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 日本人に馴染みの薄い概念が終末という世界観だ。そもそも、仏教的世界では気の遠くなるような悠久の時間の中で、生命は輪廻転生するから、終末という感覚が無い。キリスト教は歴史的事実として展開する出来事に対する信仰である。一方、仏教はイマジネーションの世界である。膨大な経典という情報が迷路のように我々を導く。聖書は新約旧約の1冊である。コッポラの地獄の黙示録という映画があったが、これは変な題で、黙示録は地獄とは必ずしも結びつかない。聖書ではヨハネ黙示録と旧約のダニエル記が黙示文学である。黙示はギリシャ語で「覆いを取り去る」「隠されていたものが明らかにされる」つまりは啓示を意味している。あの映画の原題はApocalypse Now である。今起きている狂気と絶望といった感じだろうか。終末においては地獄も天国もぶっ飛ぶ。クリスチャンにとっては天国のイメージにもなる。

 キリスト教の世界観には終末という概念が重要である。人間はいつかは死ぬ。世界もいつかは終わるのです。それが、いつになるのかは分らないが、明日かもしれない。英語で現在完了とか、過去完了など時間の経過に厳密なのはそのあたりの影響もあると思う。日本語は、過去、未来の時制も時々曖昧だ。何でも現在形で通用する。自分の命も、他人も世界も、どこかで終わるのである。国家も、家族も、友人もいずれ終末を迎える。聖書はイエスによる最後の時の預言に満ちている。イエスは十字架の道を歩んだが、終末は復活によって克服される。絶対に復活という世界が必要である。これが無ければ永遠に死の勝利が我々を待っていることになる。イエス様は死に勝利することを宣言した。しかし,同時に地獄の存在も明らかにしている。西欧文明の価値観というのは、この終末という「時」を抜きには語れない。

 天国がどんな所かを説明した部分は少なく、天なる神の右に座すとか、霊の世界としての死後の世界は説明している。霊の世界では死者は時間を超越し、終末に導かれる。だから、天国というより、終末に展開する世界と、イエスキリストと共に過ごす千年王国が中心である。この中で最も具体的なのが「ヨハネ黙示録」である。世界の最後についてのヨハネのイメージが語られている。ヨハネ黙示録は22章からなり、神の姿とキリストの再臨についてヨハネが霊感をもって語った。何とも不思議な世界が展開されている。まるで交響詩とか、長大な絵巻物の世界である。このヨハネが見た世界は、あくまでも、2,000年前の世界におけるイメージであり、そのままの事が起きる訳ではないだろう。しかし、そうした世界の終末は誰もがいつかは体験することである。自分の終末がどのようなものであるかを思い描く事は信仰的な領域である。
 
 ヨハネはパトモス島という今のトルコ沿岸の地中海の島に捕らわれ、そこでみた夢をもとに黙示録を書いた。このイエスの再臨こそキリスト教の目指す世界の終末である。ヨハネ黙示録22章6節でキリストの再臨が語られる。恐らく、ヨハネという人は捕囚の身となる前から、イエスの再臨とか、黙示録の夢想的な内容を世に説いて、ローマから睨まれ、この島に送られたのであろう。そこで彼は、これまでの霊感で見た世界を手紙にまとめ、これをエフェソス、ラオデキア、スミルナ、ティアテイラ、ペルガモン、サルデス、フィラデルフィアの7つの教会に送ったとある。その手紙の後、天国の礼拝が、ラッパとともに始まる。バロック音楽のラッパの響きはこのイメージからくるのだろう。そして、様々な怪物達、虹や星、光り輝く宇宙の世界などが万華鏡の用に展開する。そして、七つの封印をした巻物を開く。ラッパの響き、そして天使達と合唱。竜や奇怪な獣が象徴的に表れる。戦いを象徴する赤い馬、死を乗せた青白い馬、最後に19章で白い馬が現れる。イナゴの大群、さそり、天災地変など当時の人々の恐怖の世界が描かれる。20章で描かれる1000年にわたるキリストと主に統治される王国のこと。いわゆる千年王国というのはここからきており、ナチスや共産党の世界観もこれと関係している。一体何を象徴しているのか全く分らない謎解きのような文章が連綿と続くのである。これはヨハネがローマ帝国の迫害を避ける為に、暗号のように使っていた言葉も含まれている。第17章に出て来る大淫婦というのはローマ帝国のことである。二億の騎兵、軍隊、そしてバビロンの崩壊が描かれる。そして子羊の婚宴、夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配する。最後の審判とサタンの敗北、そして最後の21章へと息をつかせず、大交響楽がフナーレにむかう。
 彼はまた、わたしに言った、「これらの言葉は信ずべきであり、まことである。預言者たちのたましいのか神なる主は、すぐにも起こるべきことをその僕たちに示そうとして、御使をつかわされたのである。見よ、わたしは、すぐに来る。この書の預言の言葉を守るものは、さいわいである」。これらのことを見聞きした者は、このヨハネである。わたしが見聞きした時、それらのことを示してくれた御使の足もとにひれ伏して拝そうとすると、彼は言った、「そのようなことをしてはいけない。わたしは、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書の言葉を守る者たちと、同じ仲間である。ただ神だけを拝しなさい」。

 またわたしに言った、「この書の預言の言葉を封じてはならない。時が近づいているからである。
 不義な者はさらに不義を行い、汚れた者はさらに汚れたことを行い、義なる者はさらに義を行い、聖なる者はさらに聖なることを行うままにさせよ」。
 「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終わりである。
 聖書はこの章で終わる。
太平洋戦争最後の証言 大和沈没篇 門田隆将 

 この大和篇は戦艦大和の体験者の証言である。「大艦巨砲」主義の象徴、要するに役に立たない無用の長物ということである。しかし、3,000人を超える兵士がこの船に乗り、日本の未来を守る為に出撃した。生き残りは280人程、航空支援もない中、無謀な特攻だと批判することは簡単だ。しかし、そこで死と直面した人々にそんな説教は無意味である。
 今、第二次大戦を生き抜いた人々は急激に少なくなっている。零戦、特攻、玉砕といった修羅場の生き残りが証言出来る時間は僅かである。彼等は多くの友を戦場に残して生き残り、戦後必死に仕事や家族、社会の為に格闘して来た人々である。感謝の気持をもって門田氏は筆を運んでいることが分る。この試みは、太平洋戦争を戦ったアメリカからみた証言、さらには、戦場になった土地の人々へと展開することが出来ないだろうか。

 戦艦大和のプラモデルを中学生の時に作ったことがあった。現代の兵器として見事なまでに完成された姿に魅了されたものである。大和が沖縄の海に海中に眠っている姿は、かつて、潜水調査で撮影されている。あの力強い姿は、今の日本人の心おも揺さぶる力がある。戦艦というのはその国の象徴でもある。宇宙戦艦ヤマトという漫画もあったが、やはり日本人にとって大和は永遠である。

 沖縄特攻に参加した人ばかりではなく、最初に建造したときからの体験をまとめている。現在の海底の大和から遺物を引き上げた時、出てきた茶碗などの仲間の生の痕跡を見て生き残りの方々は絶句した。この部分が印象的であった。圧巻はやはり最後の姿、大和と運命を共にした時の多くの兵士の姿である。
# by katoujun2549 | 2012-05-05 09:40 | 書評 | Trackback | Comments(0)
太平洋戦争最後の証言(1) 大和沈没篇 門田隆将 

この大和篇は「戦艦大和」の体験者の証言である。3,000人を超える兵士がこの船に乗り、日本の未来を守る為に出撃した。航空支援もない中、無謀な特攻だと批判することは簡単だ。しかし、そこで死と直面した人々にそんな説教は無意味である。
 今、第二次大戦を生き抜いた人々は急激に少なくなっている。零戦、特攻、玉砕といった修羅場の生き残りが証言出来る時間は僅かである。彼等は多くの友を戦場に残して生き残り、戦後必死に仕事や家族、社会の為に格闘して来た人々である。感謝の気持をもって門田氏は筆を運んでいることが分る。この試みは、太平洋戦争を戦ったアメリカからみた証言、さらには、戦場になった土地の人々へと展開することが出来ないだろうか。

戦艦大和のプラモデルを中学生の時に作ったことがあった。現代の兵器として見事なまでに完成された姿に魅了されたものである。大和が沖縄の海に海中に眠っている姿は、かつて、潜水調査で撮影されている。あの力強い姿は、今の日本人の心おも揺さぶる力がある。戦艦というのはその国の象徴でもある。宇宙戦艦ヤマトという漫画もあったが、やはり日本人にとって大和は永遠である。

 沖縄特攻に参加した人ばかりではなく、最初に建造したときからの体験をまとめている。現在の海底の大和から遺物を引き上げた時、出てきた茶碗などの仲間の生の痕跡を見て生き残りの方々は絶句した。この部分が印象的であった。圧巻はやはり最後の姿、大和と運命を共にした時の多くの兵士の姿である。
# by katoujun2549 | 2012-05-05 09:38 | Trackback | Comments(0)
 5月17日から1週間アメリカ合衆国アイオワ州のオレンジ市に出張することになった。敬和学園大学の姉妹校であるノースウエスタンカレッジとの交流が目的である。カリフォルニア州にもオレンジ郡というのがあり、これはいかにもカリフォルニアということで果物のオレンジから名前がついたことが推定出来る。何でアイオワにオレンジなのか、始めはピンと来なかった。とにかくトウモロコシと豆ばかりの土地である。調べてみると、オランダ人が開拓した土地かどうかは分らないが、最初はHolland そして、オレンジ公の名前を取ってオレンジ市とした事が分った。オランダ村のようにオランダをテーマに町おこしをしているようなのだ。オランダの町のような外見の建物が街路に並び、チューリップが名物で5月にはチューリップ祭りがある。実はオーストラリアのニューサウスウェールズ州にも同じ、オレンジ市というのがあり、アイオワのオレンジ市より大きな町だが、これもオレンジ公から名前を頂いている。ここは牛久市と姉妹都市となっていて、現在スーダンから人道的難民受け入れを行なっている。
 


 南アフリカにオレンジ自由国というのがあった。1854年にブール人(アフリカーナー)が建国、第二次ブール戦争後の1902年イギリスの植民地になった。国名の「オレンジ(オラニエ)」は、南部国境を形成するオレンジ川にちなんだもの。そのオレンジ川という呼称は、オランダ王家のオラニエ=ナッサウ家に由来する。オランダ語でOranije-Vrijstaatである。英語ではOrange Free State(英語)

 このオレンジというのはオランダ人が大好きな名前である。アメリカには、かつてオランダも植民地を多く持っていた。例えば今のニューヨークはニューアムステルダムといいオランダ植民地であった。
 1624年、ニュー・アムステルダムのオランダ提督"ピーター・ミニュット"は、インディアンからマンハッタン島を$24相当のビー玉や、短剣、布切れと交換して買い取った。
インディアンはあまり土地に執着していなかった。その後、イギリスはオランダとの覇権争いに勝ち、1664年、ニューアムステルダムはイギリスの植民地となった。イギリスの国王は、北米経営に不熱心で、弟のヨーク公にここを譲り、ニューヨークとなった。当時はオランダ人が多かったが、彼等は次第に西へと追いやられる。ニューヨークはイギリス人 ユダヤ人やアイルランド人、イタリア人などが勢力を増し、ドイツ人も西に追われて行く。
 
 アイオワという名前はスーインデアンの言葉、眠たがりという意味だそうだ。日本人にはアイオワ型戦艦の方が馴染みがあるだろう。アイオワ型戦艦はアメリカ最後の戦艦である。


 アイオワ州の主要な農業生産品は豚、トウモロコシ、大豆、カラスムギ、牛及び酪農製品である。ここの産業生産品は食材加工、機械、電気設備、化学製品、出版及び一次金属である。アイオワ州はアメリカ合衆国最大のエタノール生産地。穀物を転換して燃料にしている。人口が多い州ではないにも関わらず、大統領選挙で最も重要な州と捉えられており、候補者が最初に演説する地としても知られている。何故かというと、どうも、予備選挙は2008年もアイオワ州から開始され、最初に結果が出るアイオワ州党員集会やニューハンプシャー州の予備選挙で勝つことにより、候補者は大きな注目を集めることとなる。その後の争いを有利に展開することが出来、6月の「メガ・チューズデー」までに両党の候補者が実質的に決定するという流れなのだそうだ。ただそれだけの理由で、このとき以外は殆ど注目されない州なのだ。
# by katoujun2549 | 2012-05-04 21:45 | Trackback | Comments(0)
 領土問題の解決は難しい外交課題だ。戦争の危険すらある。尖閣諸島は中国が主権を主張するようになった。これは領土というより、資源問題である。中国のアニマルのような資源獲得への野望は、かつての帝国主義を思わせる横暴なものである。尖閣諸島は実は台湾が領土として主張している島々で、この台湾が自分の国だといって憚らない中国が、その資源を狙って領有権を主張している。このような強欲な動機のある領土問題は断固とした対応が必要だが、その反面、戦争を誘道するような問題でもある。北方領土も豊かな天然資源がからんでおり、日本が100要求を通すには軍事的解決しかないだろう。そんなことは出来る訳はないから、国際世論に訴えるとか、外交交渉、経済的交流によってしか解決の道は無い。100%要求を通すという交渉はあり得ない。

 北方領土のように、実際にロシア人が多数既に戦後60年以上も居住している場合、これを退去させることはロシア側においても国家の威信にかかわることでもあり、絶対に譲歩しない。主張はしなければならないが、交渉は現実を見ながら、足して二で割る以外にはない。それにしても、歯舞色丹だけではそうならない不平等な結果であり、あくまでも4島返還を要求する権利を日本は放棄してはならない。

 尖閣諸島は中国台湾では魚釣島である。韓国とは竹島、ロシアとは北方領土という問題が控えている。こうした問題を抱えているにも拘らず、日本は腰の引けた外交を続けている。今回石原慎太郎都知事は国の対応を迫る形で都の購入を主張、そして既に7千万円以上の寄付申し出があるという。何という世の中だろうか。東京都という一行政が行なう事でもないのに、願望だけが先走っている。これをおかしいと思わないのか。あの橋下大阪市長といい、本来の実績や能力を検証することもせずに強いリーダーシップを求める国民の願望は恐ろしく危険な感じがする。あの二人にどんな行政手腕があったのだろうか。何も橋下市長や石原慎太郎が独裁者になることはないだろう。そんな人物ではないから恐れる必要は無い。ヒトラーは、本当は、ただの小心者だが、あのドイツという国が、モンスターを育て上げたのである。いつか日本にもモンスターが育っていくことを予測させるようなマスコミや、言論界の悪のりが怖い。ファシズムというのは領土問題、労働問題、政治、文化など重層的に進化したものだ。悪化する既成の体制に対し何か新しい者を求める国民に、夢のような目標を見せ、パレード、ファッションなども組み込んで行く。

 領土問題に関して難易度が高まるレベルには段階がある。戦争による占領、住民が居住するなどの実効支配、軍隊の駐留などである。日本は歴史的経緯だけをもとに相手の政府に対して外交ルートで訴えるだけである。中国や韓国は、それらの領有についてデモや国民運動、教育などで強力な自己主張を続けているにも拘らずである。その反動として、石原などの右翼が保守という名の下で舞い上がっている。モンスターが生まれるのはこれからだ。今は、その寝床が用意されているにすぎない。今回東京都
が何故あれほどまでに熱心に土地購入の意欲を示しているのか分らない。そもそも、島は既に個人所有で国も賃借しており、何か施設を作ろうと思えば可能だ。所有権が移転して何が起きるのか。数十億の都民の税金が使われる意味が分らない。中国との関係で嫌がらせをしているにすぎない。国民感情を掻き立てて、やれ憲法改正だとか、国民を戦争に駆り立てる準備のようにも見える。ここは騙されないようにすべきだ。憲法改正の声も産経新聞を中心に出て来ている。これに便乗しようという知識人、学者も出るだろう。今のところ、大した学者もいないし、論拠もそれほどの理論的説得力もない。しかし、、これが国民感情を沸き立たせないという保証はない。

