦中の記を読んでー太平洋戦争に関する意見
 一橋剣道部員戦中の記は貴重な記録である。驚くほど克明に、60年以上前の出来事が甦ってくる。当時の軍隊での状況や、そこにおける若き剣友会員の姿が甦ってくる。また、その記憶力にも驚かされるのである。我が国は、その過酷な戦争を経た割には、体験者からみた戦争記録が貧弱であるが、この手記は数少ない記録の一つとなった。戦争に関する我が国の情報はタブーが多すぎる。
 映画や著作に於いても他国より少ない。文学においては石川淳の「麦と兵隊」、大岡昇平の「野火」「レイテ戦記」、五味川純平の「人間の条件」、山崎豊子「大地の子」など多くの名作もある。今日どこまで読まれているだろうか。特攻隊で戦没した学徒兵の「聞けわだつみの声」沖縄戦の女子学生記録「ひめゆりの塔」などの名作があり映画化もされたが、若い世代からは忘れられつつある。近年、邦画では硫黄島からの手紙、男たちの大和、潜航艇特攻のドラマがあるが、戦争が天災のように描かれたり、被害者意識過剰な駄作が多いと思う。今の教科書問題をはじめ、教材が不足している。
 海外ではデビッドリーン「戦場に架ける橋」、ルネクレマンの「禁じられた遊び」、スピルバーグの「シンドラーのリスト」、アンジェイワイダの「地下水道」、タルコフスキー「僕の村は戦場だった」と名作がひしめく中、邦画作品は秀作が少ない。その理由を考えると、今日なお東京裁判や靖国問題にみられるごとく、戦争に関する国家としての評価が曖昧な結果であると思わざるを得ない。
 太平洋戦争は政治的に見ると大東亜戦争という方が正確であり、アジアにおける欧米勢力との植民地争奪戦と民族の自立を争う戦争としてとらえたい。アジア諸国は戦後日本の欧米との戦いに便乗する形でビルマ、インドネシアは独立を果たした。しかし、日本軍の稚拙な占領政策と戦火のため我が国の貢献とはならなかった。日米開戦以降の戦局は国家を乗っ取った軍部—軍閥の独走や事実誤認の積み重ねによる膨大な業務上過失と不法行為によって敗北した。ナチスとの同盟、戦争遂行能力の読み違い、国民に対する情報操作、台湾沖航空戦の失敗隠蔽などの軍部内部の情報操作、補給に関する軍事常識や、国際法の無視などその例は無数である。
 多くの戦争指導者がA,B級先戦犯として裁かれた。ところが、無謀な作戦で失敗したインパール作戦の責任者、牟田口中将や軍閥の代表だった辻正信は裁かれず、戦後国会議員にまでなった。残虐行為の人体実験で有名な石井部隊はその資料提供を条件に裁かれず、彼らの作ったミドリ十字という会社が血液製剤事件で薬害を起こしたことは記憶に新しい。本当の戦争責任も犯罪も欧米の価値観によって裁かれたにすぎない。しかし、我が国の場合はヨーロッパの民主主義とファシズムの生き残りをかけた争いとは性格が異なるのだが、ナチスと同盟したために同一の価値判断をされてしまった。従って戦争責任と戦争犯罪を戦勝者側が勝手に裁いた東京裁判は全くの茶番であった。東京裁判は連合国の都合の良い、共同謀議論によって組み立てられ、真相がゆがめられたまま、さらに東西冷戦によってその解釈が曖昧になってしまった。我が国は米国の属国として東西冷戦の盾として産業復興を最優先し、国民の福祉に立った再建は高度成長期を経なければならず、そのために都市問題や教育、官僚制度に多くの課題を残した。今なお多くの戦没者の遺骨が戦地や海中にあり、皇室の慰霊も沖縄、サイパンで、フィリピン、ビルマ、中国、ニューギニアなどは行われていない。
ビルマ戦線の概略
 (1)第二次世界大戦におけるビルマ戦線