(WIkipediaによると)
 現地調査の結果、いずれの国の支配下にもないと確認した日本政府は、1895年(明治28年)に尖閣諸島を日本の領土に編入することを閣議決定。同年、尖閣諸島は実業家古賀辰四郎に期限付きで無償貸与される。1880年代後半から1940年(昭和15年)にかけ、尖閣諸島には日本の琉球諸島の住民が建設した船着場や古賀が開設した鰹節工場などがあった。
中国と台湾が領有権を主張し始めたのは、1968年(昭和43年)に尖閣諸島付近海底調査で石油や天然ガスなどの大量地下資源埋蔵の可能性が確認されて以降である。
1978年(昭和53年)に右翼団体日本青年社が魚釣島に私設灯台を建設し、保守管理してきた。日本国政府からの「灯台を正式に海図に記載し、今後は国が灯台の管理をしていきたい」との申し出により、2005年(平成17年)2月に灯台は国に譲渡され、海上保安庁によって魚釣島灯台として管理されている。その他、北小島にも灯台がある。
 この島現在も個人所有である。これを石原慎太郎東京都知事は故人から都として買収することをアピールした。これを受けて、野田総理は国として、石原知事と会見しているがその結果は分らない。石原知事は島の購入問題は持ち出さなかったらしい。
# by katoujun2549 | 2012-05-02 21:59 | Trackback | Comments(0)
 日本の政治は暗いトンネルから抜け出せないでいる。消費税で頭が一杯な野田総理。あの小泉退陣から、安倍、福田、麻生、鳩山、菅、野田と続いた毎年の首相交代は日本の衰退を招いているのだろうか。いや、実は関係ないのかもしれない。ただの無駄なお騒がせ、国民とはつながらない連中なのだろう。だから、何か、緊急の意思決定が必要な時には大混乱となることが、あの3.11であきらかになった。残念ながら我が国は、官僚と企業で動いている。民主党が政治主導といって、下手な指示を出すから官僚がフリーズして全てが機能しなくなる。国会や企業では官僚OBがロビーイストであり、企業は政治家を警戒して、利用する事も憚っている。今や政治家は邪魔なのである。市場の行き詰まりは彼等では解決出来ない。日本のデフレはこじれにこじれ、日銀に景気対策を押し付ける政治家は我が国を衰退に落し込む。今日本を救うのは、女性と科学者のイノベーションである。それしかない。

 今後小澤一郎が党員資格復帰となって、どんな活動を行うのだろうか。先は総理の座を狙うことになるだろう。おそらくは鳩山をはじめ、性懲りのない小澤配下の程度の悪い議員が、やれ、報復だの、また、選挙対策だの、突飛なことをやって墓穴を掘るに決まっている。あの問責決議を受けた、山岡だとか、小澤配下の連中が薄笑いを浮かべている。それにしても、昨年、河村たかし名古屋市町と大村愛知県知事が、選挙後小澤に挨拶にいったが、あれは検察が厚生労働省の村木厚子を不法な方法で起訴した事件で信頼を失った時点で、勝負ありと見て、堂々と行ったのだろう。有罪は無理とはいえ、限りなく黒に近い無罪。とにかく、小澤派というのは小澤の指示なくては全く動きの取れない連中である。取り巻きが悪をなす。

 かつて、小澤を切れ者とか、次期リーダーとか、やたら持ち上げていたマスコミだが、彼はもう化けの皮がはがれ、メッキも色あせた。今の、消費税議論でもピントがずれているし、民主党内の討論にも参加せず、思い込みばかりが目立つ。小澤の国際感覚の無さ、経済音痴、国民への低い奉仕意識と高いプライドが良い結果をもたらす訳がない。ただの選挙屋、ずる賢い策士でしかない。彼が何か今のデフレ脱却の為のアイデアを出したことがあるだろうか。デフレ、景気悪化を理由に消費税増税に反対しているが、彼には将来の社会保障を支える財源に関する方策があるのだろうか。一度も聞いた事がない。彼のマニュフェストを守るという論理は、現実が許さない。アメリカからの評判もすこぶる悪い。恐らく、日米関係でもミソをつける筈だ。普天間も行き詰り、彼が出来る事は中国に媚を売って日本の地位を低くし、その代わり、民主党内部の支配を小澤馬鹿チルドレンを使って、悪辣な手段で政敵を葬ったり、内部抗争で終始するだろう。その辺りのバトルには天才的な力を発揮するに違いない。先は自分なら大胆な改革が出来る事をアピールする筈だが、この3年間、どうにもならなかった理由を明らかにしてもらいたい。まるで、自分がいなかったからできなかったのだという、英雄気取りだろうが、いずれにせよ、国民不在の暗黒政治は続く。大胆なインフレ政策で、さらに年金生活者や庶民の暮らしは苦しくなる。誰かがぼろ儲け。

 民主党という寄せ集めのシンボルが小澤なのだが、彼は政治屋としては、今の民主党では随一である。消費税増税反対を上手く使って、自民党や公明党と野合し、将来的には民主党を解体に導き、そこから自分が国家元首につく方法を考える筈。今の民主党も自民党もお粗末な人材しかいない。日本の未来は暗いが、ただ一つの明るい話題になるであろう未来は、高齢者と女性のパワーである。そして、技術革新をもたらす科学者の誠実な仕事に未来がある。
# by katoujun2549 | 2012-04-27 11:33 | Trackback | Comments(0)
 旧約聖書にアブラハムはウルで生まれたことが書かれている。ノアの洪水の後、セムの家系であったテラはセムの家系、テラからアブラム、ナホル、ハランが生まれ、アブラハムの兄弟ナホルの子がロトである。アブラムは後にアブラハムとなり、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の基となった。旧約聖書創世記11章28章に「ハランは父のテラより先にカルデアのウルで死んだ」とある。このウルの存在は19世紀までは神話の記述と思われていた。というより旧約聖書が神話と思われていた。ところが、イギリスのウーリーが今のイラクで重大な発見をする。その友人があのアラビアのロレンスで有名な、考古学者時代のT.E.ロレンスである。ウルの発見は当時の人々を驚愕させた。聖書に書かれている事が歴史的な事実である事が分り、次々と発掘が進んだ。

 ロレンスとウーリーは1912年から1914年までヒッタイト時代の遺跡の発掘を行った。ウルでの発掘は1922年に始まり、ここでウーリーは王宮の墓地の発掘という貴重な発見をした。アガサ・クリスティーの小説「メソポタミヤの殺人」はこの王宮墳墓の発見にモチーフを取っている。クリスティの夫ははのちにウーリーのアシスタントのマックス・マローワンであった。

 メソポタミアの地は、わずかの間に、前例のない大繁栄を記録した。そして、空前とも言える政治権力が打ち立てられた。それは、美術、建築、宗教は言うに及ばず、社会機構、日常の細かな慣習から楔形文字の発明に至るまで、それらは、すべて、画期的偉業であった。世界最初と言われる船や車輪つき戦車なども、この頃、シュメール人によってつくられたのである。
 シュメール文明の後を古代バビロニア帝国が受け継いだ。そこからは大洪水の跡、さらにはジッグラトというバベルの塔の原形などが次から次へと発見される。高校の世界史では、この発見と旧約聖書とのつながりが何故か説明されない。
 
創世記11章で「テラは、息子アブラムと、ハランの息子で自分の孫であるロト、及び自分の息子アブラムの妻で自分の嫁であるサライを連れてカルデアのウルを出発し、カナン地方に向った。彼等はハランまでに来るとそこにとどまった。

 旧約聖書創世記12章1節「主はアブラムに言われた。あなたは生まれ故郷父の家を離れて私が示す地に行きなさい。・・・・・・・アブラムは妻のサライ、甥のロトを連れ蓄えた財産全てを携え、ハランで加わった人々と共にカナン地方へ向って出発し、カナン地方に入った。ここにユダヤ教、キリスト教、さらにはイスラム教という一神教の物語と世界が始まったのである。
 


 ウーリーの左にいるのがアラビアのロレンスである。
『Ballad of a Soldier(原題)』 「誓いの休暇」という邦題である。中学生の時に予告編を見た記憶がある。最近はこうした沁みいる叙情のある映画が少なく、懐かしい。戦争映画として傑作だと思い、紹介したい。先日「戦火の馬」を観たが、戦争映画で最高は何かを考えたとき、自分は、やはりこの「誓いの休暇」ではないかと思った。プライベートライアンとか、僕の村は戦場だった、禁じられた遊びなど、戦時の市民生活とか戦場がテーマになった作品は多い。コッポラの地獄の黙示録も凄かった。しかし、この誓いの休暇は戦場から戦時下の町や村をひとりの少年兵士が漂いながら、通り過ぎて行くそのストーリーの流れはとても素晴しい。今は、DVDでしか見られないし、あまり画質は良くないらしい。

監督  
Grigori Chukhrai グリゴーリ・チュフライ
出演 cast
ウラジミール・イワショフ  Vladimir Ivashov   - Alyosha
ジャンナ・プロホレンコ   Zhanna Prokhorenko - Shura
ソ連映画のモノクロ 1959年作品

冒頭いきなり喪服の母親。ナレーションが彼女の息子は戦争から帰らなかったことを告げ、それからその息子の物語が始まる。つまりこの映画は、戦死した若い兵士の物語、ドイツ軍との戦い、ソ連軍の兵士の群と戦車が前線に向かう。女兵士が、戦車と兵士の列を交通整理する雑踏が印象的。急かせるような音楽が切ない。監視塹壕にいた兵士アリョーシャは急迫してきたドイツ軍戦車に追い掛けられる。独身者や老人は最前戦に送られる現実が見て取れる。放置してあった対戦車銃でニ両を撃破、褒美として6日間の休暇を貰う。帰るのに二日、母親と過すのに二日、戻るのに二日。帰省の途上、片脚になった兵士、シューラという美少女とのひと時の淡い恋、出征した兵士を捨てて他の男と暮らす妻、ウクライナからの家族。予想外の出来事に遭遇し、休暇日数は減っていく。ようやく家に着いても母はいない。農作業で出かけていた母とやっと抱き合うが、もう時間がない。帰りのトラックが待っていた。アリョーシャは母に手を振ってまた戦場に戻っていく。
アリョーシャとシューラとの淡い恋物語、最初は喧嘩したりしているが、だんだん仲良くなり、やがてお互いに恋心を抱くようになる。短い間の出会いだけれども、その中に喧嘩、和解、別離、再会など、ラヴ・ストーリーのすべての要素が詰まっているのである。
戦争という異常時だから起きる唐突な出来事、そして若者らしい恋。
 片脚となって妻のところへ帰る兵士のエピソード、兵士の妻に石鹸を届けるがその妻は別の男と豊かな暮らし。さまざまな人生模様が描かれる。背景にあるのは常に戦争だ。そしてタイムリミットが迫って来る。もう30年も前にNHK教育テレビで観て、録画していたが、当時は何とβだった。
素晴らしい映画である。最近の映画のテンポとは違う、淡々とした演出がかえって心に残る。三度観ても飽きないのはこの映画とカサブランカ、シェーンだ。
# by katoujun2549 | 2012-04-21 18:25 | 映画 | Trackback | Comments(0)
またもや、国土交通大臣と防衛大臣の問責決議である。自民党の小姑的な野党ぶりにはうんざりさせられる。早く、重要案件である消費税を決めてもらいたい。自民党は政権担当としても人材がいないことが既に証明されているのではないか。民主党もこのざまだ。
ふと気がつくのは、安住財務大臣とか、小宮山厚生労働大臣は、厳しい質問に、必ずしも納得のいく説明ができていないにも拘らず、新聞ではあまり非難されない。これは多分、ご両人ともマスコミ出身だからだろう。とにかく、今のマスコミは昔の陸軍にも並ぶ、権力を持っている。だから、身内には甘い。とにかく、マスコミ、テレビと新聞が世論を支配し、政治家の評価も行っている。これを野党は利用する。こんな図式が浮かび上がって来るではないか。
太平洋戦争最後の証言 大和沈没編 門田隆将著 小学館

これで、証言シリーズ3部作は終了した。門田氏が全国の当時の生き残りの方々を訪ねて書き下ろした力作である。小説ではない。とにかく、証言をひたすら集めた結果の作品である。大和の巨大な主砲が発射された時はどんな具合だったのだろうか、興味が湧くところは全て抑えて書いて頂いた。
今、第二次大戦を生き抜いた人々は急激に少なくなっている。この試みは、太平洋戦争を戦ったアメリカからみた証言、さらには、戦場になった土地の人々へと展開することが出来ないだろうか。

戦艦大和のプラモデルを中学生の時に作ったことがあった。現代の兵器として見事なまでに完成された姿に魅了されたものである。大和が沖縄の海に海中に眠っている姿は、かつて、潜水調査で撮影されている。あの力強い姿は、今の日本人の心おも揺さぶる力がある。戦艦というのはその国の象徴でもある。宇宙戦艦ヤマトという漫画もあったが、やはり日本人にとって大和は永遠である。

自分が学生時代は、先輩の中には学徒動員で戦地で過酷な体験をした方々がいた。合宿の打ち上げの時など、先輩が来られて当時の話を聞く機会があった。その中で、T先輩は戦艦大和の最後を目撃した方であった。大和の僚艦、冬月に乗艦しており、機銃士官として防空戦を体験したのであった。
米軍のパイロットが、大和を雷撃し、僚艦の真横を反転して猛烈なスピードで通り過ぎて行く。その時、横を向いたパイロットが機銃座にいたT先輩と目が合ったんだそうだ。若いパイロットで少年のような顔をしていたのが印象的だったという。

大和は、最後に大爆発を起こして、沈んで行ったが、その時、びっくりしたのは、天から人がバラバラになって降ってきたという凄い経験をされたといっていた。海に放り出された大和の乗員を、必死で救出したが、最後はいつまでもいられず、現場を離れなければならなかったのが辛かったと言っておられた。吉田満氏の著書、「戦艦大和の最後」で駆逐艦「初霜」が大和乗組員を救助する際、軍刀で生存者の手首を切ったとする部分については、現在も論争の原因となっているのだそうだ。しかし、T先輩は海で浮いていた大和の乗り組員を探して、懸命に救おうとしたといっていた。彼等を放置して行ったというのは噓だと憤慨していた。

 戦争の真実というのはなかなか伝わらず、無責任なフィクションや、言い伝えが主流になってしまうことが多く、困った事である。大平洋戦争の証言には段階がある。最初は将官や参謀が回顧録を出す。そ彼等は、当時の年長者であった。次第に将官、兵士とそれぞれの階層に下りて来る。今、実際に戦った当時の若者が既に80歳代〜90歳代と高齢になり、次々と鬼籍に入っている。門田隆将氏は、それらの生き残りと直接インタビューをし、証言で全てを構成する。

 この大和篇は「大艦巨砲」主義の象徴、戦艦大和の体験者の証言である。要するに役に立たない無用の長物ということである。しかし、3,000人を超える兵士がこの船に乗り、日本の未来を守る為に出撃した。航空支援もない中、無謀な特攻だと批判することは簡単だ。しかし、そこで死と直面した人々にそんな説教は無意味である。
 沖縄特攻に参加した人ばかりではなく、最初に建造したときからの体験をまとめている。さらに最後に海の墓場となっている現在の海底の大和から遺物を引き上げた時の話も最後を語っている。圧巻はやはり最後の姿、大和と運命を共にした時の多くの兵士の姿である。
# by katoujun2549 | 2012-04-21 09:07 | 書評 | Trackback | Comments(0)
 今、大飯意原発の再稼働が揺れている。現政権は再稼働を目指している。しかし、周辺の滋賀県、大阪府などは反対している。大飯町に381億円の電源三法交付金が支払われている。とことが、対岸の小浜市には60億円である。現在の自治体の都市計画は市町村単位で決定出来るという構造からきている。原発を立地させる為に、建設される場所の自治体だけを相手にすれば交渉も楽という便宜的な制度である。影響のある範囲を最小にする事で成り立つ考え方だ。ところが、昨年の3・11以来、都市計画レベルの範囲設定では済まなくなった。万一、事故が起きた時の範囲は、立地自治体の周辺で止まらない。50キロ圏とか、大きな範囲が事故の大きさによって想定されるようになった。しかし、政府の対応は、これまでのままで押し切ろうという乱暴なやり方だ。民主党というのは法令を盾にするが、過去の教訓にもとづく政治判断をしようとしない。彼等が考える政治というのは官僚との調整ばかりである。何が政治主導なのだろうか。調整というのは言葉はいいが、言いなり、時には自己保身ということである。有権者は得る者が無いという結果が見えて来る。原発という巨大技術に対する、合意形成の方法が安全神話にもとづいて旧態依然であることに加え、大阪市などの大きな自治体の運営についても、既に限界に達している我が国の行政構造を改革しなければ、国家のメルトダウンはさらに進むのである。
 
 野田総理も、民主党の幹部には松下政経塾出身が多い。彼等が学んだ時代の政治家の観念はそのようなものだったかもしれない。演説が上手で、人をコントロールできる人材であるが、必ずしも国民の利益を代表する方法は育っていない。どうやって代表するか、投票者に約束を守ることができる人材か、日本の政治と経済のあり方についての見識を育てるのに失敗している。国民を支配し、自分の身分を守る方法は教えたのだろう。しかし、政治というものをはき違えている。松下幸之助は企業のオーナー経営者ではあるが、国民を代表してものを考えたことは無いだろう。国の将来を憂えても、それは自分の会社を守るということにおいてである。だから、企業人の目からみた統治者としての力を育てようという事で、民主主義国家の指導者の責任とか、思考方法の柔軟さ、どうやって官僚を使うかといった勉強はしていない。いや、彼等は、東京大学法学部を卒業者した人材の学力、知力に負けている。そうした人々が政経塾に行ったのであろう。官僚をやめて政経塾に行く人は少なく、それよりは彼等はハーバードやケンブリッジ大学に留学することを目指すのだと思う。

 民主党は労働組合あがりが多い。労働組合というのは、本質的には生産的な団体ではない。組合員の
権利、利権のための圧力団体に過ぎない。人数は多く、それらを組織的にまとめるんためには官僚的な組織となるから、その仕組みは、実際の国家や自治体よりははるかに小さな目標しかない、彼等の生活、賃金と身分保障という保守的な団体の官僚だから始末におえない。そうした組織からリーダーシップのある人材を求めることは無理である。小選挙区制のなかでは、国会議員の人的スケールは町長並みなのである。我が国の政治家で情けないのは、中途半端な学校教育、そして、労働組合という国家を導くには不適当な人材集団から多くの政権首脳を構成しているということである。これに鳩山とか、政治家二世が加われば、その中身は知れたものである。弁護士出身の政治家が跋扈する理由は、彼等の旧司法試験は100人に1人という難関をくぐって選ばれてきたという人材である。だから、国家議員としても、彼等は医師よりのさばっている。これは自民党も同じである。あの3年前の政権「交代」は、国政の衰退、「後退」現象なのである。

 原発の話に戻るが、今の政権がその程度の行動しか出来ないというのは、彼等の能力の限界を物語っている。多分、県知事や国土交通省、経済産業省の官僚よりも小さな人材が表に立っているからこそ、このような結果を招いている。今後、原発はこうした広域的な地方行政をまとめていく必要があるとすると、何も出来ない。現政権は、原発を使わなければ産業が維持出来ないと焦っていることだろう。しかし、常に多くの反対を受ける。普天間も然りである。県知事の方が国政よりも力がある。石原知事の尖閣列島買収の提案にも現れている。これは本来国の仕事ではないか。そんな状態では脱原発とか敢えて言わずとも、再建も、新設も出来なくなるのである。
 ヒューゴの不思議な発明は映画タクシードライバー(76年)、カジノ(95年)などの名作を世に送り出した、マーチンスコセッシ監督の力作である。初期の作品ではロバートデニーロ、ディパーテッド(06年)やギャングオブニューヨーク(01年)、シャッターアイランド(09年)などではディカプリオをしばしば使った。次の作品は遠藤周作の「沈黙」である。彼は若いころ、カトリックの司祭を目指したことがあった。
 今年のアカデミー賞は作品賞はアーチストだったが、いずれも映画草創期の映画への愛を描いたもので、戦火の馬のスピルバーグといい、今回のスコセッシといい、ベテラン監督の作品が賞を占めた。その点は、新鮮味に欠ける印象でもあった。
 有楽町のヒュ–マントラストシネマで3D版を見た。アカデミー賞では11部門でノミネートされ、作品賞は取れなかったが、5部門で授賞した。20世紀初頭のパリ、時計職人の技術をもった孤児の少年と映画事業誕生時代の大作家、メリエスとの交流を描いたものである。何故このような内容と違った題名を配給会社がつけたかは原作の題がセルズニックのベストセラー「ユーゴの不思議な発明」だからだが、内容はスコセッシの映画への愛を描いたもの。

 この映画の、発明とは映画であり、何もヒューゴの発明品ではない。正確には「ヒューゴと発明」。原題は「ヒューゴ」である。何だかファンタジー映画を期待していた観客はがっかりするだろうが、後半、映画づくりをのメリエスの世界をファンタジーとして、そしてハッピーエンドとなるのもその結果と思えばよいのだろう。映画はフランスが発祥の地、ルミエール兄弟が発明者である。だから、その伝統でフランス製のレンズ、アンジェニーは世界の映画用カメラを支配していた。駅の時計職人の孤児になった少年、ヒューゴは博物館の修復師だった父親から受け継いだ、自動機械仕掛けの人形に魅せられ、これを修理し続けて来た。彼は駅の時計台に暮らし、孤児狩りの保安官から身を隠し、また、食べる為にコソ泥もやっていた。そこで、駅の近所でオモチャ店を経営していたジョルジュ老人こそ、史上初の商業映画監督、メリエスであった。彼が映画製作を止めた後、玩具店を始めたのは史実である。機械人形を作ったのは彼であった。
 

 20世紀初頭、第一次大戦直後のパリの駅頭が3Dで生き生きと映し出される。時計台の歯車に囲まれた時計塔内の不思議な造形美と3Dの動きが面白い。この時代はまさに機械の時代。蒸気機関車、ゼンマイ仕掛け、そしてアナログの世界であった。この物語の軸は“機械人形”と“映画”。父がヒューゴに遺した機械人形の修理が完了した時、機械人形は動き出し、「ジョルジュ・メリエス」という署名の入った月の絵を描く。その名はヒューゴの友人イザベルの養父、映画界からこつ然と姿を消した、世界初の映画監督の名前でもある。子どもたちの冒険が老人の頑な心を溶かし、忘れていた映画への夢を蘇らせる。20世紀初頭の機械文明最盛期のパリ、モンマルトル駅の雑踏が美しく、生き生きと描かれる。
# by katoujun2549 | 2012-04-18 16:30 | 映画 | Trackback | Comments(0)
 
 丸の内ピカデリーで戦火の馬を見た。なかなかの力作であった。主人公はやはり馬であろう。アカデミー賞3部門に輝いた。戦場シーンなどいかにも大作である。映画の持っているクラシックな映像文法が積み上げられている。ドラマ性で訴えかけるが、そもそも、奇跡のような物語なので、それなりに意識してのめり込む必要がある。文部省推薦優良映画といったところだろうか。第一次世界大戦でイギリスから海外へ送られた100万頭の馬のうち、帰ってきたのはわずか6万2000頭で、残りの馬たちは戦死したかフランスで食肉処理された。大戦はイギリスの男性人口に多大な影響を及ぼした。88万6000人の男性が死に、これは戦争に行ったうちの8人に1人、国全体の人口の2%に当たる。この惨禍の記念碑として作られたといってよい。もとの作品は「軍馬ジョーイ」という芝居だそうである。

 イギリスの田舎で競売に出された馬に魅せられた零細農家のオヤジが30ポンドで落札した。気難しいが力強く美しい馬だった。ジョーイと名付けられ、この家の少年アルバートと強い絆で結ばれる。この馬を見事に調教し、農耕にも使えるようにしたアルバート、馬との友情が生まれる。イングランドの美しい丘陵と田園が画面一杯に広がる。ストーリー展開も飽きがこないテンポである。馬との友情が何故生まれたかは説明が弱い。しかし、第一次世界大戦が勃発、友情は引き裂かれ、馬は徴用されてしまう。最初は騎兵将校の愛馬となるが、最初の戦闘で将校は戦死、馬はドイツ軍に軍馬として大砲の牽引など重労働に使われ、何度も命の危険に曝される。ドイツ軍から一時フランス人の老人と少女に救われるが、再びドイツ軍に捕獲される。

 戦場シーンは大迫力である。第一次世界大戦の悲惨な前線とそこで繰り広げられる過酷なドラマが息をつかせない。当時の戦争では人も馬も厳しい環境の中で傷つき、死んで行った。戦場では思いがけない奇跡が度々起きるといわれている。この話も、実話ではないが、似たような話はあったのだろう。少年も馬との再会を夢見て軍に志願し、前線に出る。ソンムのドイツ軍との戦いが始まった。戦車、毒ガス、砲撃戦と恐しい戦場を馬も生き抜く。英軍兵アルバートは毒ガスのために目を負傷する。激しい塹壕戰の中、混乱から脱出したジョーイは両軍対峙する中間点で、鉄条網にからまれて身動き出来なくなる。両軍から出て来た兵士が互いに馬を助けようと歩み寄り、ドイツ兵の助けで、馬は救出される。コイン投げで買った方が馬を手に入れることになり、イギリス軍に馬は返される。馬も負傷し、射殺寸前で持ち主の少年と病院で出合う。戦闘中に助けた将校や部隊の仲間の友情に助けられて、さらに元の少年のもとに戻ることが出来たというハッピーエンド。さらにこの作品は84回アカデミー作品賞ノミネートされたのあるから終わりよしである。何となく個々のエピソードがあっけなく、深みに欠けるのは、主人公がもの言えぬ馬であること。また、原作がWar Horse が、1982年に出版されたマイケル・モーパーゴによる児童小説ということもあるのだろう。

# by katoujun2549 | 2012-04-16 17:41 | 映画 | Trackback | Comments(0)
 ヨーロッパの通危機は統一通貨ユーロを信用基盤としたことからはじまり、未だに危機下にある。サッチャー政権最後のときに、内閣のムードに反し、頑迷なまでにこれを拒絶した首相の決断においてイギリスは正解だった。この先見性というより、政治哲学からくるものでサッチャーの本領である。彼女は階級社会のイギリスで、食料品店の家に育ち、オックスフォード大にすすみ、女性として下院議員、保守党党首と男社会の逆風も越えて国家元首へと登った。生活感に反した決定を彼女はしない。その意志の強さ。戦いを物ともせず、保守の思想を基盤に、労働組合とテロリストIRAとも戦い、フォークランド紛争、国家財政再建、東西冷戦での勝利、そしてユーロ参加への独自路線の構築など、その政策は国を何度も救った。

 労働組合は弱者保護という名目で国家財政を破綻させ、労働意欲を失わせ、国家の衰退を招いた。国民として税金を払い、自主独立の精神と勤勉な国民こそ国家の基礎であるとして、バラマキ型の恩恵的な福祉を排撃した。そして、小さな政府を目指したことはまさに、今の日本が学習しなければならないことである。彼女の思想は、一介の庶民であることからはじまり、イギリスに多くいる独立自営の小規模事業者であった家庭環境から生まれている。彼女は、既存社会からの偏見と慣習に敢然と挑戦した。その人生は戦いの連続であった。だから、フォークランド紛争で出兵の決断もアメリカからの助言ももろともせずになされた。当時のヘイグ国務長官は、自分の戦争体験を語ったが、サッチャーは自分も戦いの連続であって少しもひるむ事が無い。アルゼンチンは独裁政権が続き、彼女は邪悪な政権と位置づけ、徹底抗戦を叫ぶ。巡洋艦、ヘネラルベルグラーノを撃沈する決断を自ら下した。フォークランド諸島は確保したものの、イギリスには苦い勝利となった。艦船や兵士の犠牲に見合った勝利だったかどうか今でも論争がある。

 これまで、ゆりかごから墓場までといわれていた高福祉と産業保護政策は政府支出を肥大化させ、イギリスの国力の衰退を招き、英国病といわれた。サッチャーは小さな政府により、財政健全化をはかり、規制緩和を行ない国家の衰退を止めようとした。しかし、規制緩和は金融ビッグバンを招き、ロンドンのシティはいわゆるウィンブルドン現象として崩壊した。ポンド危機、そして、人頭税に対する反発は、サッチャー政権を崩壊させた。英国の伝統産業であった炭鉱も崩壊し、地方経済は疲弊した。失業者が再び増え、イギリスは労働党政権に政権を譲った。しかし、サッチャーの政策は、長期的にはイギリスを救っている。彼女の内政に関しては、結局、労働党ブレア政権以降、後退した福祉政策の再建、特に、医療制度や公営事業、競争的な教育制度などは元に戻ってしまった。

 本来、人々の幸せを守るべき労働組合が障害となったイギリス、社会保障が労働意欲を失わせ、無責任が満ちあふれ、国家財政を破綻に導く。彼女は国の基盤は小規模企業事業者が成長する事で達成されると主張した。ベンチャーも含め、そうした成長産業が国を押し上げた。政治家の役割は、状況を変えることである。外交的には、国家悪と戦う姿勢を貫いた。弱き者には容赦なく悪が襲いかかる。その悪ー共産主義と戦わなければ書くの脅威に支配されるだろう。政治家とは妥協とか、調整がその行動原理だあったが、これを彼女は否定した。妥協とか、自分は圧政者ではないという口実のもとに深淵を曲げることをしなかった。調和、信頼、希望が彼女の指針だった。保守というのは原点に戻るということである。何も体制擁護とか、アメリカ寄りといった表面的なことではなく、保守には原則が無ければいけない。鳩山の、東アジア共同体といった幻想でもない。
# by katoujun2549 | 2012-04-14 13:14 | Trackback | Comments(0)
映画 鉄の女の涙 マーガレットサッチャーを見て
 
 このサッチャーさんを見て日本の政治を語る事は空しいのでやめよう。政治家としてのリーダーシッップが今こそ求められている時代は無いのだが、彼女は100年に一度の人材なのだろう。比較するだけ野暮というもの。今年はフォークランド戦争から30周年でもある。
 世界で知られている彼女の実像を描こうということだろうが、伝記映画として、鉄の女という彼女の強さを表す内容ではない。だから鉄の女の「涙」となっている。とはいえ、I don't want to be on my own ! 私を独りにしないでと涙を流す人物はあまりにも通俗的で、ここは泣かない方が真実に近い。この映画のような場面で涙を流す人とは思えない。サッチャーさんは今もご存命である。しかし、認知症で療養という、その姿を描いてしまった。この映画はメリルストリープの為にあるような作品となった。老婆となったサッチャーさん生き写しであり、口調も「そっくりさん」を見事に演じた。アカデミー賞、女優賞は文句なく彼女のものである。映画の評価よりメリルの演技の方が高い。サッチャーさんが退陣したときのバックミュージックはカラスのトスカだった。最初はミュージカル「王様と私」と効果的に音楽が使われるところがイギリス的。
 鉄の女にも妻や母としての顔があり、知られざる孤独と苦悩があった。マーガレットを支えた夫デニス役にジム・ブロードベント。監督は「マンマ・ミーア!」のフィリダ・ロイド。第84回アカデミー賞ではストリープが3度目の主演女優賞を受賞。