 中国戦線において日本軍にとって中国への物資補給が、蒋介石中国軍の抵抗力となっていると日本軍は考えていた。実際、物資はビルマのラングンーンから山岳地域に二車線の援蒋ルートとしてビルマ公路を通じ1ヶ月1万5千トン、1tトラック1500台分の軍需物資が昆明に運ばれていた。中国イギリス領ビルマとその周辺地域をめぐって、日本軍・ビルマ国民軍・インド国民軍と、イギリス軍・アメリカ軍・中国国民党軍とが戦った。戦いは1941年の開戦直後から始まり、1945年の終戦直前まで続いた。陸軍は謀略組織「南機関」により、30人の独立運動指導者を海南島で指揮官としての軍事訓練を行った。彼らがその後、ビルマ独立義勇隊を編成し、モールメインで臨時政府を樹立しようとしたが、タイから急進してきた日本軍政に吸収され、彼らの夢は1945年まで持ち越された。その指導者は、アウンサン(スーチーさんの父)、ネ・ウイン等である。日本軍がビルマへの進攻を短期間に行えたのは2万5千人の部隊となった彼らの補給、情報によるところが大きい。英印軍兵力3万と米軍のスティルウェル中将指揮の中国軍10万との戦いであった。ビルマの戦いでの中国軍の損害について正確な資料はないが、編成時3,000名を擁していたアメリカ軍ガラハッド部隊は、ミイトキーナの戦いまでの間に戦死・負傷・戦病を含め8割の損害を被った。日本軍のラングーン占領に対応し、インドのアッサムを基点としてビルマ北部からフーコン谷地、ミートキーナから昆明にいたるレド公路が建設され、この攻防は大きな犠牲を双方が払っているが、その実態は我が国ではあまり語られない。日本軍もビルマの戦力を増強していた。それまでの第15軍の4個師団体勢では戦力不足であるため、1943年3月27日、河辺正三大将を方面軍司令官として「ビルマ方面軍」を創設し、その下に第15軍(軍司令官:牟田口廉也中将)を置いた。さらに1944年1月15日ビルマ南部担当の第28軍(軍司令官:桜井省三中将)を、4月8日ビルマ北部担当の第33軍を編成し、戦力は最大時で10個師団・3個旅団・1個飛行師団を数えるまでとなった。第15軍司令官牟田口中将は、連合軍の機先を制すべくインパール方面で攻勢をとり、その間アキャブ、フーコン、雲南方面では最小限の兵力で持久するという戦略を主張した。1943年10月30日、中国軍新編第1軍がフーコン河谷ニンビンの日本軍陣地を攻撃した。スティルウェルの構想する「レド公路」打通作戦の第一歩だった。連合軍の本格的反攻が開始されたのである。連合軍はフーコン戦線で反攻を開始した。日本軍はインパール作戦によりその機先を制しようとしたが、作戦は惨憺たる失敗に終わり、ビルマ方面軍の戦力は決定的に低下した。雲南では中国軍が怒江を越え、拉孟と騰越の日本軍守備隊は包囲され玉砕した。米中連合軍はレド公路打通を達成した。フーコン河谷は、ミイトキーナに近いモウガンからインド国境に達する、東西30キロから70キロ、南北200キロの大ジャングル地帯である。米中連合軍がフーコンへ進攻したとき、ビルマ方面軍はインパール作戦の準備に追われていた。フーコンを守備する第18師団に対しては、インパール作戦の勝利のときまで持久する命令が下された。
 1944年米中連合軍が北部ビルマ、ミートキーナを攻撃、中部ビルマには英軍空挺部隊が中部ビルマに9000名の部隊で侵攻した中で、インパール作戦は実行された。第31師団は4月にコヒマに侵攻し、インパールの北45キロまで進出したが、軍事の基本である補給を無視した為、自滅し、5万から6万5千人を失ったと言われている。アメリカは緒戦の勝利によって援蒋ルートを回復し、中国を連合国につなぎとめることに成功した。しかし米中連合軍がレド公路打通を達成したとき、スティルウェルは1944年10月19日、蒋介石によって中国軍における役職を剥奪され、ワシントンへ召還されていた。スティルウェルがルーズベルトを介し、中国軍全体の抜本改革を任せるよう要求したことに対して、蒋介石が反発したことが原因だった。彼の計画が完全に実施されていたら、中国国民党軍が中国共産党軍に敗れることもなかったかもしれない。蒋介石政府へのアメリカの巨額の軍事援助は水泡に帰し、アメリカは中国大陸を制圧した共産主義政権と、朝鮮戦争、ベトナム戦争を戦うことになるのである。

(2)1945年のビルマ戦線の状況—1945年4月から5月のビルマ戦線