 メリルがキャンペーンで日本に来て黒柳徹子と「徹子の部屋」で対談しているのを見て、黒柳徹子の通俗的な会話に失望した。サッチャーさんのキングスイングリッシュをよく演技されましたねとか、名女優であれば当たり前のことをしゃあしゃあと聞いてのける無教養な感じで何十年も長寿番組を続けている黒柳の馬鹿さ加減にげんなり。サッチャーの英語はミドルクラスの英語で、エリザベス女王から庶民的すぎると嫌がられていた。だからいいのだろう。この映画ではキッチンでお皿洗いも自分でするサッチャーさんの姿が描かれたが、またメルリストリープも主婦業をこなしながらの女優業ということを自らと重ね合わせて語ったことに何のコメントも出さない黒柳。この作品で頻繁に語られるサッチャー哲学についてメリルがどう考えているかくらい質問してもらいたかった。

 イギリス宝くじ協会がスポンサーである。イギリス人の描いた伝記的映画はいつもレベルが高い。英国王のスピーチしかりである。強烈な個性が物事を成功に導くという図式が必要なのだろうか。日本で伝記映画になりそうな人格の持ち主が少ないのだろうか。必ずしもそうではないだろう。例えばヒトラー最後の14日間といったドキュメンタリーもあった。日本では昭和天皇陛下を描いた「太陽」、東条英機の東京裁判などがその部類だろう。世界の偉人の持つ強烈な個性、哲学、皆が知っていることの裏に何があるかが興味深い。しかし、当時の北アイルランドのテロリストIRAとの戦いなどはもっぱら被害者、描ききれてはおらず、これこそ鉄の女の面目だろうが、映画としては惜しい部分もある。

サッチャー元英国首相の功績は、斜陽のイギリスを財政面で再興し、労働組合を抑え込み、フォークランド紛争に勝利して国家の威信を守った。さらには東西冷戦の勝者としてイギリスを導き、通貨面ではユーロ経済圏に入らずに今日の通貨危機から国を救った。EUに対する冷淡さは当時彼女の失脚の原因であったが、今は高い評価である。彼女は国を二度救った。この映画が製作されたことは通貨危機から免れたイギリスが彼女を再評価したことでもある。彼女の功績をトレースすることは既に多くの著書や自伝があるから制作意欲がわかない。この映画はそうした表の世界とは違う、個人としての姿を描こうとしている。

 この映画で見えるのは、認知症と高齢に取り憑かれた、女性の姿である。鉄の女という姿からは程遠い。イギリス首相を11年間務めたサッチャーの老後、そして夫を失った孤独な日々が描かれている。映画の題とは裏腹な、人間的な弱さをえぐり出そうとしている。人生の最後を彼女がどう過ごしているのか。言葉や記憶を取り戻そうと苦しんでいる一人の年寄りとして、10年前、既に先立った夫デニスとの物語と対話を軸に展開する。夫はいないが、幻覚として登場するして過去を語る。彼女は二人との思い出がその政治活動と錯綜して、あくまでも彼女の心を支え続けた夫デニスとの愛の物語でもある。
「私の望みは世界を良くしようと思った事」とサッチャーは言う。そして夫は、「そして、君は成し遂げた」と答える。

 サッチャーさんは、一介の食料品店の娘であった。それがオックスフォード大学に進み、イギリスを救う大政治家に成長した。彼女が主張したのは、独立自営の小規模事業者が健全であり、その成長こそが国を興すという彼女の哲学である。階級社会であるイギリスで庶民からのし上がり、女性議員として周囲の偏見や圧力とも戦う姿が描かれる。そのタフな政治家ぶりも遺憾なく描かれている。ただ、物語の展開に既に知っている事が多い割に冗長な感がある。このあたりが作品としては難である。天は自ら助けるものを救う。彼女の哲学はGod helps he who helps himself である。

# by katoujun2549 | 2012-04-14 10:01 | 映画 | Trackback | Comments(0)
この人は一体何がしたいのだろう。
「捏造だ!」そんなことになるのは分ってるだろう。
今回、イランに行って、鳩山元首相がIAEAに対して二重基準だと言った事をイランの「捏造だ!」と宣った。過去においても
「ペテン師!」 菅直人の本質が分らないお人好しを露呈。
鳩山由紀夫前首相は菅直人首相が早期退陣を否定していることについて「きちっと約束したことは守るのはあたり前だ。それができなかったらペテン師だ」といって非難した。これはいかにも正義の味方のようで真っ当な感じがするが、政治家同士で、そんな言葉遣いはいかがなものだろうか。人を見る力も無い。所詮は小澤のカネズル男。

「そう申し上げたつもりはない!」じゃあ何なんだ。政治家は言葉が命だぞ!何度も言い直すのは卑怯ではないか。
「恵まれた家庭に育ったから自分自身の資産管理が極めてずさんだった」(11月11日、資産報告訂正について記者団に)そんなことが何故理由になるのだろうか。
「トラスト・ミー」(13日、オバマ米大統領との会談で)
「母に聞いてもらえば分かる。完全な作り話だ」(首相が実母に資金提供を依頼したとの鳩山邦夫氏の証言について記者団に)これも前に言っている。

 どうせ、こんなバカ元首相がイランに行ったところで、その道化振り以外には世の中関心無い。
 日本を恥ずかしい国に貶めていることを本人は気がつかない。というより、これは誰かの陰謀ではないか。日本を下らないリーダーのいる国であることを世界に発信し、日本を危機に陥れるならば得をする国。そいつらから吹き込まれたんではないだろうか。かつて、カーター元大統領が北朝鮮に行ったりした。オポチュニストは始末が悪い。その結果がいまのミサイル騒ぎ。ダメな人は何をしてもダメなのである。
ルーピー鳩山はこうした口癖があることを自分でどこまで分っているのか。馬鹿じゃないか。そういいたくなるのはこんな人物を金の力とはいえ首相にしてしまった民主党である。

まさか、
イランのアフマディネジャッド大統領から、イランの核開発は平和利用だ、「トラストミー!」と言われたかどうかは分らないが、とんでもない人物が元首相という地位を利用してフラフラ国際政治の戦場に現れるという、まるで、ストリーカーのような出現に開いた口が塞がらない。この男、監獄にでもぶち込まないと何するか分からん


全く分っていない。今、イスラエルがイランを爆撃してでも阻止したい、イランの核兵器。イスラエルはイランを攻撃したくとも、国際社会の監視もさることながら、標的は遠い。戦闘爆撃機が空中給油してやっとイランに辿り着く。その間撃墜される危険は高い。しかし、万一、イランが核兵器を手にすると、レバノンにはイランの手先であるテロリストグループ、ヒズポラが要塞を持っている。イスラエルの隣国、レバノンにシリア経由でトラックに積んで何発も束にして持ち込むことができる。国境周辺でトンネルでも掘られてこれを一度に爆発させれれば、四国程の国土しかないイスラエルは爆風と汚染で壊滅する。彼等には生存がかかっている。だから、アメリカのみならず、世界はイランの核を封じ込めたいのだ。そんなときに、酔っぱらったようにフラフラと、自分の名誉のためにだろうか、行ってしまった。天下のルーピー首相という汚名を晴らそうとでもいうのだろうか。馬鹿は死んでも治らない。中国か、アメリカの陰謀だろう。それにまんまと嵌ったのが過去に恥ずかしい結果しか無かった自分の禊を考え、それを受け入れたに違いない。裏で画策したのは中国か、アメリカに決まっている。中国ならアメリカと日本の関係を悪化させる格好の材料だ。アメリカなら、イランで日本に国際世界で恥をかかせて影響力を減じる。ルーピーというのはクルクルパ—という意味だからね。

鳩山氏は大統領との会談で「核保有国を対象とせず非保有国の平和利用に対して査察を行うのは公平ではないと(イランが)言うのは承知しているが、日本は原子力の平和利用が国民の活動に有益との信念から、国際社会の疑念を払う努力をしてきた」と語ったと説明。また、「核拡散防止条約(NPT)に入らず(事実上の)核保有国になっている国にとって有利になっていることは承知しているが、その流れが拡大しないためにも国際社会との協力が必要だ」と指摘したという。
NPTに入っていない国にとって有利とは一体何をさすのか不明。これではイランよりに都合良く翻訳されても仕方が無い。自分は何かを貢献しているつもりだが、全く無意味。蛇に説教しているようなもの。
# by katoujun2549 | 2012-04-11 17:48 | Trackback | Comments(0)
  日本ではキリスト教というとクリスマスを思い起こすだろう。しかし、実際、信仰的に重要なのはイースターである。勿論、処女降臨のことや、ベツレヘムの馬小屋の物語も神学的な説明がなされるが、これだけではキリスト教にならない。キリスト教は、イエスの十字架と復活の奇跡、再臨の預言が無ければ始まらない。神に受け入れられる為には十戒を守らねばならないが、人間は完璧には守れない。そこで、もう一つの律法、愛を霊の賜物として受け入れ、その働きに従うことで律法を完成することができる。これこそ神の愛であり、その一人子イエスキリストをこの世に賜ったという神学である。その必然として様々な奇跡や復活が証としてなされた。

 新約聖書では、この死人の復活という、これまでの宗教には全く無かった世界観が展開されている。しばしば、進化論と創世記の天地創造物語が議論になり、インテリジェントデザインといった理屈も生まれた。しかし、この死者の復活という考え方、というより信仰は、いくら何でも2000年前の世界でも一笑に付されたのである。当時のユダヤ人もこの発想は無かった。だから、死者の復活を否定するサドカイ派の人々はイエスキリストに論争で挑戦し、その問答の中であっさりと逆手にとられている。

 キリスト教徒は、当時のローマでは女子供、奴隷、職人といった無教養な連中であるとされ、社会では底辺の人たちであった。復活の信仰は嘲笑の対象にすぎなかった。だから、皇帝ネロがローマの大火の犯人として仕立て上げ、見せ物にして殺したのも、キリスト教の教義というより、あの奇妙な復活を信じる集団は焼き殺してしまっても誰も政治問題にならないということからターゲットになった。ローマ帝国のキリスト教迫害は、後の事で、復活信仰が問題だからではなく、皇帝崇拝を拒否したからである。このことは故弓削達氏のローマ帝国とキリスト教迫害の論文に詳しい。
 イエスキリストは自分が復活しただけではない。ラザロは埋葬されて、腐敗が始まっていたのに生き返る。瀕死の病人であった役人の息子(ヨハネ4;50)、百人隊長の部下を癒し、回復させた(マタイ8章5節~13節)。こうした奇跡を4福音書は繰り返し語っている。復活信仰はキリスト教の中核である。イエスが十字架の死を迎えた時も、地震が起き、聖人達が復活した(マタイ;27章50〜55章)。
まさに繰りかえし述べられている。この記述に疑いを持つ事は簡単だ。その復活した人はその後どうなったのか、イエスは何故もっと多くの人を蘇らせなかったのか、しかし、理屈を考えることは信仰ではない。
その答えは、それを作り話と笑っていたら、2,000年のキリスト教は存在しなかったという事実である。何を言っているんだろう、そんな屁理屈を考える前に。自分の生と死を考えたらいかがでしょうか。結局人間ができることは祈るしか無い。
 使徒行伝はパウロが復活のイエスにエマオへの道で出会い、改心して新しい人生を得たこと、その後の教典となった書簡集で繰り返し復活こそ真実であることが書かれている。復活の信仰が力となり、教団、教会を形成し、信仰として受け入れられているという事実をどう考えるかである。いや、教会というのはこの信仰を維持するために形成され、聖書も編纂され、何度も改訂された。聖書、まさにこの復活の信仰が福音として書かれ、これを神の言葉として受け入れるということである。キリスト教がその象徴を十字架という当時の恐怖の的であった処刑具にした事の意味がある。キリストが、奇跡を起こした魚もキリストのシンボルである。キリストは病気の癒し、魚、そして十字架の復活をもって世界宗教となった。この奇跡が多くの人々に受け入れられた理由は何かを考える方が、この奇跡物語の意味を説明することになるのではないだろうか。
 四月にはいり、長かった寒い冬が終わり、桜が一斉に咲き始めた。日本人は、桜の木の下には死者が埋められているという言葉がある。毎年、桜を見に行く日本人の習慣である。自分も両親、そして家内と身内に多くが天に召された。するとその言葉が心に響くのである。皆が元気な時には全く理解出来なかったのだが。これが日本人の感性なのだろうか。しかし、復活という偉大なメッセージが私達に神から送られたのであるから、これを十字架とともに見つめたいものである。

ーーーーイエスの受難と復活への祈りーーーー

 イースターにあたり、主のご復活を祝し、その福音にあずかる喜びを申し上げます。世界の人々に希望と平和をもたらす、このイースターが、イエスの十字架の愛こそが真実であって、そのことを否定したり、誹謗する側には救いが無いことを思います。
 貴方の受難をもたらし、貴方を裏切る私たちの弱さ、罪深さを懺悔いたします。あなたは一人子を世に遣わし、私達の罪を解き、あなたとの正しい交わりの道を与えてくださいました。十字架の血の贖いに相応しくない罪深い私達にお与え下さいました救いを復活という奇跡によって完成されました。貴方の大いなる知恵と恵みに感謝申し上げます。あなたがお示しになられた愛が聖霊であり、新しい律法であること、そしてイエスキリストこそが我らの主である事を信じ、告白します。
 そのみ言葉を通して恵みに預かる幸いを感じます。私達が永遠の命を頂き、既に召された兄弟姉妹とともに再び会うことが出来ますよう願うものです。どうか私達が教会にあって主の十字架の贖いと復活により与えられた霊の賜物をこの世で証言し、貴方がイエスキリストを通して示された愛をもって歩み続ける事ができるように導いて下さい。イースターの礼拝で多くの友と祈り、喜びを共にする事をお許し下さい。この世界が、復活の信仰により、希望、愛と平和に支配されるものとなりますよう。主イエスキリストの御名によって祈ります。アーメン




 

 

 
 AKB現象とファシズムとは違う

 日本人は外国文化に対する旺盛な好奇心を持っている。かつては、鬼畜米英だった人々が、一転して敗戦後アメリカンカルチャーにかぶれ、無抵抗に受け入れる。近年の韓流然りである。好奇心の強さはかつて、江戸末期、黒船のペリー一行を驚かせた。日本人の強みでもあるかもしれないが、国内の文化に対しても同様で、まるで無防備である。一見下らないと思われるタレントのパフォーマンスでもCMなどで繰り返されると簡単に受け入れてしまう。そこを広告人は狙っている。一極集中という現象となる。欧米人はこの状態を特に警戒する。独占禁止法などもこうした現象への平衡感覚からくるのである。かつてスターリンやヒトラーの歴史的な恐怖を味わったからだ。この傾向にもっとも敏感なのが共産党である。実は、共産党も同質だが、今や世界中で人気がない。それは彼等が民衆を引きつける娯楽を持たないからである。
 
 日本人は多様な価値観を尊重しない。それよりは単一を受け入れがちなのである。これに批判を加えたり、反対する事が次第に難しくなる。ナンバーワンがデファクトとなり、全てを支配する。

 分かり易い例をあげると、AKB現象だ。一見幼稚な演技も何度も同じ表現が繰りかえされると無抵抗になり、出演しているタレントはマスメディアでの出番が増える仕組みになり、一種の権力を持つようになる。この仕組みは宝塚も同じである。厳しい内部の競争がある。今日のAKB48のパフォーマンスなどでも遺憾なく発揮している。
 AKB48は2005年7月、総合プロデューサーの秋元康が主導で「秋葉原48プロジェクト」第1期生メンバー募集を開始したことがはじまり。東京都港区の芝浦スタジオで最終審査を開催。全応募者7924人のうち、書類審査で絞られた45人の中から、最終的に24人の合格者(倍率約330倍)が発表された。現在も継続してAKB48に在籍するのは板野友美、小嶋陽菜、高橋みなみ、峯岸みなみの4名で先般前田敦子が引退した。
 その年の秋、夏まゆみ指導による合格者のシアターレッスン開始、約1か月間の集中特訓後、11月23日からは突貫工事中の秋葉原48劇場ステージに場所を移す。
 これがメデイアを席巻し始める。全てがAKB一色となる。カラオケボックスに行くと、とにかく、AKBが支配している。マスコミもこの現象に対して利用する事ばかり考え警戒心が無い。この現象は実はファシズムなのではないかという気がしてきた。ファシズムというのは行政から軍事、文化、芸能に至るカルト的な支配を国家が受けてしまうことで、何もAKBと同質ではない。多分、これからの芸能界で、AKBでなければ人にあらずといった事にはならないだろうと思う。一種の「ええじゃないか」現象である。日本人はお祭りが好きであるが、日本の祭りは短い。熱しやすく醒め易い。これが救いだ。

 ところが、恐ろしいのは、こうした現象を起こし易い社会的土壌である。このパターンが平成維新の会となったらどうだろうか。まさにファシズムになりかねない。橋下大阪市長は確かに弁護士出身だけあって弁舌は巧みだ。あのヒトラーも演説では国民を引きつけた。しかし、その内容は空虚で、破綻した論理に国民はまんまと引っかかってしまった。
 ナチスもお祭りが好きだ。あのベルリンオリンピックが代表例だが、行進、大集団の大会、映画、ラジオなどがマスメディアを支配し、国民を洗脳した。この方法を今も北朝鮮、ユーゴスラビア紛争などで利用してきた。歴史は繰り返される。ナチスも党員資格、さらには親衛隊員、ヒトラーユーゲントなどの選抜を厳しく行なった。これに選ばれたというエリート意識を悪用したのだ。今回の橋下氏も、3000人の候補者を集め、そこから厳しい審査を行い、さらに国政レベルの人材を集めようとしている。短期促成栽培のノームが生まれつつあるではないか。なんとも、この方法、AKBと似ていませんか?彼等がAKB,そして吉本興行あたりと裏で手を組んだとしたら、一体どうなるんだろうか。宝塚は既に公明党のお手軽芸人集団である。宝塚劇場の前に行ってみると分る。スターを迎える異常な集団行動を誰も伝えない。

 今消費税に反対している人たちは、一体、どうやって日本の未来の問題に取り組もうとしているのだろうか。全く見えてこない。反対さえしていれば攻撃されないということでもある。景気が良くなってからというのも一つの理屈だが、彼等は消費税を上げた結果景気が悪くなるという過去の事例を引き合いに出している。しかし、今日の不景気の原因は何も消費税だけではない。かつて橋本政権が消費税を5%に引き上げたことが今日の不況原因だというのか。景気が悪くなった理由は、金融政策の間違い、中途半端な構造改革にあるのではないか。郵政民営化にしても、あれだけ重要な改革を放り出して首相を辞めた小泉氏の責任は無いのか。普天間だって何年も移転作業を放棄していた。莫大な国家予算の優先順を官僚に任せていた自民党の責任もある。そもそも、マニュフェストが実行されないことを非難するのは民主党に票を入れた人であるべき、入れた人が黙っているのは変。入れなかった人や野党は、やっぱりそうだったねということで、その無理を国会の論戦で明らかにすべきこと。途中で政局妨害することではないだろう。そんな連中が持ち出す切り札が領土問題。今これを持ち出して何が良くなる。尖閣諸島や千島、竹島から石油がすぐにでも出て来るのか。戦争したいならそういえよ。そんな論調は戦争したいとしか思えない。これだけ財政が疲弊し、少子化で若者が減っているときに軍備を拡張したり、戦争出来る訳無いだろう。千島だって四島返還してもらいたいが、今実効支配しているロシアの権利を取り上げたり、もう何世代にわたって住んでいる住民を追い払えとでも言うのか。ばかばかしい。ビジョンも無いくせに良くそんな事言えるな。

 野田首相が不退転の決意というのは、あまりにも説明不足だ。実際は、このまま、少子高齢化が進み、また、GDPが上がらなければ、さらに税収不足となり、消費税は20%でも足りないということになるだろう。福祉国家という構造は日本ではどこまで可能なのか。議論をしていない。日本は未来の世代にどれだけ投資をしているのか。若者が就活で大学の勉強に身が入らない事を、あたかも、企業は大学の勉強なんぞ意味が無いとあざ笑うかごとくである。企業エゴがむき出しではないか。我が国が民主主義国家である以上、議会制民主主義で物事を決めようというのが民意である。これを無視する方向は無い。とすれば、国政の大きな案件はやはり、一つ一つ国会で審議し、決めて実行していくという課程を抜くわけにはいかない。独裁者でも無い限り、同時にいくつもの事を決められない仕組みである。だから、いちいち揚げ足を取ったり、政策のマイナス面を取り上げて反対していくと何も進まない。日本という国は蛇のようなひたすら前に進むしかないという限界がある。
 だから、一旦消費税は増額することを決めて、次に弱者救済、また、GDPを上げる成長戦略などを打ち立て、消費税以外の税収を確保する事が欠かせない。それでは今の消費税増税を民主党のマニフェスト違反だとか、野田政権にダメージを与えようとする人たちは、景気を良くする自信はあるのだろうか。もし、消費税増が果せずに、日本経済が国際社会からの失望を招いたり、国債の暴落と金利の高騰を招いたら一体誰が責任を取るのだろうか。何でも言いっぱなしでいいわけない。責任を取る立場ではない連中は、この局面では黙って見守るのがマナーである。
 自分は野田政権がやっとこれまでのピントのずれた鳩山とか、場違いな首相役で恥をかいた菅直人と比べてまともなことをやろうとしており、むしろ、反消費増税派は時代錯誤的な妄想に駆られている。
あの二人は国賊として監獄に送ってやりたいくらいだ。一体、構造改革と景気対策、肥大化する社会保障、さらに震災復興を同時にできる国家リーダーが今の日本にいるのなら、堂々と手を挙げればいい。ヒットラーくらいしかいないだろう。そんな奴が現れたら悪魔に魂を売り渡したドイツになってしまう。議会制民主主義の円滑な運営によって国を治めるしか道は無い。民主党内部では小澤チルドレンなどの若手が選挙目当て、政局ばかりで
難事に対する真摯な対応を怠っているとしか見えない。
 アメリカは日本のように国民皆保険とはなっていない。ところが、国民一人あたりの医療費は経済協力開発機構(OECD)平均の2.5倍近くに膨張。民間保険の医療保険料が高騰し、国民の15%を無保険に追いやっている。無保険者はセーフティネットとしての医療を受けられない訳ではないが、一定額を超えると高額な費用負担に怯えなければならない。日本の場合はバイパス手術を受けても高額医療制度のお陰で、16万円以上はかからない。

 では、アメリカ人は何故国民皆保険に反対するのだろうか。制度というのはやはりその国の背景を見なければ分らない。オバマ政権の医療制度改革は高齢者の薬代とか、がんの検診などは保険適用となり社会的弱者を救済するのだから理想的に見えるが、どっこい国民はそう受け取っていない。良い事は政府が決めるのではなく、個人が選択し、決定する事なのである。政府が決めたことなど個人にとっては余計なお世話なのだ。

 アメリカというのは、人種、所得格差、様々な問題や差別を抱えた国で、どこに視点を持つかを決めないと、奇妙な論調になってしまう。この国の全てを語ることはなかなか難しい。ここでは、何故、オバマ改革が上手くいかないのか、何故日本人の目から見て良い事であるはずの国民皆保険に頑強な反対があるのかを考えたい。そこにはアメリカという国のそれなりの事情と、既得権者を中心とする幸福な社会とが垣間見えるからである。これらは日本人が夢見た世界でもある。もともと毎年多くの移民や違法入国者に悩む国でもあり、彼等に既に社会的地位を築いた人々と同じ権利を与える事が財政リスクを高め、国を危機に陥れるという恐怖感がある。彼等の平等感覚や自由、自己選択行動の尊重という精神基盤の琴線に触れることなのである。アメリカの異常な部分でこの国を見るとそれも間違いだと思う。日本と比較してみると彼等の政治感覚とか、経済を見る目は日本人より自覚的である。我が国のお任せ民主主義とは違った健全な側面を持っていることに気がつかない。えっ?何が健全?いや、文化の違いである。

  アメリカの学校給食でチョコレートミルクを廃止した。砂糖の分量が多く健康に悪いからという。ところが、子供達はミルクをボイコットし、家から甘いソーダとかジュースを持って来てミルクを飲まなくなってしまった。押しつけを嫌う国民性である。よかれと思った政策が押しつけとなる。

民主党オバマ政権は、規制を強化し、無保険者を減らそうと、医療保険制度改革に乗り出した。共和党は激しく反発。オバマ政権が議決した医療保険制度改革について、アメリカ人の38%が賛成、56%が反対という。この制度改革の背景には貧困層の増加がある。
 アメリカの貧困層の数は90年代には1230万人だったが、10年で4620万人に増加。低所得者層が集まる「貧困地区」の人口は同期間に33%増えたという。このため、4500万人の無保険者がおり、医療の恩恵に制約があるという。本当だろうか。実際は様々なセーフティネットがあり、貧乏人も質的には問題があるが、それでも、臓器移植とか高度な医療は受けられないが、日本並みの医療サービスを受けている。何も、全員がのたれ死にをしている訳ではないことをマスコミは報じていない。日本政府も、日本のマスコミもアメリカが変な国で、日本がいかに幸せな国かを国民に諭すのに熱心なのである。とはいえ、今、オバマ政権の医療保険改革は、今年の大統領選挙にも大きな影響がある。【ワシントン時事】米連邦最高裁は26日、2010年3月に成立した医療保険改革法をめぐる違憲訴訟の審理を開始した。米国民に医療保険加入を義務付ける規定が同法に盛り込まれたことが憲法違反に当たるかどうかが最大の争点。医療保険改革は、オバマ大統領が自ら1期目の最も重要な成果の一つと位置付けており、6月にも出る判決は11月の大統領選に大きく影響しそうだ。 医療保険改革法をめぐる訴訟は、共和党系の26州の知事らが全米各地で起こしたもので、すでにバージニア州、フロリダ州の連邦地裁でそれぞれ違憲判決が出て、政権側が上訴した。

 連邦高裁では、ジョージア州アトランタ高裁が8月、加入義務化には違憲判断を下す一方、法自体が無効とした1審のフロリダ地裁の判断は行き過ぎとして取り消した。オハイオ州シンシナティの連邦高裁は6月に、保険加入の義務づけも合憲との判断を下しており、司法判断が分かれる事態になっている。

 医療保険法は、医療費を支払えない無保険者をなくすため、14年から大半の国民に保険加入を義務づけるものだ。無保険者の比率は現在の約19%から16年には8%程度に低下する見込み。ただし、野党共和党は保険市場への政府介入や財政負担が増すとして批判を続けており、同党の各大統領候補も法撤廃を公約に掲げる。最高裁の焦点は、保険加入が、合衆国憲法で規定する「通商行為」にあたるかどうかだ。米国は一般的に州の権限が強く、連邦議会の管轄が限定されているが、憲法は各州間の通商行為については連邦議会に規制する権限を認めている。

 政権は、医療保険がこの「通商行為」に該当するとして加入義務づけは合憲との解釈だ。ただ、関係者は「社会保障の定義も含め、線引きが非常に難しい」とも指摘する。景気悪化で支持率低迷に苦しむ大統領にとっては、大統領選直前に政権の重要施策にお墨付きが得られれば待望の追い風だ。逆に敗訴なら共和党の格好の攻撃材料と化す。
 オバマ政権は所得格差に関する国民の不満、なかでも、NYなどで起きたデモとか座り込みを利用し、貧困層に訴えようとしている。年間20万ドル以上の富裕層に対する増税などである。アメリカで貧困層は増加の一途である。彼等は票田なのである。
 貧困層の増加に関する調査は00年~09年の国勢調査を分析したもので、「貧困地区」は4人家族で年収が2万2300ドルを下回る住民が40%以上を占める地域と定義。アメリカの貧困層のおよそ10%がこの貧困地区に住んでいると推定される。都市部の倍以上の速さで郊外に拡大「今のままでは、貧困地区の住民は公共教育の質の低下や失業問題、高い犯罪率など数多くの問題に直面する」と、ブルッキングス研究所は分析している。
 貧困地区が最も急拡大したのはデトロイト、トリード、ヤングスタウンなど中西部の都市圏。昔から都市部では貧困地区が他の地域よりもはるかに多かった。しかし近年、貧困地区の人口が急増しているのはむしろ郊外で貧困地区は過去10年間で都市部の倍以上のスピードで拡大した。住民の中ではアフリカ系アメリカ人が最も多く、45%近くを占めている。国民皆保険となった場合の医療制度の恩恵は彼等に集中する。彼等は生活保護のような支援を受け、働かずに暮らしているという冷ややかなまなざしをアメリカ人は持つ傾向にあって、一体何故、増税によって彼等の為に自分達の生活が影響されなければならないか、納得出来ない。中流層のアメリカ人は税金が上がるだけで、自分達のメリットは何も無い。払った税金は行政サービスによって戻って来るという彼らの常識に反するのである。

 もう一つの理由は、国民皆保険制度は将来的には増税無くしては維持出来ないし、破綻するだろうということを国民が予測していることだ。日本は、自民党の政権維持の人気取り政策で、田中角栄が、老人医療費無料を掲げたり、国民皆保険制度が我が国の医療の優れた点だと喧伝するが、これがまた、国家財政逼迫の原因一つである。この事を批判するのが財務省だけで、国民はその結果が予測されるにも拘らず、見て見ぬ振りをしてきた。医療に関しては眼をつぶる。国民皆保険などは恐らく大きな財政圧迫要因で、アメリカの財政赤字はこれのために加速するだろうという危機感がある。その点アメリカの世論は明解である。さらに、アメリカではこうした国の定めた制度としての保険に強制的に縛られることを嫌う国民性がある。選択の自由を奪われる事は国民意識を逆なでする事なのである。

 彼等が嫌うのは、国民「皆」保険といった全体行動である。選択性こそ自由ということである。一律という政府の押しつけ保険に入る事への抵抗が強い。彼等とって自由とは選択の自由の事であるからだ。まるで共産主義とか、社会主義的な結果が見えている制度であると考えるのである。政府の巨大な保険機構が出来、中途半端なサービスしか出来ないだろう。さらに、これまでの保険会社は危機感を感じている。彼等が猛烈なロビー活動を行うのである。彼等は選択の自由の無いサービスを信用しない。必ず無駄が出て、社会的不経済を起すという懸念を持つのである。この点、日本人はあまりにも受け身である。日本の医療保険も組合保険とか、国民健保、政府管掌保険とか、加入者の負担も様々だから税金ではないと思うが、国民経済的には税金と同じようなものである。個々の医療サービスの単価、あるいは定額払いの単価は、厚生労働大臣の諮問機関である中央社会保険医療協議会(中医協)が決定。これは公益、支払側(保険者)、医療側の各代表から構成されて地域により価格は若干異なるが、ほぼ全国同一価格であり、医療の質を無視した配給制度のようなものである。だから、闇も存在する。私立大学病院などで手術をすると教授に頼めば多額の謝礼が飛び交う。この健康保険の使い道や保険点数、医療費の決定は極めて限られた人たちが密室で決めている。その使途には国民の目が届いていないのが現実である。
「ガタカ」のアンドリュー・ニコル監督が、ジャスティン・ティンバーレイクとアマンダ・セイフライドを主演のSFアクションサスペンス。科学技術の進歩によりすべての人間の成長が25歳で止まり、そこから先は左腕に埋め込まれた体内時計「ボディ・クロック」が示す余命時間だけ生きることができる近未来が舞台である。貧困層には余命時間が23時間しかない。主人公ウィルの母親もそれで亡くなる切ない前半の展開。富裕層は永遠にも近い時間を手にする格差社会が生まれていた。ある日、ひとりの男から100年の時間を譲り受けた貧困層のウィルは、その時間を使い富裕層が暮らす地域に潜入。大富豪の娘シルビアと出会い、時間監視局員(タイムキーパー)の追跡を受けながらも、時間に支配された世界の謎に迫っていく。このあたりから、ドラマはまるでボニーとクライドといった様相となる。時間を貯める電池のようなものを強奪して、貧困層に分け与え、大富豪のもっている時間銀行を攻撃する。