 イラワジ会戦で日本軍を粉砕したイギリス軍は雨季の到来前にラングーンを奪回すべく、イラワジ川沿いとシッタン川沿いを南下した。日本軍は第28軍にイラワジ川沿い、第33軍にシッタン川沿いでの防戦を命じたが、防衛線は相次いで突破され、イギリス第4軍団の先頭は4月25日にラングーン北方のペグー(現在のバゴー)まで到達した。4月23日、ビルマ方面軍司令官木村兵太郎大将は、ビルマ政府や日本人居留民に対する処置も明らかにしないまま、ラングーンを放棄し東方のモールメンへ脱出した。大混乱の中、英軍は5月2日にラングーンを奪回した。モールメン爆撃はそうした中で行われた。イラワジ川下流部でイギリス第33軍団と戦っていた第28軍は、英軍のラングーンへの急進撃により、退路を絶たれペグー山系に追い詰められていた。ペグー山系はイラワジ川とシッタン川とに挟まれた標高500メートル内外の丘陵地帯で、竹林に覆われている。雨季が到来し、第28軍の食糧の手持ちは7月末が限界となっていた。将兵は竹の小屋で雨をしのぎ、筍粥で飢えをしのいだが、食塩の欠乏症に苦しんだ。食塩が欠乏すると、筋力が低下し、しまいには立っていられなくなるのである。7月、雨季は最盛期に入り、河川は氾濫し、平地は沼地に変わった。ようやく兵力の集結を終えた第28軍は敵中突破作戦を計画した。闇にまぎれてペグー山系を脱出し、広大な冠水地帯を横断し、増水したシッタン川を竹の筏で渡るのである。シッタン川を防御していた第33軍は川を越えて第7インド師団へ牽制攻撃をかけた。戦いは胸の高さまで達するような泥水の中で行われた。第28軍は十数個の突破縦隊に分かれて一斉にシッタン川を目指した。将兵は筏に身を託して濁流へ身を投じた。体力の衰えていた者は濁流を乗り切ることができず、水勢に呑まれて流されていった。第28軍は34,000名をもってペグー山系に入ったが、シッタン川を突破できた者は15,000名に過ぎなかった。こうして第28軍が敵中突破を大きな犠牲を払いつつ成功させた頃、8月15日の終戦が訪れた。1945年9月 日本軍は降伏し武装解除を受けた戦争はビルマの経済に大きな被害を与えた。鉄道は機関車の85パーセントを欠損し、ラングーンの港湾施設は破壊された。農地は放置されて荒廃した。コンバウン王朝の旧王宮のあったマンダレーや瀟洒な文化都市メイクテーラは激戦地となって破壊しつくされ、貴重な歴史遺産は失われた。日本は敗戦によりアジアにおける全ての領土的権益を喪失した。ビルマ方面作戦に参加した303,501名の日本軍将兵のうち、6割以上にあたる185,149名が戦没し、帰還者は118,352名のみであった。
3.戦後のビルマと日本
 1954年11月5日に「日本とビルマ連邦との間の平和条約」と賠償および経済協力協定を締結し、翌年4月の発効により正式に国交関係を確立した。東南アジアにおいて敗戦国日本は困難な立場にあったが、ビルマの親日は有り難い事であった。日本は2億ドル(720億円)の戦争賠償と5,000万ドル(180億円)の経済協力をビルマへ供与した。だが戦争後、主要国でビルマと最も友好的な関係を維持したのは、日本だった。ネ・ウィンをはじめとするBIA出身のビルマ要人は日本への親しみを持ち続け、クーデターによって大統領となったネ・ウィンは訪日のたびに南機関の元関係者と旧交を温めた。物資不足と飢えに悩む日本に非公式ルートを通じ、大量のビルマ米を日本に送ってくれた事を忘れてはならない。これは南機関の遺産とも言えよう。一方、ビルマの民主化においてはこうした日本の援助が軍事政権の寿命を延ばし、今日の人権抑圧的な政権を持続させたことが批判されてい
る。

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by katoujun2549 | 2009-09-11 12:05 | 国際政治 | Comments(0)