何ともユニークな発想で、時間という限りある道具を縦横に使ってドラマを展開して行く流れは見事である。場所は、何だか、現代のロサンジェルスなのである。彼等の階級社会が、古くさいマルキシズムの見た資本主義社会というのが気になる。何ともそのあたりの解釈が安っぽいのだが、ハリウッドの見た経済社会の限界だろうか。あるいは、今日の格差社会に対する象徴的な表現だろうか。いずれにしても、その視点のユニークさが場面を盛り上げてくれる。
# by katoujun2549 | 2012-03-17 18:10 | 映画 | Trackback | Comments(0)
 国家の危機はまさに今迫っている。東日本大震災とそれに続く直下型地震の危険性が忍び寄り、無能な政権のお陰で北はロシア、東は中国と北朝鮮が力づくで日本の領土を脅かそうとする。長いデフレから脱却出来ない経済。企業も新しい展望が見えず、防戦状態が続いている。こうした国家の危機は誰かが訴えなければならず、それが橋下であろうと、石原であろうと、我々は今の日本が置かれている状況を何とか変化させようとあがいている。このことは経済会のリーダーや国会議員も同じだろう。何とも閉塞感漂う時代だ。そこに登場した橋下は世間の注目を集める事に成功した。

 二人の言動で共通しているのは、必ず敵を作ることである。この手はヒトラーがユダヤ人を敵とした事にも似ている。彼等の敵は、意思決定の遅い民主主義、権限を越えて動きの取れない役人、さらにはアメリカに押し付けられたと決めつけた日本国憲法、特に憲法第九条だろう。しかし、今も、そして行政がこれまで果たして来た役割を無能無策と決めつける。それなら彼等は一体何をしたのだろうか。

 石原慎太郎は、元山下汽船の役員の家に生まれ、当時の家庭における戦争による犠牲から逃れていた。石原慎太郎の思想の古くささは当時の教育にあるようだが、我が国が何故戦争に負けたか、その責任は誰にあったか、勝算のない戦いを進めた帝国軍人の責任を忘れて、戦争を語ろうとする。
 彼は本来、国を動かすほどの人材でないことを自分では良くわかっている。かつて、作家としては三島由紀夫の文章能力の後塵を拝し、演劇では浅利慶太には敵わない。さらに俳優としては石原慎太郎の足下にも及ばない自分に見切りをつけ、これまでの名声を利用して参議院議員で登場した。その志はあっても、運輸大臣として、また、東京都知事として大した業績は無い。小心な心は、一時そのチック症状に現れていた。小心者の特徴だが、敵を作って民衆の気持を逸らすが、その目的は自分の優柔不断をな心を見破られないようにである。

 橋下氏は、もう少しましな感じがある。しかし、彼も、自分の力の無さを隠す為に、敵を作る事に余念がない。彼が狙うのは、石頭の小役人とか、日の丸や君が代に敬意を表さない変わり者の教師である。彼等は何も今日の日本の停滞を招く程の権力も、影響力も持ち合わせていない。生贄にして周囲を震え上がらせれば良いのだから。彼の歯に衣着せぬ言動は、これまでの行政に不満だった人々、というより、不景気に喘ぐ人々の共感を得ることに成功した。維新の会の政治塾300人定員に4000人も応募して来たのだから。彼はこれを民意だと思うかもしれない。実際は、いろいろな思惑をもって入って来た人々だろうと思うが、そんな事は気にもしないであろう。そうした楽天的なとことが彼の良さかもしれない。
 
 二人のそうした考えが実際は政治的には結構意味を持って来て、これを利用する人々が生まれる。民主主義の意思決定プロセスは実際面倒であり、決定に時間がかかる。これを補うような仕組みがなかなか生まれない。アメリカの大統領制度はその中で解決策ではある。橋下氏にしても石原氏にしても、組織を引っ張って行くにはもっと別の力が必要だ。第二次世界大戦の時にチャーチルが果したように結束を呼びかけ、皆の能力が発揮出来るよな取り組みがそれであり、これは協調、共同、絆、愛情といった概念である。彼等はこれが決定的にかけている。ビジネスでも、何も競争ばかりではない。橋下氏は司法試験に勝利し、選挙にも勝ち、競争の覇者だから、競争が大切dと思うかもしれないが、世の中を動かすきっかけはそればかりでは無い。外交政策にしても、経済でも競争ばかりでは無く、互恵的な関係こそが、社会を向上させるのではないだろうか。今日の平和は、そうした互恵的な関係に入れば、戦争など起きる余地が無くなる。中国でもそうではないか。北朝鮮やロシアと敵対するばかりでは衝突のリスクは増す一方ではないか。互いの面子などは小さな問題になるように経済関係を築いていくことこそ
安全保障の道である。しかし、敵対的な北朝鮮のような国には制裁が必要なことは論をまたない。彼等そうした中にある拉致被害者のことに対しては何故か無頓着に見える。多面的な視点の無い、橋下、石原両氏の強引な政策が、それに慣れない国民を再び破滅の道へと導家内とも限らないのです。



 人間いつ死ぬかというのは我々の判断出来る事ではない。最後を迎える時でも、昏睡状態が何日も続くことがあるかと思えば、数日とか、1日ということもある。とにかく、命の事は最後まで我々人間の領域ではない。危篤状態ということは医師も判断できるが、何日とか、何ヶ月先ということも無理だろう。医療の立場からは、経験上予想はできても、患者や家族には何時亡くなっても不思議は無いという表現しか出来ない。延命措置をするか、しないかの決断を迫ることくらいで、患者の方も、辛い決断であろう。しかし、今日、癌など、病気で回復不可能という場合は、人工呼吸器や心臓マッサージなどの延命措置は行なわないのが通常の措置になってきた。

 今日、在宅でかなり病院に近い設備が設置出来る。しかし、それらの機器の性能は終末期に対応した内容ではない。酸素吸入器は在宅用で5L/分が最高である。だから、肺癌なの呼吸困難を終末期に伴う病気では対応出来ない。病院の機器は10L/分が可能である。終末期に必要となる痰の吸引も家庭でも可能だが、例えば、ALSなどの患者なら家庭で行ない、長期の療養である為、家族も慣れて来る。

 しかし、病変は時を選ばないし、全く予測不能な時が多い。しかも、癌の末期には疼痛とか、肺癌などは呼吸困難を伴い、患者は苦痛を訴えるだろう。そうした場合はやはり、病院に救急搬送し、病院での治療となるだろう。患者に経済的余裕があれば、病院の差額ベッドで2.5万円〜3万円/日くらいで広くて設備の良い部屋を提供してくれるから、家族や親族が看取りや看病に訪れるためには病院の方が都合がよいと思う。ただ、病院でも可能な治療というのは終末期には限界がある。では、家庭でどうかであるが、昔のような大家族なら人でもあるが、今のような核家族で、しかも家族が仕事を持っているような場合はやはり家庭で難しい。在宅の看取りには時間も人手もかかるのである。

 癌の末期では、疼痛とか呼吸困難が始まると、あとは緩和治療だけである。抗がん剤などで癌を叩く治療そのものが死を早めることになるからだ。人間最後は、脳が停止するか心臓停止、または呼吸が停止しsるれば人は死ぬという厳しい現実があるということだ。ただ、何時、何日後、あるいは何週後かも医師といえども予測出来ない。経験上、何時天に召されてもおかしくないと言うしか無い。死というのは医療の領域というよりやはり、神様や仏の世界なのである。医師は法律上確認する事しか出来ない。

 精神病の治療をどうすすめるか

1.発病に気がつくかどうか

 毎年3万人以上の自殺者が出る我が国であるが、7割以上は何らかの精神疾患にかかっている。
 家族に精神病の症状が出た場合、先はそれが、家族との人間関係による気分的なものか、病気の症状であるかを見極めるのが難しい。本人の性格的な傾向とみて好意的に理解しようとすることもあろう。ところが、鬱病や、統合失調症は早期治療による改善が得られる病気なのだからこれを早く見付けなければならない。家庭の人間関係というのは日常性が目的であるから、何とか元に家族は戻そうとする。そのうち、治療の機会を失うと状況は悪くなる。
 鬱病が困った病気なのは、ある程度治療が進んで、治りかけた人が自殺をする事例が多いことだ。病気でぐったりしている期間は、口では「自殺する」と言っても、元気も無い。注意しなければならないのは治りつつある時、衝動的に行動する元気が出てしまうのである。何らかの兆候を見つけて、早いうちに家族が治療に向けて支えなければ、手遅れになる。

 鬱病にしても、統合失調症にせよ、患者本人の自覚が初期の場合乏しく、どうも周囲の人間関係がうまくいかないことに本人と家族がそれぞれ一人で悩む場合が多いのではないだろうか。世間体も気になるから隠そうとしてそれが治療のタイミングを遅らせる。だからそうならないように兆候を掴まねばならない。
 鬱病の場合は朝寝床から起きる事ができないとか、部屋を暗くしないと眩しい、また、眠れないなどの症状が出て来る。しかし、この程度では家族は気がつかない。つい頑張れとか、何やってんだと言ってしまう。これが患者にはとてもつらい。統合失調症の場合、鬱病と同様の症状に加え、様々な形があり、妄想や幻覚が出て来るが、それには、患者が家族には告白せず、自分だけで抱えている。そうした症状につながる奇妙なことを口走ったり、何らかの行動を取ったりするようになると、家族以外の近隣の住人や学校や会社の同僚などから指摘されて発見する事も多い。精神病は人間関係が正常に続けられない事が困ることである。家庭内では皆が我慢すればいいが、社会性に問題が出ると家族は隠しきれなくなる。現代は企業も、組織も一定の常識の中で動いており、これに外れた言動は排除されてしまう。古代においては統合失調症というのは存在しなかったという説もある。夢見る人、不思議な幻覚が見える神秘的な人として特別能力者扱いされていたこともある。巫女とか預言者などもそうした性格があったのではないだろうか。精神病を隔離し、社会から排除するようになったのは近代であり、この点を指摘したのがフランスの哲学者ミッシェル・フーコーである。彼は『狂気の歴史』『監獄の誕生』でこのことを明らかにしている。

 被害妄想の場合、自分が病気であることを否定し、周囲に対する警戒感を膨らませ、病院に行く事や服薬を拒絶する。そこが家族の悩みでもある。家族が本人のいない部屋で、対策を話し合ったりすると、じっと息をひそめて、何をされるか敏感に察知し、その対抗策を考えて抵抗する。もの凄く神経が研ぎすまされ、超能力を発揮する場合もあり、2階にいても1階での話し声を聞いている。苦痛の原因が自分の身体状況である事に気づくと一歩前進である。

 映画、ビューティフルマインドでは統合失調症に罹った、天才数学者ジョン・ナッシュが自分の小屋に籠り、宇宙からの攻撃を防衛する基地を作っているシーンがあった。統合失調症になると、部屋に落書きを書いたり、部屋を暗くし、幻覚の世界に入って行く。その病気の特徴を見事に描写していた。また、鬱病の患者も、掃除をしないので、部屋がゴミだらけになったりするので、家族は次第に発症に気がつくようになる。鬱に悩んでいた友人の家に行ったが、土足で部屋に入らないと歩けない程汚れていた。異様な感じになる。映画では、ラッセルクロウ演じるナッシュ先生が講義中にソ連のスパイに追いかけられる妄想にかられ、逃げ出すシーンがあった。周囲も普段は気がつかないか安定しているのだが、突然、パンツ一丁で街路に飛び出したり、公園で大声を上げて叫んだりすると全く家族は困って、精神病院につれて行くことになる。他人に暴力を振るったり、時には殺人に及んだりするのが被害妄想系の統合失調症だが、実際ここに至るのは稀。全く気の毒な病気である。鬱病なら閉じこもるし、女性の統合失調症では夢見る恋人の名を路上で叫んだり、架空の恋人を雨の深夜にバス停で待ち続けたりする。そのひとの社会的な立場によって症状も変化する。ここに至ると奇妙な事をしてしまった自分に気がついて、従順に治療をうけるようになる。そうした場合、宗教に凝ることは現代の医療では嫌う。治療の機会を逸し、悪化することが多いからだ。

2.投薬治療に入れば成功か

 精神病の初期治療はとにかく、医療機関に行く事で半ば成功である。家族との話し合いとか、カウンセリングでは治らないから「病気」なのである。インフルエンザが話し合いで治らないのと同じだ。
 もちろん、精神病の治療にはカウンセリングと投薬がある。患者からヒアリングをしながら症状を探り、適した薬を選択する。かつては副作用の強い薬が多く、倦怠感や体のだるさからやはり寝込む事が多く、仕事を持っている患者には辛い治療であった。ところが、近年セロトニン再取り込み阻害剤(SSRI)という薬の開発が進み、かなり改善されてきた。パシキルとかジェイゾロフとという薬の名前である。いずれも症状を抑え、高低差の激しい患者の気分を平衡状態にさせるものである。しかし、困るだが、どの薬もそうだが、副作用がいやで止めたり、長期間使用すると効果が薄くなってくる。だから、薬を変えたり、治療方針を変えたい。ところだが、医師はなかなか変えない。何とかしようと病院を転々とすることになるが、前の病院の紹介とか、引き継ぎがあって、これも変化がないまま時間がたっていく。患者も家族も疲れ果てる。例えばの話だが、雅子妃殿下の治療に芳しい効果がない理由は、多分高名な医師についていて治療方法が変化せず、角度を変えた治療を試みることができない。特に皇室内では経過観察が難しい、特殊な環境のせいであろう。

3.治療の成功例

ある患者は統合失調症の治療に10年以上苦労していた。癌になり、大学病院に入院した。彼はそれまで既に癌になっている事を知っていたが、自分は幻覚の名医に相談し、治療をしているという錯覚に陥っていた。末期になるまで家族にも黙っていたが、遂に癌が背骨に転移し、激痛が走るようになって初めて家族に告白したのである。そこで家族は病院で精神病の治療もするように勧めた。抗がん剤治療のため別の病院にも入院し、同様に精神科医の治療を行った。更に在宅で訪問の医師の診断を受け、結局3回の診断で薬を選択した結果、統合失調症の症状はすっかり消えてしまった。末期がんであったが、精神的な平衡を保ち、家族との円満な人間関係を回復すると癌の進行も緩やかになり、結局、延命することができた。その患者は6年後に癌で亡くなったが、家族は患者と精神面で症状が消えたため正常な関係を結ぶことができた。最後は幸せな日々を過ごすことができたのである。
 こんな事例は稀で、普通は医師の格好のお抱え患者、お得意さんとなり、体のよい金ズルになってしまう。その状態から脱出するのは容易ではない。親類などは、何で病院に入院しないのかといぶかるが、実際入院する段階かどうかを判断するのは医師だから困る。家族の都合では精神病院を隔離施設としてしまう。今日解放病棟とか通院治療が主流となっていることに無理解なのである。

 患者の自覚的な療養というのは、自分の症状を本人が理解し、自分の症状に程よく付き合う事である
。統合失調症などは完治は難しいのであるが、程よくコントロールすることは可能である。これが上手くいかなければ、嫌なことばだが、「廃人」という状態になってしまうか、自殺したりする。自分自信をコントロール出来なくなるから、家人の介護状態となるのである。そうならないように、早期発見することが大切である。

 イエス様の奇跡物語で5000人の人々にたった5匹の魚と5個のパンで全員が満ち足りたという箇所がある。マルコ8章では4千人に8個のパンと僅かな魚、マタイ伝では5千人に8個のパンと2匹の魚となっていてその説明はかなり執拗である。このパンの奇跡は新約聖書の4福音書全てに書かれている。何かが起きた事は間違いない。イエスが奇術の技を持っていたという説もあるが、そうではない。一体何を示しているかを考えると、聖書の読み方も変わって来るだろう。その奇跡を分析する程つまらないことはない。

 荒れ野で大勢の群衆を前に、イエスは神の国を説いた。そのとき、現代とは違って。皆旅をして来る。場合によっては何日もかけて来る。そうした場合、近所の人は食料を必ずしも持っていないが、遠路の人は必ず持っている筈だ。ガリラヤ湖のほとりで魚は捕れるし、干した魚なども売っていたかもしれない。だから、イエスがそうした食事に対して、象徴的にパンと魚を皆の前で並べて示すとそれが食事の合図となり、皆が分け合って食べた結果、7篭ものパン屑が集まったのだろうと考える事ができる。しかし、教団にとっては、食事の支度をしなかったことがイエスに救われたため、その感動を伝えたのかもしれない。何だー結果オーライではないか。というとつまらん。そんなことはどうでも良い、素直に奇跡を受け入れればいい。

 神は常に福音を証し、述べ伝える時に必要なものを備えて下さる。出エジプト記の砂漠で放浪中のユダヤの民の上に降らせたマナの雨然りであり、旧約聖書はそうした神の奇跡の歴史であった。神は全てを用意して下さる。神は信頼関係をもてば必ず、答えて下さるという事である。
 聖書の奇跡物語は一見荒唐無稽のような表現が現代人にはあるが、信仰生活 、教会生活を長い間送っているうちに、成る程と思うことがあり、聖書の読み方にもかかわって来る。福音派では聖書を文字どおり解釈する。歴史的な出来事と主張するが、中には象徴的な表現としたり旧約聖書には神話に起源を持つ物語もある。このパンの奇跡は、教会での集会などで、不足の物があったりしても何とか旨く治まることがある。全く、不思議な感じになることがある。当時も、そのようなことがあったに違いない。

 教会では聖餐式で小さなグラスで葡萄酒と二センチ角のパンでキリストの身体を象徴としていただく。カトリック教会は葡萄酒は神父が全てミサの後飲んでしまい、信徒は聖餅という丸いウエファース状のものパンの代わりに神父から頂く。キリスト教にとってこの儀式は最も重要なサクラメントー秘蹟である。この扱い解釈をめぐって宗教改革の論争がおき、教会の分裂を決定したのである。

 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。
夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」
イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」
弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」
イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。
すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。
(マタイによる福音書:14章14節~21節)
 1.河村たかしの南京からの訪問団への発言

 河村名古屋市長が、「南京大虐殺は無かった」発言をした。このために、南京市からは名古屋市との姉妹都市解消騒ぎになっていることがニュースになった。中国では南京で日本軍が30万人以上の民間人を虐殺し、その記念館が観光客に公開され、反日感情を高めている。南京大虐殺は東京裁判にも取り上げられ、死者20万人とされ、日本の平和に対する犯罪行為として、裁かれた。司令官、松井石根大将はその責を取って、戦犯として絞首刑になった。国民党の宣伝が共産党に引き継がれ、誇張された。しかし、不思議なことに、当時戦った国民党軍の蒋介石は、南京でこのようなことがあったことを台湾から日本人に抗議したことはない。むしろ、松井大将の死を悼んでいたという。この事件を拡大してプロパガンダに使うのは、南京と関係なかった共産党であった。いかにもヒステリー気味、共産主義者特有噓八百ではないか。

 江沢民などの中国政府の一派は、いまだに日本軍の蛮行を誇張してこれを取り上げ、反日感情を煽ろうとする。諸外国に蹂躙された記憶を忘れない為というが、実際の中国の悲惨さは実は内戦と共産党政権の失政にある。当時、日本軍に包囲された南京市民は多くが市街から避難し、10万人程しか市内にはいなかった。なぜ、これが30万人以上に膨れ上がるのか、多くの識者はここに疑問を呈している。河村たかし氏はまさにこのことがいつまでも日中間の刺のようになっている歴史認識を改めようとしている。まことに勇気ある言動である。しかし、暴言でもある。

2.中国の捉え方
 しかし、彼の意図にそって事は進まない。彼等はもっとしたたかであって、これは一南京市の問題ではなく、戦後の中国の対日政策、政府の見解も連なり、むしろ、虎の尾を掴んだだけで、何もこれでは動かないだろう。象の腹を蹴飛ばしたようなことになって、相手は暴れるだけで何も得られない。今後ネットによる嫌がらせ、政府からの抗議、南京市の批判など名古屋市は対応に追われるだろう。そうした混乱を河村市長は予測していただろうか。
 歴史を中国の側から見る視点を失わない方がいい。中国は日本を爆撃したリはしていない。戦場となったのは中国。本当の日本軍の無茶苦茶な行為は戦争末期だったはずだ。秦氏の説では南京では3〜5万人くらいという数字である。大きな数値であるから、全くなかったという主張は通らないだろう。というより、中国は、日本軍の中国での戦争行為の象徴として取り上げているのであって、否定するならば日本軍の中国侵略も無かったと言うに等しい。そのレトリックにどう答えるかを用意せずにいきなり南京大虐殺は無かったという事だけを主張しても反感を惹起するだけであろう。他国が戦場になれば当然多くの蛮行が起きる。戦場になった国民の立場に立たないと問題はこじれるのである。実際、日本軍との戦いで多くの中国人が亡くなった。さらに国共内戦、共産党支配の中での死者はその比ではない。でもこのことを言っても始まらない。歴史認識の問題は友好使節団に話すべき事ではないのである。沖縄で一少女が海兵隊に暴行された時の事を思い出すべきだ。昔はニュースにならなかったことかもしれない。しかし、今は違う。過去の事は現代では何十倍にも大きくなる。虐殺は無かったといえば、中国側は0ではないことを理由に攻撃して来る。所詮敵わない議論なのだ。30万人という規模は無かったといっても始まらない。無かったという言葉尻だけを取り上げられるのである。

3.南京事件とは
 そもそも、南京事件は、日中戦争(支那事変)初期の1937年(昭和12年)に日本軍が中華民国の首都南京市を占領した際、約6週間から2ヶ月にわたって中国軍の投降した便衣兵、一般市民などを殺したとされる事件である。東京裁判は1946年だから、9年も前の、しかも、戦場での出来事だから、証拠は証言以外には無い。この事件は日本でも研究者が、多くの研究を行い、民間人の死者数はさらに不明である。そうした中で虐殺があったか、無かったかも含め、死者数を論争することは全く意味がない。推測こそできるが、どのような状況で何が起きたかを理解する必要はある。しかし、一方では、政治の世界では歴史認識とか、領土問題から外交に入るのは絶対にタブーである。
 Wikipedia では次の説明がなされている。
 「南京事件以前にも、日本軍は移動中に上海、蘇州、無錫、嘉興、杭州、紹興、常州のような場所でも捕虜や市民への暴行・殺傷・略奪を続けていたとされ、日本軍将兵の従軍日記や回想録から、進軍中にそれらが常態化していたのではないかと疑われている。一方で、「中国軍が民間人を巻き込むため国際法で禁止されている便衣戦術(ゲリラ戦術)を採っていたため」という理由や、中国軍が後退する中で後に来る日本軍に陣地構築の資材や建物など、利用できるものを何も与えない為に、中国人自身による民間人への暴行・殺傷、民家焼却を行う空室清野戦術によると見る向きもある。また兵士の日記についても通常一兵卒が所持する事が出来ないはずの万年筆で毎日の様に記録されていることから、従軍中にそのような余裕はなく捏造ないしは誇張されたものであるとする指摘もある。上海から南京まで追撃される中国軍に従軍していた『ニューヨーク・タイムズ』のティルマン・ダーディン通信員は、上海から南京へ向かう途中に日本軍による捕虜や民間人の殺害や略奪を目撃したことはないし、聞いたこともないという証言をしている。」当時の陸軍は世界有数の統率の取れた軍隊だった。しかし、従軍記者であった石川達三は行軍中の蛮行を書いている。真偽も不明だが、軍紀違反は秘密裏に行なわれ、南京事件も軍の指示ではないが、当時の松井司令官はその報告を受けて激怒したというから何かあった事は確かだろう。

4.歴史認識と研究

 秦 郁彦(はた いくひこ)『南京事件 虐殺の構造』中公新書 1986における研究が我が国では最も常識的な分析と言われている。もちろん日本の右翼などにはこれも否定し、ただの幻であったと主張する。嫌なのは石原慎太郎とか、あの横暴な軍部まで肯定しかねない人たちが勢いずくことだ。東京裁判を全て否定するグループはその傾向である。日本軍は第二次上海事変で南京に行くまでに日本側は3ヶ月で戦死者10076名、戦傷者31866名、合わせて41942名の死傷者を出し、日露戦争の旅順攻略にも匹敵する凄残な消耗戦であった。さらに南京までの進撃中や、南京市街戦でも多くの犠牲をだしたが、勿論中国軍も10万人以上の戦死者を出している。特に、南京が包囲される時に、中国軍は脱出させなかった為に、多くの兵が取り残され、しかも、脱出しようとした兵士は自軍の督戦隊によって殺されている。市街から脱出出来なかった兵士は便衣に着替えて市民の中に紛れ込み、年齢もまちまちで、少年を含んだ兵士が占領した日本軍に摘発され処刑された。この際、市民も中には混じっており、また、摘発中に強姦や略奪が無かったとは言えない。そこを被害者である中国は主張しているので、後の1941年以降三光作戦も実施した日本軍の蛮行はあったから、全くなかったと加害者の日本は言えない。そもそも、第二次上海事変自体、国際的には中国側の攻撃も、民間地区を爆撃し、ホテルなどを破壊して多くの犠牲を生んでいるし、国民党軍は、当時のドイツから支援を受け、ゼークトなどの軍事指導のもとに、日本軍を叩きにかかったのである。日本軍は我慢を重ねた上で出兵している。国民党軍は当時の最新鋭であったチェコの機関銃を多く保有し、日本軍をトーチカに引きつけて犠牲を強いた。彼等の蛮行で多くの中国人が死んだが、それも日本軍のせいになっている。
 アメリカでは歴史を検証することもなく、議会や裁判で、何も知らない米国人に反日的な意識を植え付けて、金銭的な利益も上げようとする輩がいて、真実も何もあったものではない。日本軍をナチスと同列にして自己主張する危険性を孕んでいる。

5 河村たかしの狙い

 河村氏の言うように、第二次上海事変当時は中国人の日本軍に対する印象は必ずしも悪くなかった。というより、恐れていたし、中国人は強いものには従順なのだ。八路軍が勢力を伸ばすにつれ、その巧みなプロパガンダに影響され始めた。国民党軍は略奪暴行が多く、むしろ彼等は自国軍を恐れていた。南京でも城内にいた中国軍は親日と思われる市民を殺害したり、横暴で、多くの死者が出ていたという。自分の知る範囲では、日本軍は駐留中、そこの土地の家族に迎えられて楽しくやっていた連中もいたのだ。自分の父親が南京で好意的に受け入れられたことを感謝すればそれで良かった。しかし、覆水盆に戻らずである。河村市長はそのことを言いたかったのだろう。彼は、今、橋下旋風に押されて名古屋では失望感が強い。そこを挽回する為に言いたい事を言ったマスコミ受け狙いの危険な行為だとも言える。
 中山大三郎 作詞/作曲 の無錫旅情は尾形大作が25年前に歌い、ヒットした。無錫市はこの歌を日本との友好の象徴として、大切にしている。無錫市は日本企業を活発に誘致し、1,000社を越える企業が活動している、東芝、三井住友海上、IHI、富士フィルム、トヨタなどの三井グループのみならず、シャープ、三菱重工など代表的な製造業が工場を稼働させている。1兆円を超える貿易額を誇っている。そのことを一般には認識されていないが、これも地域的に親日の土地柄であり、日本企業も仕事がやり易いのであろうか。今、この街の中国における消費と交通の要港としての位置はますます価値を高めている。日本では上海や北京ばかりが中国だが、実際南京、大連など地方都市の興隆も猛烈である。無錫は太湖の沿岸であり、風光明媚、また、杭州にも近く、食の文化もレベルが高い。特に、上海蟹の産地でもある。観光地としても日本から成田、関空から週1便だが直行便がある。
 中国でのビジネスはこうした地方都市の方がやり易いのでないだろうか。大企業はやたら上海や北京で名を挙げたがるが、中国側は必ずしも歓迎ではない。もう彼等は外国の勢力に頼るものは無い。むしろ競争相手となる。とくに小売業はそうである。だから、以前、三光三越は北京で痛い目に会ったのである。首都ともなると、共産党の息のかかった企業が多く、これらが競争相手になるのだから初心者には厳しい相手である。彼等は裏に回って政府を巻き込んで抵抗するだろう。
 無錫市は今、太湖の環境汚染もあって、重化学工業かや製造業からアニメなどのソフト産業に転換の努力を始めた。また、交通拠点の開発や商業ゾーンのショッピングモール誘致などに熱心である。




 20日に芝のプリンスタワーで無錫市の主催で、日本と無錫市の交流25周年に出席した。無錫旅情が歌われて25年にかけたイベントで実に巧みな演出で、多くのワークショップも開かれ、市からは200人を越えるスタッフが来日、招待者1,000人ほどの大宴会が行われた。企業トップ、政治家、無錫市長、共産党区書記が中心に多くのスピーチが続き、何と、2時間に及び、乾杯の後は堰を切ったような大宴会となった。名刺交換に大忙しの企業の人々、ボランティアの音楽演奏などで会は盛り上がる。もちろん太湖の環境汚染などは何処吹く風である。
 今の中国の勢いを感じさせる会であった。日本のパーティと違い、各テーブルでの着座式で、中国スタッフがお酒を注いで回るアジア式のパーティであった。尾形大作も来て無錫旅情などを披露し、会を盛り上げた。このパターンは日本も中国も共通で、欧米式とは全く形が異なるものである。最初から、最後まで、きちんと管理された宴会という感じであった。我が国がバブルで賑わった20年前を思い出して懐かしかった。

 中国は今年政権交代の時期に当り、先週も習近平がアメリカを訪問し、元首並みの扱いを受けたが、オバマ大統領、バイデン副大統領以下のアメリカの首脳との会談は、アメリカからは中国の国際社会への関わり方の修正を求めるクールな内容となった。中国に取っては次期リーダーの地位を確立する為の国内向け訪米であったといえる。人権問題や元の切り上げなど、公平性の問題を依然変えようとしない共産党政権へのアメリカの目線は必ずしも温かいものではなかった。国際社会に対する中国の強引な姿勢、特に、台湾や海洋覇権への露骨な自己主張はアメリカに取っても危険な方向である。中国の重層的、複層的な社会構成をどうみるか、自分も戸惑いを感じるが、中国という国は大陸社会、日本人のような話せば何でも通じる社会ではない。また、彼等の独善的なしきたりを変えようとはなかなかしない。彼等は、鯨とか、象のような巨大な生物体として考え、その動きを無理にコントロールせず、彼等の無理の無い目標をこちらか設定して、導いて行くしか無いのではないか。そのためには言うべき事はきちんと言い、頭の部分はしっかり抑えておかねばならない。頭とは共産党と人民解放軍である。
 中国国内の問題として所得格差が指摘される。しかし、中国を見る場合、平均値という概念はほとんど意味をなさない。都市と地域・地方、指導層と人民、企業と労働者、商業・工業・農業それぞれ格差があり、指導層の所得は極端に高く、一般労働者はなかなかその恩恵に預かれない。しかも、行政や共産党の内部では、地位を賄賂で得たり、事業の利権を巡っての不正が横行しているという噂が絶えない。だから、中国は崩壊に向っているという人がいるが、それは間違いだろうと思う。むしろ、本来の中国に成長しているということである。

 心臓バイパス手術は今や国内で年間1万5千件も行なわれ、成功率98%となっている。三井記念病院では死亡例はH18年で、3年に1回、0.3%ということであった。その患者さんは虫歯から菌が心臓に回って亡くなられたとのこと。そのため、虫歯の治療は必須となっている。バイパスは心臓の冠状動脈が2本以上狭窄している患者が選択する事が多い方法である。狭心症の治療では狭窄個所が1本1カ所であればPTCA(カテーテルによる治療)により、螺旋形状のステントを狭窄部に入れて拡張する方法が循環内科で行なわれる。最近は血液を固まらないようにする薬剤が形状記憶合金から出る素材があり、2カ所でも循環内科で治療できる。その為、心臓外科と、循環内科がその効果に関しては、術後の経過に関して今も、論争があり、どちらも譲らない。今回の天皇陛下のことで外科が脚光を浴び、外科はしてやったりといったところ。しかし、狭窄個所とその程度によって判断され、重症にはバイパスの方が心臓に関しては後の結果は良いといわれる。今日、天皇陛下は4時間半で2本のバイパスを形成したが、これは流石に順天堂大学病院と東大病院の合同チームという最高の権威による手術てあり、その手術時間の短さなど、流石である。東大は心臓バイパスでは必ずしもトップではないから、適切な選択をしたということである。特に、血管縫合は職人技で大学とは無関係といってもよい。経験が全てで、むしろ、権威主義的なところは若いうちに手術経験が乏しいことがある。背に腹は代えられないということでしょう。
  
 小生は今から4年前、三井記念病院でバイパス手術を受けた。3本のバイパスを天皇陛下と同様、オフポンプで心臓を動かしたまま、内胸動脈と、左橈骨(とうこつ)動脈をグラフト(バイパスに使う血管)に使用する手術で7時間の手術であった。心臓バイパス手術はだいたい、1本に2時間、その他の作業に1時間で4本であれば9時間になる。天皇陛下の場合、普通より1時間程早かったのではないだろうか。また、出血が少ないということは、執刀医が血管の位置を熟知しており、メスが血管を避けた結果と止血も上手だったのだろう。このあたりの医師の経験と技能には差がある。最も重要な、血管の縫合はまさに職人技である。接合部を奇麗に繋げる人が名人、糸を結合したところが団子状になって、猫の手みたいになる医師もいる。一本縫うのに5分とかからない医師もいるし、何十分もかかる場合もある。そんな腕でも、テレビに出るとスーパー心臓外科医として紹介されている。順天堂の天野先生は、まさに、この世界でゴッドハンドといわれる人なのである。

 天皇陛下は以前、東大病院で前立腺癌の手術を受け、その際、輸血用血液を採血し、冷凍保存してあり、これを捨てるかどうか問題になったようだが、今回は出血も少なく、その血液を使う事も無かったようだ。このバイパス手術に関してはかつて20年前は、東大病院でも、手術が成功しても、その後の再狭窄などで、病状が悪化して、数年で亡くなるケースが多かった。これらは成功率に換算されていない。実際は患者の病状に応じた成功率が真実の姿なのである。狭心症になる患者は多くが糖尿病や腎臓病になっている。そのため、入院しても手術に入れなかったり、血糖値を下げるために、数週間の入院を余儀なくされることも多い。手術後は2週間くらいで退院する。原則として、安静時血糖値が100以上だと術後の傷口がくっつかないため、回復が遅く、合併症の原因にもなる。外科はこの数値にこだわる。内科の領域である糖尿病そのものには関心が無いらしいが、そもそも、糖尿病で高齢の場合、血管がぼろぼろで、2ミリほどの血管を結合するときに、縫合時に血管が破れたり、術後の治癒や再狭窄のリスクも高い。病院評価でも実施件数と成功率だけが問われるが、実際は問題はその患者の状態にある。救急患者であれば、バイパスは行なわない筈。バイパスには準備が必要でこれが出来るのは幸せである。急患は恐らく血管造影検査を行ない、ステントを入れて一時しのぎするだろう。

 バイパス手術で直前に打たれた筋肉注射は鎮静剤のようだが、とても痛かった。手術前に麻酔医がどんな音楽が好きですかというので、2001年宇宙の旅にあやかり、「美しく青きドナウ」をリクエスト、しかし、音楽が聞こえ始めると、あっという間に目が覚めて手術が終わっていた。7時間が無意識のうちで、まさに死んだ状態。また、手術直後は、じっとしていれば切ったところは大した痛みではなかった。ただ、少し動くと痛いのと、人工呼吸器を抜くときに息が詰った感じがたまらなく嫌だった記憶がある。ICUに入る時に運搬ベッドをガツンとどこかにぶつけて、壊してしまった。乱暴な看護師だ。そこで、ベッドを交換というより、ヨイショと体を持ち上げられて隣のベッドに移された。ウヒャー痛あー。その後ICUや回復室での安静状態は退屈なだけで鎮痛剤が効いている限りは苦しくなかった。鎮痛剤はロキソニンで4時間ぐらいで切れてしまう。2日後から数日間、肺に痰が溜らないように、ネフライザーで吸引し、咳をしてこれを出すが、切った傷を刺激してとても痛い。恐怖の咳である。これを1週間以上かけて続けた。開胸する時には、真ん中の胸骨を開いて、ジャッキのような金具で開くので、体側のあばら骨が痛かった。胸骨はチタンの針金で結ばれる。咳をすると切った骨の位置に激痛が走るのである。とにかく、手術後は体中、首から胸、腹、腕などに9本も管がついていて、身動き出来ない。体腔内に溜った血や体液を排出するドレーンとか、首の頸動脈にも針が刺さっている。苦しいことも多いから、やはり二度と体験したくないことである。2週間で退院出来たが、麻酔のせいか、半年程は体がだるくて、元の体調に戻るには結構時間がかかった。過ぎてしまえば、大した事なく、上手くいったといえるが、生死の境を彷徨うわけで、やはり大変な出来事であった。

 
 
 中国のような広大な国土と悠久の歴史、多くの民族と都市を我々には容易に理解することができない。中国と日本の交流は驚きの連続である。以前、中国人の事業家に、小生が理事をしている大学に留学生をもう少し増やした方がいいと思うのですが、と言うと、どれぐらいの人数が必要なのですかと言ってくれた。10名程でしょうと言うと、怪訝な顔をしている。そして、百人単位なら分るが、10名に絞るのは大変だという。来週、江蘇省のある市長が来日し、パーティを開くが、何と200人を引き連れてくる。びっくりである。数字に関する感覚が違う。

 鄧小平が改革開放政策で何をやったのか、その後の目覚ましい中国経済の発展は謎が多い。北朝鮮と中国は構造的には似ているが、経済発展では大きな差がついているように見える。天安門事件後、毛沢東の路線を大幅に改革したが、それは一体どのようなものであったのかである。人民公社を軸に、多くの企業が生まれた。製鉄、石油精製、化学をはじめ、消費物資も含め、殆どの企業は全くうまく機能していなかった。これを幹部の首を大幅にすげ替え、経済特区を作り、金融機関をはじめとする市場経済を築いた。若手の有能な共産党幹部の子弟が登場、彼等の多くがアメリカの経営大学院に留学、また、欧米の金融業や資本主義的経営手法をどん欲に学んだ。そのグループが太子党であり、その代表格は習近平である。彼は今回の訪米でもアイオワ州でのホームスティ先を訪問している。こうした企業経営刷新は日本の大企業より急進的に行なわれ、あたかも、日本の財閥が解体されて、サラリーマン重役が行動成長の原動力になったことに似ている。今も、中国の企業の幹部は共産党員が各層に浸透している。また、州市町村の長より配置された共産党の書記が大目付として事業、特に人事に影響力を持つ。企業や行政の幹部も40才代から50才代前半である。組織が若く目標達成意識が高い。そうした組織のコントロールの徹底ぶりはまるで、党と唯物論を軸にした宗教国家のごとくである。こうした人事的改革は、大きな影響があったに違いない。政権を支えている人民解放軍も巨大な産軍複合体である。党の権力を支え、これ自体が一つの国家的規模になっている。行き場の無くなった若者の吸収源でもあり、これが社会不安を防止する歯止めであり、これが暴走すると昔の日本や北朝鮮のようになってしまうだろう。
軍が膨張する時に歴史の中ではろくなことが起きていない。

 勿論、元の固定相場と対ドル平価の不均衡も大きな要素だ。これが中国の貿易黒字を招き、大量の米国債を保有、共産党に後ろ盾された強権的な都市開発と不動産バブル、軍需産業、都市部の生活向上と消費の拡大がその結果生まれた。そして、今後問題となるであろう地域格差、所得格差の固定化が進んで来た。さらに、知的所有権の侵害を公然と行なって来た。今、アップルのIpadが中国の商標権を侵害していると2,600億円もの訴訟となっている。盗人猛々しいのか、無神経なのか、訳が分からなくなる。そうした無神経なエネルギーが中国という世界なのだろうか。

 地域格差と所得階層分化の固定化が今の中国の政治体制を覆す規模になるには相当な時間がかかる。今の強大な人民解放軍で北朝鮮のような軍による不満層の封鎖が可能である。チベットや新疆ウイグル地区の民族運動の弾圧がよい例で人権抑圧が政治的には成功している。また、企業ー党ー政治が一体となった史上初の市場主義国家を彼等は、欧米などの資本主義国家を越えた優位性と自賛している。日本はこのような国と付き合う事ができるのか。市場主義と専制国家という二面性をどう見分けながら付き合うかであろう。中国には反日感情と同時に親日的な感情も存在する。国の将来を考えるとそうした善意の力を育成するしか無い。武力や攻撃的な政策は意味をなさず、両国に取って不幸なことである。
 
 地域や都市の差、階層社会における対応のみならず、間違ってはならないのは、日米との感関係を対中政策によって見誤らない事である。対米貿易は今や対中貿易に凌駕されているが、対外資産の規模は遥かにアメリカの方が大きいし、中国に輸出している貿易物資は、結局、これらも製品としてアメリカに輸出されているのである。だから、アメリカの景気は日中双方に大きな影響がある。特にマスコミや政治家は誤ったサインを国民に送らない事が大切であり、また、国民は勝ち馬に軽薄に乗ろうとする政治家をよく注意すべきである。鳩山元首相が主張したような日米中の等距離外交といったことを口にすることも著しく我が国の立場を悪くした。これまで、日本がアメリカに築いた人的、物的、資産を台無しにするのである。利害調整を使命とする政治家のすることではない。

 
 
# by katoujun2549 | 2012-02-17 16:27 | Trackback | Comments(0)
 世界の宗教のうち、キリスト教はカトリック、ロシア正教、プロテスタント、聖公会などであるが、2002年の集計で約20.4億人(うち、カトリック約10.8億人、プロテスタント諸派計約3.5億人、正教会約2.2億人、その他教派約3.9億人)であり、イスラム教徒11億人、ヒンドゥー教徒10.5億人を超えている。キリスト教の旧約聖書とコーランにある創世記のアブラハムを始祖とする点では31億人が共通の教典を信じている。ユダヤ人も1400万人おり、これに加えられるであろう。では、20億人のクリスチャンは一体何を信じているのかということだ。教会に行って礼拝する人がキリスト教徒であるならば、何を祈っているのか。これが日本ではどこまで、理解されているのだろうか。日本人がお寺でお経を聞く、あるいは神社で祝詞を聞くのと、教会で説教を聞いて祈るのとどう違うのだろうか。日本人がお葬式でお坊さんが声を上げてお経を読んでいても内容を理解している人はどれだけいるのだろう。また、神社で神主が導くそこの神社の神のことを分っているのだろうか。殆どの人はどうでもいいような感じ。ところが、キリスト教の場合は、キリストの言葉と十字架、復活を信仰している。その内容は至ってシンプルである。

 旧約聖書ではユダヤ民族の神と民族との関係が延々と語られる。一神教である神をイスラエルが時には離反し、偶像崇拝におちいり、神の怒りによって離反と捕囚の苦しみを受けた。しかし、イスラエルは神によって約束の地を与えられるという信仰を持ち続け、今日のイスラエル建国に至っている。しかし、イエスキリストは、歴史を自らの存在によって断絶する。バビロン捕囚後カナンの地に戻ったユダヤ人はローマ帝国の支配下に置かれる。そうした政治的苦難からの現実的解決を待ち望んだイスラエルに対してイエスキリストは自らのユダヤ社会における正当性を訴え、独自の神との関係を民衆に説き続けた。ユダヤ人の既存勢力はイエスを十字架への道に送る。
 イエスが十字架の苦しみを乗り越えて述べた、ポイントは、現実世界と共に、人には霊の働きと霊の世界があることである。聖書には「マタイ5:4 敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と道徳的な言葉もあるが、その中心は何とも普通の日本人には理解し難い十字架の死と復活、死者の復活を信じるということである。これらは信仰によって成り立つ言葉であり、信仰無くしては受け入れ難い。このことが、その後に生まれたイスラム教とも全く異なるのである。

 イスラムはキリスト教の律法は不完全であるという。これをコーランによってムハンマッドが啓示を受けて完成させた。その教えはユダヤの律法をさらに強化し、日常生活の細部にわたる戒律となった。キリストが律法からの解放を訴えたのとは逆である。しかし、その律法は法学者によって時代に応じて解釈される柔軟性があり、今日のイスラムが民衆に受け入れられている所以である。
 キリスト教は父と子、キリストと聖霊の三位一体といった本質を外れた神学を作り、一神教から逸脱したと非難する。しかし、キリストのメッセージはひとえに、この聖霊、神が愛であり、そして死に対して復活があることを、イエスが伝える為に世に遣わされたことを、あらゆる場面と、たとえ話、さらに、旧約聖書の解釈を自らのユダヤ教パリサイ派、サドカイ派との論争を通じて述べている。

☆ヨハネによる福音書
4:24 神は霊である、だから神を礼拝するものは、霊と真理をもって礼拝しなければならない。
6:63 命を与えるのは霊である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたに話した言葉は霊であり、命である。
そして、最も重要な事は、神の計画は人間の救済であり、その中心は愛である。そして、その愛の行為として、死を克服する力として復活の希望があることが、信仰の中心である。これは神がこの世界を築いた目的を完成させ、世界に神の再臨を預言することで完成する。このことをイエスキリストは十字架の死と自らの復活を示す事で我々に伝えたのである。
 復活ということは、仏教や神道、また、他の宗教には無い信仰である。この復活の信仰を伝える為に、イエスキリストの11人の使途とパウロは命をかけた伝道を行なった。また、その後も、キリスト教信仰の中心的メッセージである。この死者の復活信仰を持つ人々が20億人もいる。「信仰」ということであって、これは科学ではない。日本人が最も理解しにくい事がこの復活信仰という事ではないだろうか。この復活の希望こそキリスト教の中心である。

☆コリントの信徒への手紙一15章では復活の信仰について正面から向い解いている。
4;「すなわち、キリストが聖書に書いてある通り私たちの罪のために死んだこと。葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと。ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで五百人以上の兄弟達に同時に現れたました。」
16〜32
21:死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。
29:そうでなければ、死者のために洗礼を受ける人たちは、何をしようとするのか、死者が決して復活しないのなら、なぜ、死者のために洗礼を受けるのですか。
32:もし、死者が復活しないとしたら、「食べたり飲んだりしよういではないか、どうせ明日は死ぬ身ではないか」ということになります。
まことに、雄弁である。この真正面からの問いかけを受け入れるかどうかである。そしてキリスト教の信仰も、教会もキリストの復活を伝える情熱によって今日に至るまでその歩みを続けている。
# by katoujun2549 | 2012-02-16 21:15 | Trackback | Comments(0)